第六話:家族─ヴァニシングポイント─

 ♢I


 これはユウリの通う高校に神が試練を与えるように、巨大な怪物が出現した春の夜の事。それはその同時刻。


 街中には春の夜の冷たい風がいつも通り流れていた。

 そして、その風を強調するように小さな建物が乱立するその裏道で一人の女性がそそくさと歩いている。

 女性は冷たい夜風が吹くものだから、季節外れのコートを着込んでおり、なんとか寒さを耐えていた。

 いつも通りの日中の仕事を終え、早く家に帰って家事をしようだとか、今週から見たいドラマがあるから早く帰りたいとか、日常的な思考をしながら、街頭もないような裏道を帰る道中。


 いつも通りの帰宅路にはない“もの”が、小さな民家に挟まれた細い道にあった。


 それは……土。


 月明かりしか照らすものがない中、女性は目を凝らして凝視した。

 まるで墓石のように立ち尽くす、女性と同じほどの大きさの土。

 はじめは女性もそれを土だとは思わなかった。なにせ月明かりでその全体を見るのは難しい。しかし、いつも通りの帰宅路に果たしてこんなものがあっただろうか?誰かがここに置いたのだろうか?

 しかし女性は瑣末な事だと思った。いつも通りの道を歩いていたら、土がある。その程度の事。

 女性はいつも通り、帰宅しようとした。


 そして、再びそそくさと歩き、土のような塊を通り過ぎようとした……その時だった。


 恐ろしく何も感じない風が、女性を包み込んだ。


 女性は土を見た。

 土は何もしない。

 しかし春の風とも思えない風が、女性に静かに吹き荒れた。

 どうして冷たい風とも言えないのか、それは何も感じない。本当に何も感じないのだ。暖かさとか冷たさも感じることはない、ただの風。しかし風は女性の体を包み込み───掴んだ。


「ッ!?」


 女性は驚愕の表情を見せながらも、何も出来なかった。

 それはまるで神の大きな手が小さな人を包み込むように、女性の体を微動だにさせず、しっかりと掴み取る。だから女性はか弱い力を振り絞ってもどうすることも出来なかったのだ。

 手足はおろか、その首を土の方に傾けることは出来なかった。

 だからその土が徐々に変わっていくことにも気付かなかった。


 ───土が怪物になっていくことに。


 まるで神が土をこねくり回して生命を誕生させるように、その土はそれぞれ二本の歪で荒れた大地のような手足を形成していく。無論、人間ではない。その胴体はうねりながら渦を巻く風のように形成していく。しかし、その顔に当たる部分は存在しない。

 つまり土の手足と、風の胴体を持つ歪な怪物。魂を無くした人間がネクロノミコンに歪められて生まれた、この世の理を覆す怪物ネクロフィア


 土はその手を向け、女性の体を掴もうとした。

 目的の為。しかしそれは自身の目的ではない。怪物はあくまで神の遣いに過ぎない。

 全ては創造主の為に動く、人形。

 

 女性はそんなことも知らないし、知るすべもない。

 この状況で分かることは……自分の生命の危機。


「誰か助けてェェェッ!!」


 女性は叫び声を上げた。

 春の冷たい風にも届くほど、大きな叫び声を。

 その命の叫びに気付き、一斉に民家の窓が開いて住民たちが顔を覗かせようとしたその時だった。


 ───瑠璃色の炎が怪物たる風と土を全て飲み込んだ。


 それはまるで神の一手。

 

 透き通るほど、また濃くもあり鮮やかな青い炎。

 それがどこから、誰がしたかは定かではない。分かっていることは……

ライターを点火するほどに早く炎が怪物を包み込み、一気に燃やし尽くしたということ。


 瑠璃色の炎は風に吹き飛ばされることなく、逆にその風を抑え込み、勢いを消していく。

 瑠璃色の炎は土に鎮火されることなく、逆にその土を黒く焦がし、一瞬にして土は再び大地に還るように崩壊していく。


 女性の掴まれた体は自由になり、その場に座り込んでしまう。

 異常な事態だと察した住民たちは民家から慌てて外に出たが……その目に飛び込んだのは女性、ただ一人。


 女性が腰を抜かしてしまったと同時に炎は鎮火し、そして風もいつも通りの春の風へと流れ、土は痕跡を残さぬままに消え去っていた。


 一瞬の間に何が起きたのか、誰にも分かることはない。


 唯一知るのは……その路地裏を見渡せるほどに大きく、されど20mほどの小さなビル。その屋上で不法侵入のように立っている神の如き、

 漆黒の体と赤い炎の結晶を右胸部に埋め込んだ、まるで死の神とも思わせる奇怪な戦士。


 されど紅蓮の結晶を青く点滅するように光らせ、怪物が死んだことを確認すると白仮面の戦士はただ何も言わず───消えた。


 その身を青い炎で燃やし尽くし、自らの命を春の世に散らすように……ただ忽然と消えた。


 ♢Ⅱ


 いつも通りの朝……ではなく、いつもとは違う朝。

 ユウリが目を覚ましたのは……白い天井。灰色のような壁。白いシーツの硬いベッド。ベッドの横には壁際に打ち付けられた机、壁に備え付けられたテレビ。

 そして……目を瞑ったまま動くことはない、木製の膝掛け椅子に座るレイ。


「……レイくん?」


 ユウリは第一声に声を掛けた。

 しかし目覚めることはない。ずっと首をかくかくと小さく動かし、小さく息をしている。どうやら座ったまま、眠っているようであった。


「……起こしちゃダメだよね」


 ユウリはレイに気を遣って静かに布団をめくってから体を起こす。すると自身でも驚いてしまったのだが、それはいつも通りの寝間着ではなく、いつもの高校の制服だった。どうやら制服の姿のまま、眠ってしまったらしい。


「………ここはどこだろう?」


 ユウリにとって、今のこの部屋はいつも通りの自室ではなく、全く知らない部屋。

 幸いにもベージュのカーテンで光を遮られた出窓は存在する。ユウリはベッドから出て靴下のまま、ベッドの後ろ側の位置した窓へと歩く。床はパイル調のカーペットのようになっており、どうにも歩き心地は悪い。

 しかし現状が知りたいユウリにはそのような瑣末ごとは気にしていられなかった。

 すぐに窓の前に立つと、両開きのカーテンを静かに開けた。


 そうすると目の前に広がる景色は……間違いなくいつも通りを過ごす長谷川市の光景。

 

 まるで神が人間を見下ろすように見える、その光景。

 どうやら大きな建物にいるらしく、真下の風景は大きな川が流れており、実にのどかな風景に感じられる。川の向こう側にはしばらく田んぼ道が広がり、それを抜けると小さな建物が並ぶ。市役所や警察署、消防署を超えて、その先には……長谷川中央高校。

 いつも通りの日常を崩された……長谷川中央高校が。


「……そうだ、思い出した」


 春の暖かな光を浴びて、ユウリは一瞬の内に思い出した。

 ユウリは不意にレイを見つめた。


「…………───────」


 レイはまるで寝言のように言葉を呟いた。おそらく本人は無自覚で発しているのだろう、ユウリはそっと近づき、レイに聞き耳を立てる。


「…………◯◯◯◯◯◯◯。……………◯◯◯◯◯」


 ユウリはレイの言葉が全く持って理解出来なかった。なにせ聞いたことのない言葉の上に、それはまるで知らない言語に聞こえてくるからだ。言ってみれば日本語だとか英語だとか、そんな次元ではない。その次元の話。

 どうしてレイの口からこんな言葉が出てくるのか、そもそも敷地内だったり趣旨だったりの言葉を知らない人間から、そんな言葉がどうして出てくるかの疑問はさておき。

 ユウリは首を傾げながら、レイに顔を近づけ、何気なくその寝言を聞いていた。


「…………誰だ……お前……知らない……俺は知らない……」


 ……どうも、うなされているらしい。

 レイはいつの間にか否定するように首を横に振り続け、その顔は険しい。

 普段無邪気な態度を見せるレイからは見られない。険しい表情。

 

「……レイ?」

「…………誰だ……俺に入ってくるな………俺に入ってくるなよ……俺は……◯◯◯◯◯……いや違う、レイ。レイだ……がつけてくれた……親父がつけてくれた……俺はレイだ……」


 再び聞こえてくる、知らない単語。

 しかし一つだけはっきりと聞こえた。

 。レイの父親だろうとユウリは察することが出来た。出来たのだが違和感を感じた。どうして違和感が出てくるのはユウリには分からない。だが同時に奇妙な気持ちにもなる。

 普段感じるモヤモヤした気持ちを払拭してくれるような気持ち。

 まるでレイの顔を見るような安心感。ハルアキという言葉がユウリには少しずつ暖かみを感じるようになる。

 ……昔を思い出させるような、そんな安心感。


 それはレイも同じらしい。

 レイが自身の名を、そしてハルアキの名前を読んだ瞬間。

 その表情からは危機が消え去り、いつも通りの無邪気な笑顔に変わった。


「………親父、ありがとな」


 そう呟いた、その瞬間。

 レイは急に目を開いた。


「…………ん」


 レイは辺りを見渡した。

 そこには、ユウリの顔があった。


「……長髪で制服の人じゃん、何してんだよ」

「…………あ」


 間近でレイに見つめられたユウリはすぐにその顔を離して、一歩を距離を取った。

 寝言を聞くのに必死で、顔を近づき過ぎていたのだ。


「うん、大丈夫。大丈夫だよ」

「…………なにが?」


 レイは首を傾げるも、ユウリは話題を逸らすように問いかけた。


「大丈夫、レイくん。すごくうなされてたよ?昨日の戦いの疲れ?」


 寝言を聞くに、ユウリにはどうにも昨日の戦いとは思えなかったが、ユウリはそう言った。

 レイは当然の如く「いいや」と否定しながらも、首を傾げた。


「なーんか変な夢だったんだよなぁ……。いや見た夢はぶっちゃけ覚えてないんだけどさ。でもなんか変な夢。変な夢は変な夢なんだけど、なんかなー……」

「そんなに変な夢だったんだ」

「あぁ、そうなんだよ。でもさ……なんかさ、安心も出来たんだよな」

「安心?」

「そ、俺はレイでいいっていう安心。ま、レイって名前以外はあんまり安心出来ないしな。俺はやっぱりレイだよ、うん」


 レイは一人で納得して、すぐに立ち上がる。


「それよりさ。大丈夫か、長髪で制服の人。疲れたんじゃねえか?」

 

 レイはユウリを案じるように発するが、ユウリは笑みを浮かべて首を横に振る。


「私はもう大丈夫だよ。あのあと愛衣蔵さんも来てくれたし……そっか。そうだよね。愛衣蔵さんがここに泊まるように言ってくれたんだよね」

「そうそう。また怪物が出ないとも限らないしな。ずっと長髪で制服の人を見張ってたんだぜ!?偉いだろ!?」

「……いや、寝てたよね」

「寝ちゃダメなのかよ」

「寝てはいいんだけど……ずっと見張ってるっていうのは語弊があるというか……」

「ごへい?」

「…………そうだよね。確かにずっと見張ってくれてたもんね。ありがと、レイくん」


 感謝の言葉にレイは満足げな笑みを見せる。

 この件に口を挟むとユウリも火傷を負いかねないので、言及するのを止めた。


「さてと、偉そうな人に連絡しないとな。長髪で制服の人も起きたことだし」


 レイは体をほぐすように伸ばし、上着のポケットからスマートフォンを取り出して画面を見ると、操作はせずに何故か眺めていた。


「……レイくん、どうしたの?」

「なんか偉そうな人からメッセージが来てた。しばらくホテルで朝食でも取ってゆっくりしてろってさ」

「そうなんだ」


 ユウリはそっけなく言ってしまうが、ふと気付く。


「……そういえば学校行かなくていいのかな、私たち。このままじゃ不登校になっちゃう」


 しかしレイはメッセージを読みながら、言った。


「なんか学校に行かなくていいらしいぜ?休校になったとか、なんとかで」

「……まさかとは思うけど、愛衣蔵さんが休校にしちゃったとかないよね」

「どうだろ。ま、なんでも出来ちゃうような人だしな、偉そうな人って」

「……そこは否定してよ」


 とは言え、とユウリは思う。

 昨晩、校舎の一部が破壊されており、それが連日のように続いている。そうなると生徒の身を案じたりで休校になるのは致し方ないと、ユウリは自分本位に感じてしまう。

 となるといつも通りの学校の一日が、いつも通りではないレイといる日常に変わるわけで。


「ま、偉そうな人の言うとおりめしでも食いにいこうぜ。どこに行けばいいかわかんねえけど」

「多分、下の階とかじゃないかなぁ。愛衣蔵さんのメッセージには何も書いてないの?」

「あ、書いてたぜ。なんか机の上にチケットがあるから、それをレストランに持っていけってさ」

「レストラン?」


 なんて仰々しい言い方なのだろうとユウリは偉そうな人こと愛衣蔵ハルカの発言に苦笑しながら、壁際の机を見やった。

 そこには確かにチケットが存在した。

 …………長谷川市の高級ホテルの名を冠したチケットが。


「…………え」

「どうしたんだよ、長髪で制服の人。早く行こうぜ?」

「う、うん」


 まさか眺めるだけだったホテルに意図せず来ることになるとは、偉そうな人という名前は伊達じゃないなと思う他所で。

 ……いまだにレイの寝言を気にしてしまっていた。


 ハルアキという四文字を。


 ♢Ⅲ


 さて。

 以前に不法侵入してしまったユウリは妙にそわそわしつつ、不法侵入したつもりすら未だないレイは一緒にレストランへと向かっていく。高級ホテルらしくシミひとつもない綺麗な床の廊下を二人で歩いて行き、エレベーターでレストランへと降りていく。

 そうこうしているうちに建物内のレストランへと辿り着いたが、ユウリはその光景に思わず唖然とした。


「……本当の高級レストランだ」


 そして思わず言ってしまった。

 よくドラマや映画などで高級レストランが映し出されることはあり、ユウリとしては「一生行くことはないだろうな」とのんびり見ていたのだが……そこは絵に書いたような高級レストランだった。

 よく教育されたウェイトレスが「チケットはお持ちですか?」と仰々しく丁寧に質問してくるのでユウリは妙に慌てた気持ちになってしまう。こんな時のマナーなどは持ち合わせていないのだ。

 しかし、いつも通りのレイは違う。


「あるぜ!これだ!」


 高級レストランには似つかわしくない大きな声で、その手に持っていたチケットを二枚掲げる。おかげで朝食に来ていた宿泊客はまるで似つかわしくない子どものような声の主を一斉に見やる。

 しかしウェイトレスはそんなことでは動じない。

 ただにこやかに「ありがとうございます」と例え自身の年齢から下回る相手だろうと丁寧すぎるほどのお辞儀をしてみせ、「こちらへどうぞ」と窓際に近い席へと案内する。

 朝食はバイキング形式であり、ウェイトレスがその説明をするといつも通りな丁寧で淀みない様子で去っていく。


 ユウリとレイはそうしてバイキングの料理を取っていき、案内された席へと戻っていく。


 そして朝食を取りながら、ユウリはふと今朝のことについて問いかけた。


「ねぇ、レイくん。ハルアキって誰?」

「ハル……?ハルキ……アルキ?」

「ごめん、そうだった。名前覚えられないんだった」

「わり。で、誰だよ、それ」

「覚えてないの?レイくんが言ってたよ?」

「俺がぁ?」


 レイはその事に酷く驚いた様子を見せた。

 レイは名前を覚えられない。覚えたとしてもすぐに忘れてしまう。

 それなのに自分がはっきりと人の名前を言っていたらしいことに、驚かないわけがなかった。


「いつだよ?」

「今朝。多分変な夢を見てた時だよ。レイくん、寝言でいろんな言葉を言ってたんだけどね。でもハルアキって言葉だけは聞こえてきたの」

「うーん、全く分からね……。どんなやつなんだろ」

「親父って言ってたよ」

「親父………うーん」


 レイは朝食を口にしようとした手を止め、考え唸る。


「親父、かぁ。なんだか実感わかねえや。俺に親なんていねえしな……いや、神様が一応は親ってことになるのか?」

「……また変なこと言ってる。真面目に答えてよ」

「いや、真面目に答えてるって!本当にそうなんだって!」

「はいはい、分かったから…………」


 ユウリが呆れ混じりに返すものの、「そういえば」とふと思い返す。

 レイがハルアキという言葉の前に発していた言語化の不能な言葉の数々のことを……。


「まさか……それが神様の名前じゃないよね」

「なにが?」

「何がって言われたら……発音がすごく難しいし、覚えてないんだけど。でもレイくんが寝言で言ってたよ?」

「もしかして◯◯◯◯◯◯◯と◯◯◯◯◯のことか?」

「……なんで名前は覚えられないのに、それはスラスラ言えるの……?」

「だって神様って人じゃねえしな、なんか物みたいなものだからかな。ま、俺も神様に関してはよく分かってないこと多いしな。というかほとんど知らねえや」

「そうなんだ。じゃあハルアキっていうのは神様なの?」

「なんでそうなるんだ?」

「だってレイくんが見てた夢に発音が難しい神様とハルアキっていう人が出てきたってことでしょ?だから同じ括りになるのかなって」

「じゃあ俺がその……ハル……ハラマキ……?とりあえずそいつの名前を今言えないとおかしくね?」

「…………そういえば、確かに」

「というかなんでそんなにさ、その名前が気になるんだ?」


 レイの質問に今度は朝食を前に考え唸る番だった。


「うーん……なんでなんだろう……なんだか不思議な気持ちになるからかな」

「不思議な気持ち?」

「私ね、レイくんといると普段感じているモヤモヤがなくなる気がするの。なんだか安心できるっていうか」

「俺もだぜ。長髪で制服の人と一緒にいると俺もいつも通りな気がして安心できるしな」


 恥ずかしげもなく発するレイの言葉に、戸惑いながらもユウリは続ける。


「……でね。ハルアキって人の名前を聞いた瞬間、なんだか変な気持ちになったの。なんて言うんだろ。違和感っていうか」

「違和感?あー、でも俺もそれは思ったな。俺に親父なんていないし、そもそも知らないし。本当に赤の他人って感じ」

「そんな感じなのかな。でもね、その違和感と一緒になんだか安心できるような気がしたんだ。なんだか名前を聞くと、いつも隣でいてくれたような……そんな安心感。多分レイくんも夢を見ていた時、同じ気持ちになってたと思う。私を受け入れてくれるような、そんな安心感」

「……確かにそうかも」


 ユウリの言葉に頷き、レイは再び朝食を見つめた。

 ありとあらゆる料理を丸皿に混合させた混沌とした朝食を。


「俺に親父なんていないし、神様から見放されてるって感じだけど。でも名前は言えなくても、安心はできるな。なんというか、俺がレイでいていいっていう安心感。俺は◯◯◯◯◯じゃなくていいっていう感じ」

「…………寝言でも言ってたけど、その名前はなに?」

「俺の本当の名前。神様がつけてくれたんだ。正直あんまり気に入ってないんだよな。なんだか神様の一部みたいな気がしてさ。俺の意思なんて関係ないっていう感じもするし。でもレイって名前はさ。俺って感じがするんだよな。俺の意思があるって感じ。神様の物じゃなくて俺自身だって。それを認めてくれる気がする」

「私と同じだね。自分でいていいっていう意味だと」

「だよな……でも」


 レイはその混沌とした料理から一つ、小さなハンバーグをフォークで思い切り差し込んで、持ち上げる。


「覚えてないんだよな、そいつのこと。そもそも知らねえし」

「それが不思議だよね。でも寝言で言ってるから、無意識的には覚えてるってことじゃないかな」

「……はぁ、なんだかモヤモヤしてくるなぁ。あれだな、いつも感じるモヤモヤと一緒。何か大事なものが無くなった気がする気持ちと一緒だぜ」

「もしかしてだけど」


 ユウリは区切られたワンプレートに綺麗に盛り付けたバイキングの料理から、レイと同じ小さなハンバーグを一つ、箸で摘み上げた。


「ハルアキって人がモヤモヤの原因なんじゃないかな、安直だけど」

「そうかぁ?」

「分かんないけどね。でもレイくんは覚えてないのに、覚えてるってことでしょ?多分ハルアキって人とどこかで会ってると思うな。そうなると、なんで私がハルアキっていう人の名前に安心感を感じるのかが分からないけど」

「長髪で制服の人も会ったことあるんじゃないのか?」

「多分そう言うことだよね……でもどこで会ったんんだろ」


 そう言いながらレイを見つめる。

 レイとはまだ数日しか関わりがない。

 けれどもいつも通りの安心感を感じる。

 そして、ハルアキの名前を聞いた時も同じようにいつも通りの安心感を感じる。

 ……今までずっと一緒だったような安心感。

 いつも一緒……つまり家族。


「レイくんと家族って……ないない」


 そう言ってふと笑いながら、ユウリはハンバーグを口にした。

 小さいながらも肉汁に溢れ、いつも食べるタダユキのハンバーグよりも格段に美味しく感じる。さすが高級ホテルのレストランと唸らざるをえなかった。


「な!?なんで俺が家族だと、ないんだよ!?」

「だって騒々しいし、絶対レイくんと家族になったら毎日大騒ぎだよ」

「俺、そんなに滅茶苦茶してる自覚なんてないぜ……」

「だろうね。それよりもそのハンバーグ。食べてみてよ。美味しいから」

「え、マジかよ!?」


 その言葉に促され、レイはハンバーグを口に運ぶ。

 そして口にした瞬間……レイは目を見開いた。


「うめえッ!ここのハンバーグは絶品だな!」


 いつも通りの高級ホテルなら轟かないような絶賛の声。

 そんな無邪気な絶叫に思わず周りの客たちは一斉に目をやる。


「……やっぱり騒々しいじゃん」


 ユウリは苦笑いしながらも、いつも通りの反応なレイを見て、やはり奇妙な安心感を覚えてしまう。

 ……昔からこんなやりとりをしていたんじゃないかと思うほどの安心感を。


 ♢Ⅳ


 いつも通りではない朝を過ごしているのはユウリだけではない。

 午前9時、すでに開店時間を迎えているのにも関わらずガラス張りで両開きの扉。その店内側の取手に、外から見えるように「close」と書かれ、ぶら下げられた木製の小さな看板。

 その店内の四人掛けのテーブルに向かい合わせに座る者、それはタダユキ、そして愛衣蔵ハルカ。


 いつも通りの店内と言わんばかりにラモーンズの楽曲が鳴り響く。

 しかし響く「Pet Sematary」はどこか陰鬱な空気さえ感じられた。


「まずはお礼を言わせてくれ、愛衣蔵さん。ユウリを助けてくれて」


 タダユキはハルカに深々と頭を下げた。

 そうした後のタダユキの表情は……どうにも深刻な面持ちを見せていた。


「いえ、こちらこそ申し訳ありません……あなたの御息女を危険な目に」

「いや、感謝してるよ。まさかユウリがそんな目に会っていたとはな……父親失格だよ。愛する娘を守れなてなかったんだからな」

「そこまで気を落とす必要はないかと……なにせ相手は───」

「怪物だろ?確か……怪物ネクロフィアだったか?」


 タダユキは確かにそう言った。怪物ネクロフィアと。

 しかしハルカは何も驚くことはなく、話を続けた。


「やはりご存知でしたか」

「まぁな。多分あんた方がこの街に来る前から知ってると思うぞ?」

「ちなみに怪物のことはどこまで把握を?」

「怪物の名前、あとはネクロノミコンが関係していると言うことぐらいか」

「情報は私たちと同じ、というわけですね」

「愛衣蔵財団がその情報を知っているとは思わなんだ。あんたの財団は自然保護と開発研究の出資が主だとニュースで聞いたことがあったんだが?怪物の件はどっちになるんだ?」

「怪物の件に関しては両方とでも言えるでしょうか……?怪物がいることで地球の生態系の崩壊や自然の消滅は考えられますし、怪物に対する研究も重要です。今後、人類がどう対抗できるかの研究とでも言いましょうか」

「苦し紛れの説明だな」

「それほどまでに非常事態だとご理解いただければ」

「さもありなん、というやつだ」


 タダユキは自分で用意した珈琲を口にする。

 朝から自分の思考を冴え渡らせる為にこの一杯は欠かすことは出来なかった。


「まさか、とは思うがと言わないよな?」

「察しが良くて助かります」


 ハルカの返答にタダユキはため息を吐きたくなるが、息を飲み込むように耐える。


「ま、確かにレイ一人だけじゃ手に追えないよな。特に昨日のやつ……そんな巨大なやつなんて俺も見たことがなかった。よくそんなやつを倒せたな」

「さすがのレイも苦戦したようです……神様の力で倒せたとは聞いたのですが」

「まだあいつはそんなこと言ってるのか、笑えるな」

「えぇ」


 ハルカは同意するものの、その顔は全く笑ってはおらず、深刻な表情を崩すことはなかった。


「今回の件は初めてのことばかりです。そこまでの強大な怪物が出現したばかりか、レイが全く別の場所に転移し、あの子の言う神の力を借りた……何かが起こり始める前兆だとは思いませんか?」

「……」


 タダユキは無言で再び珈琲を飲み、その液面を見つめた。

 漆黒の液面、そこにちらりと映り込む自分の姿を。


「確かにここらへんで共闘した方がいいな」

「では」

「だが一つ確かめたいことがある」

「何を?」

「レイについてだ」


 ハルカは当然と言わんばかりに頷いた。


「それはそうかも知れませんね。あなたにとってレイはまだ分からないことが多すぎるのですから……私にとってもそうですが」

「最近ユウリと仲良くしているようだが、ちゃんと見合うかどうか俺がしっかりと確かめてやるよ」

「……なにをなさるおつもりで?」


 タダユキは眉を細めたハルカの顔を見つめ、不敵に笑い、告げた。


「なに。ただ娘の男友達には父親として一発かましておくのが道義というものだろ?」


 タダユキの言葉に、ハルカは躊躇いもせずにただ、深々とため息を吐いた。


(第六話:家族─ヴァニシングポイント─完)

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