第四話:侵食─ゴッドハンド─

(1−1)


 いつも通り訪れる朝。

 ユウリの部屋に取り付けられたカーテンは春を招き入れるように開けられ、挨拶がわりに暖かな光が部屋を照らす。

 すでに着替え終わったユウリは肩にまではかからない長髪の自分の姿を姿見で見つめ、問いかける。


「……私って、これであってるよね」


 他人から見れば、不可思議な問いかけに見えるだろう。

 しかしユウリはいつも通り、感じている。自分の中にあるモヤモヤを。何か大事なものを無くしたような感覚を。

 それが何かと言われてみると、自分でも未だに分かってはいない。

 だが最近……その感覚が薄れる時はある。

 それは……レイ。

 つむじ風に巻き込まれたような出会いではあったが、どうもレイを見ているとユウリは安心できた。正確にはレイの顔を見ると、昔から見慣れたような安心感が芽生えるのだ。

 しかしそれ以上に安心できるのは……自分と同じ気持ちを抱いていると言うこと。その共通点はまるで仲間のような気持ちにさせてくれる。

 

「うん、合ってる。これで合ってるんだ」


 ユウリは姿見に映る自分の姿に言い聞かせる。

 レイがいれば大丈夫。

 ……例え、レイと住む世界が違いすぎると言えども。

 

 春の光は、ユウリの全身へ希望を与えるかのように照らす。


「行こ」


 今日もまた、いつも通りの日常が始まる。

 ……最もそのいつも通りは徐々に変わりつつあるが。


 ♢(2−1)


 いつも通りの日常が崩されたと感じたのは学校に行く途中で、キョウコに会わなかったことだ。いつも通りなら朝の早い時間にキョウコと合流し、いつも通りの会話をしつつ、いつも通り校門をくぐる。


 されどキョウコは桜の花々が巻かれた通学路に一才姿を見せなかったし、そればかりか連絡をしても既読すらつかなかった。春だと言うのに、冬のような冷たさを感じつつも、ユウリは不安になってしまった。なにせキョウコはすぐに返信を返してくれる少女だったから。

 そうして一人で春の暖かな風を浴びながら校門をくぐり抜けた時だった。


 一番手前側の一号棟、その前にある駐車場に再びパトカーが止まっていた。そして中には見慣れない黒い車さえ止まっている。ユウリはその車を見て「なんだか偉そうな車」と少し思ってしまう。

 はて、まだ一年五組の教室の件で来ているのかと思いながら、代わりの簿記室に向かった。

 ……だがユウリは唖然としてしまった。


 簿記室に辿り着くと、そこは綺麗さっぱり何もかも無くなっていた。

 ……まるで季節外れの台風が全て薙ぎ払ってしまったかのように。


 そしてそこには……いつも通りの高校生活にいるはずもない者がいた。


「あら」

「あれ、長髪で制服の人じゃん」

「え……?」


 窓ガラスが全て破られ、至るところに亀裂の入った簿記室の中央で二人の人物が春の光に照らされていた。

 一人は喫茶店でいつも通り会うはずのレイ。

 そしてもう一人は昨日出会ったばかりの偉そうな人……ではなく正真正銘の偉い人、愛衣蔵ハルカだ。


「どうしてここにいるんですか……?」

「確かにそう聞かれるのは当然ね。あなたはここの生徒だし、私たちの方がある種の異物だもの」

「え、俺と偉そうな人って異物なのか?物なのか?」

「そういうことを言ってるんじゃないのよ、レイ」


 レイはいつも通りな調子を崩すことはないものの、ハルカはユウリを実に不可思議な面持ちで見つめた。


「そう、あなた。この教室の生徒なのね」

「……正確には違うんですけど、今はそうです。……使ってた教室は怪物が出てきて窓ガラスが破られちゃったので」


 ユウリは一瞬言うのを躊躇った。しかし昨日の刀の件でユウリのことは多分調べられていると思い、正直に言った。

 ハルカは「そうね」とさも当然であるかのように言葉を続けた。


「あなたが怪物について知っているのなら……知って欲しくはなかったけど、だけど話は早いわね。正直なことを言うと、ここに怪物が出てきたのよ」

「……怪物?え、でも怪物がまたこの学校に出たってことですか?」

「そう。また」


 ユウリの表情が一気に不安なものへと変わる。

 まさかいつも通りの日常に再び現れるなど、夢にも思わなかっただろう。しかしそれだけではない。


「しかもあなたのように巻き込まれた人もこの学校にいる。幸い怪我だけで済んでいるけども……」

「そうなんですか!?一体誰なんです……?」

「雲野さんという女子生徒が一名と中谷さんという男性教諭が一名、怪我が襲われて───」

「キョウコが……!キョウコが襲われたんですか!?」


 その言葉の衝撃は普段おとなしげなユウリに声を荒げさせるのに十分な理由だった。まさか唯一無二の親友があの怪物に襲われたとは夢にも思わなかったから。


「落ち着いて、と言っても落ち着けるわけないわよね……。でも安心してちょうだい。雲野さんは命に別状はないから。……ただ打ち所が悪くてね。骨折してしまって……」

「そんな……」

「わりい。長髪で制服の人」


 言葉を発したのはレイだった。


「俺が早く来れればよかったんだけどな……。本当にごめん」


 レイが険しい表情をして、ユウリに対して頭を下げる。

 こんな一面もあるんだな、とユウリは思いつつも、レイのことを責めることはしなかった。


「ううん、レイくんは悪くないよ。むしろまた助けてくれたんでしょ?今回はキョウコのことを。何回も助けてくれるんだから感謝しかないよ。ありがとう、レイくん」


 ユウリが逆に頭を下げると、レイは頭を上げながら、なんだか照れ臭そうにぼさつく髪の毛を指で掻いた。


「……偉そうな人から言われるありがとうと、長髪で制服の人から言われるありがとうってなんか違うな。なんでだろ」

「日常的に言われる感謝の言葉と、あまり言われない感謝の言葉じゃ重みが違うからよ。レイ」


 ハルカはそうレイに微笑みながら語りかけるも、同時に困ったような表情を見せた。

 それはレイに対してではない。


「けど二度もこの学校に出てくるなんて思わなかったわ……。これまでのパターンでは同じ場所に出てくるなんてなかったから」


 ハルカの言葉に対して、いつも通りの調子を取り戻したかのようにレイは推測するように言った。


「なぁ、やっぱり誰か裏で糸みたいなものを引いてるんじゃないのかよ。偉そうな人も言ってたじゃんか」

「そう推測して行動する方がいいかもしれないわね、最も誰がという点はわからないけど」

「あ、あの……」


 ユウリは恐る恐る言葉を発した。


「なにかしら?」

「この騒動って誰かが意図的にやってるってことですか……?」


 ハルカは右手の人差し指と中指で自身のひたいにこんこんと当てながら、妙に神妙な面持ちを見せた。


「本当はこんなことを話すべきではないんでしょうけど……そうとも言えるし、そうでないとも言えるわ。なにせまだ情報が少なすぎるから」

「それって怪物のことですか?」

「そう。私たちはこの怪物のことを《ネクロフィア》と呼称してるけど本当の名前なんて分からないわ。ネクロノミコンから生み出されたらしいってことは推測できるけど」

ネクロノミコン、ですか?なんですか、それ……」


 そんな言葉をユウリは聞いたことがなかった。

 

「こんなものを見たことはない?」


 ハルカはそう言ってから、いかにも高額そうな最新のスマートフォンを取り出し操作してから、一枚の写真をユウリに見せる。

 それは……確かに本、ではある。

 分厚く、いかにも年季の入っていそうな黒い本。

 だがおかしいのは表面が縫い合わさっているようにも見える。まるでかのように。

 その黒さもどうもおかしい。まるでかのような黒さ。


 そう。まるで本からを連想させるような。そんな本。


「…………こんなの、見たことないです」

「そうよね……ともなると関町さんを口封じの為に消そうとした線はないわね、恐らく」

「そのネクロノミコンを知ると殺されるんですか……?」

「そうでもないわよ。実際、私とレイはこの本の存在を知っているけど襲われたことはないのだから。ただ……気がかりなのは、怪物がいた場所はあなたに関連する場所で二度も出てきたこと」

「それって長髪で制服の人が狙われてるってことかよ、偉そうな人」

「断定は難しいわ。でもその線で追って見てもいいわね……なにせ情報が少なすぎるから」


 ハルカは春の光を浴びながらも、その曇った表情を変えることはしなかった。

 どうにも事態は深刻らしい。いくら少女のユウリとてそのことは伝わる。


「でもどうするんだよ、長髪で制服の人を見張るのかよ。ま、俺はいいけどな。一緒にいても」

「というか私、狙われてる前提なんですか……?」

「あくまでも推測よ。実際は違うかもしれないし。けど二度も学校に現れて、しかもあなたに関係する場所という点が気がかりなのよ」

「まぁ、それはそうですけど」


 それは違うんじゃないかとユウリは言いたくもなった。

 と言うより気が気ではなかった。なにせ自分が怪物の狙う対象になっていると言うことが例え推測でも嫌だし、何より怖かった。こればかりは自分ではないと神頼みしたくなってしまう。


「大丈夫だって、長髪で制服の人。襲われても俺がちゃんと守ってやるからさ」


 レイは自信満々と言った面持ちでユウリに言い聞かせる。

 春の光に似つかわしい笑顔にユウリはどことなく安堵した。

 きっと大丈夫だよね……と。


「でも学校はどうするんですか?まさかその姿でずっと学校にレイをいさせるんですか?」

「え、なんだよ。スーツの人間が学校にいちゃまずいのかよ。学校にもスーツのやついるじゃねえかよ」

「スーツの大人はいてもスーツの少年はいないよ……しかも竹刀袋背負ってる人なんて……ドラマでしか見たことないよ。……そんなドラマも見たことないよ」

「えぇ……」


 レイは驚愕した面持ちでハルカを見つめた。


「おい、本当かよ。偉そうな人」

「言っておくけど、私はちゃーんとあなたに言ったわよ、レイ。あなたぐらいの見た目でスーツはあまり着ないって」

「言ってたか!?本当に言ってたか!?」

「言ったわよ?でもあなたがなんでもいいの一点張りで聞く耳も持たなかったから、その無難なスーツを支給したのよ?……身だしなみはもう少し整えて欲しいところだけれども」

「おいおい、マジかよ……」


 レイはひどくがっかりした様子でひどくぼさぼさになった髪を両手でかき乱した。


「つまり自業自得ってやつじゃん……こんなことになるなら偉そうな人の言葉をちゃんと聞いておけばよかったぜ……」

「ま、まぁ……でもいいと思うな。レイくん、スーツ似合ってるし」


 ずぼらに着なければ、という言葉をユウリは胸にしまうことにした。


「え、本当か!?」


 するとどうだろうか。

 レイは途端に元気を取り戻し、ユウリに歩み寄った。


「俺、ちゃんと似合ってるか!?」

「うん、似合うと思うよ」


 ……と言うよりその姿以外のレイの服について、服にさほど詳しくないユウリから言える言葉がなかった為であって。ユウリはそれも胸にしまうことにした。


「いやぁ、やっぱり長髪で制服の人は優しいよな。どうだよ、偉そうな人」

「そうね」


 ハルカはそう言ってユウリを苦笑混じりに見つめた。

 まるで「気を遣わせてごめんね」と言わんばかりに。


「そもそもなんですけど……私が学校の間はどうやってレイをこの校内に入れるんですか?」


 ユウリはふとした疑問を投げかけた。

 スーツ問題はさておくとして、この学校の生徒でもない人間を四六時中入れるのはいくらなんでも無理難題だとユウリは感じる。


「まぁ、それに関してはなんとかなるんじゃないかしら」


 されど、ハルカは当然のように言い切った。


「強引なやり方で私としては不本意極まりないけれども」


 そしてハルカはため息混じりにそう言った。


 ♢(2−2)


「自己紹介をお願いします」

「レイだ」

「……もう少し具体的に」

「具体的にって言われても……レイ以外なにもねえんだよなぁ」

「……名簿では愛衣蔵あいくらレイとあるのですが。せめて苗字と名前、1分程度の軽い自己紹介をしていただいてもいいでしょうか?このクラスの一員となるわけですから」

「名前なんて覚えてねえんだよな。俺はレイってことで。自己紹介も特にねえや」

「……いいでしょう。愛衣蔵さんの席は一番後ろの席です。名前順としては不自然でしょうが」

「…………誰それ」

「あなたのことです」

「あ、俺か。なんだか俺が偉そうな人になった気分だな」


 朝のSHR。

 空いた口が塞がらないと言うのはまさにこのことだろうとユウリは思った。

 確かに強引なやり方だった。

 ……急遽このクラスにレイを転入させるというのは。

 しかもスーツ姿だし、いつも通り竹刀袋をつけてるし、と思わずハルカのやり方にユウリは内心あ然としてしまった。


「……あれ、俺。長髪で制服の人の席からめっちゃ離れてるじゃん」


 簿記室の代わりにあてがわれた一号棟のパソコン室。

 授業でも滅多に使われることはないし、30人ほどの人数を入れてもパソコン用の二人掛けの長方形デスクは余るほどあるということで春の光がブラインドで遮られた、冷たさを感じる空間にいれられるのは致し方ないとユウリは思うことにして。

 やや右側寄りの席に座るユウリとほぼ左端の席に座るレイとでは確かに距離が離れていた。


「なぁなぁ、先生の人」

「先生だけで結構です。どうされましたか、愛衣蔵さん」

「俺、長髪で制服の人の隣がいいんだけど」

「……誰のことを言っておられます?」


 先生の人……藤原カンナは珍しく怪訝な表情を見せた。

 ユウリとしてはこの人も表情に出すことがあるんだと思う反面、この状況はまさに悪い状況だと言わざるを得なかった。


「レイくん」


 ユウリは思わず立ち上がって、言葉を発した。


「基本的に学校にはルールがあるからね。レイくんは決められた席に座らないといけないんだよ。だからレイくんは向こうの席」

「え、そうなのか。じゃあルールに従わねえとな」


 そう言われるとあっさり、レイは隣が空いた左奥の長いパソコンデスクへと歩き、回転椅子に座り込む。

 その間、他の生徒たちは春に似合わぬつむじ風のような少年を奇々とした表情で見てしまう。

 

「なるほど……そう言うことですか」


 カンナは何かを感じ取ったのか、「関町さん」と何故かユウリの名を呼んだ。


「え……私ですか……?」

「関町さん、申し訳ありませんが愛衣蔵レイさんの席の隣に移ってもらえませんか?……正直なところ私では手に余るところがありますので」


 後半の言葉は言わない方がいいんじゃなかろうかとユウリは言いたくなったが、それは胸にしまうことにした。


「分かりました」

 

 ユウリはそう言ってレイが座る左奥の席へと移動する。

 一方のレイは「やった、長髪で制服の人が隣だ!」とカンナの発した嫌みも全く気にしていないようであった。

 多分気にしてないというより聞いてなかっただろうな、とユウリは思い、カンナの顔を見た。

 ……カンナの表情は春の季節に似合わないほど死んだ表情を見せていた。

 クラスの全員が引き気味になるほどに。


 ♢(3−1)


 さて。


 スーツ姿のレイが高校生活に放り込まれると言うのは、実に神が与えた厳しい試練と言っていいだろう。


 なにせ本当になにも知らないのだ。


 授業中にスマートフォンを取り出して弄るのは別にいい。ぶっちゃけ他の生徒も隠れてやってるのをユウリは見たことあるし、しれっとキョウコも弄る時がある。授業中にしれっと飲食するのもいい。それもキョウコがしれっとしてる。


 しかし数学の時間に「わかんねえ!」と他の先生が授業しているにも関わらず大声を上げたり、静かな授業中にユウリに平然と話しかけてきたり、挙げ句の果てにはパソコンの使い方がわからず適当に操作してフリーズさせたり。


 ユウリは気が気ではなかった。


 そんなわけで授業も全て終わり、夕方のSHRも終え、レイは……しっかりカンナに呼び出されて1時間ほど今後のあり方について高尚な説教を受け、やがてユウリとレイはいつも通り喫茶店……ではなく一号棟のパソコン室にいた。


 時刻は17時。

 いよいよ春の光が沈み、その風も人々を冷ややかな気持ちにさせていた。


「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」


 レイはあてがわれた回転椅子に座るや否や、体中の疲労を全て追い出すようにため息をつき、天井を見上げた。おぉ、神よ。まさしくそんな悲壮感に塗れた姿にユウリは思わずくすり笑いを浮かべた。


「いやいや、笑い事じゃねえよ。長髪で制服の人。あんなの神様よりタチ悪いぜ」

「まぁまぁ、これから学んでいけばいいよ」


 正直なところ、レイに細かく言ってもしょうがないだろうなと思ってユウリは軽くそう言った。

 しかしレイは自分の鬱憤とした気持ちを発散させるように回転椅子でさせながらつぶやいた。


「いやいや、あの冷たい先生の人はそんな感じじゃなかったぜ……」

「冷たい先生の人?」


 一体誰だろうとユウリは一瞬考えたが、すぐに答えに辿り着く。


「あぁ、藤原先生」

「名前言われても覚えてないけどさ。でもあの冷たい先生の人って本当に冷たいよな。神様やら怪物にも冷たいやつはいるけどさ、それ以上に冷たいって感じだぜ?挙句には名前を何回も連呼して名前を覚えさせようとしてくるし。俺だってさ、名前覚えられるんだったら覚えるけどさ。覚えられないのは覚えられないんだよなー……」

「よく1時間で帰してもらったね」

「いや、帰らされたんだよ。時間になったから帰るって。で、これ」


 レイは回転椅子の動きを止めて、隣に座るユウリに対して一枚の作文用紙を見せた。


「もしかして反省文?」

「そうなのか?いや、なんか今日の問題行動に対して今後どうしていくべきか自分で考えて書けってさ」

「それを反省文って言うんだよ」

「うへぇ……」


 レイは非常に深刻な面持ちを見せた。

 まさしく神の助けが必要なのではと思うほどに。


「まぁ、私も手伝ってあげるからさ。頑張って書こうよ」

「本当か!?長髪で制服の人の力があれば百人力だぜ!」


 レイは作文用紙を握りしめるほどに喜ぶ顔を見せた。

 ……作文用紙がほんの少し歪むほどに。


「……作文用紙は綺麗にしないと、また説教されるよ」

「え?……あ゛!」


 自身が握りしめてしまった作文用紙を見つめ、驚愕した表情をレイが見せる。

 ますます滑稽な姿にユウリはくすりと笑うが、「そんな場合じゃないか」と笑みを止めて、作文用紙をレイからすっと取り上げてから自身の机の上に広げる。


「ほら、こうして伸ばして。ちゃんと書こ?」


 ユウリはそう言いながらほんの少しくしゃりとした作文用紙をできるだけ伸ばしていく。

 一度歪んだ作文用紙は元に戻ることはないが、それでもなんとかユウリはいつも通りの作文用紙にしようと制服の裾で伸ばしていく。


「なんかわりいな」

「大丈夫だよ、これぐらい」


 そうして、ぐしゃりとした跡を残しつつも書けるほどには戻った作文用紙をユウリはレイの前の机に置いた。


「……そういえば文字とか書けるの?」

「なんだよなんだよ、いくら俺でも文字ぐらい書けるぜ?」

「ごめん、偏見なこと言っちゃったね……」

「長髪の制服の人に見せてやるぜ、俺の綺麗な文字をな!」


 そう言いながらレイはどこにでもあるような黒いシャープペンシルを握りしめ(ユウリは驚いたが、持ち方も意外と人差し指と中指と親指でしっかりと支えたような持ち方)、作文用紙を見つめ、そして……止まった。


「……レイくん?」


 明らかに様子がおかしかった。

 まさか文字の書き方を本当に知らないのだろうか?

 もしや口から出まかせに言ってしまったのだろうか?

 しかしユウリの推測は誤りだった。


「……この紙、どうやって書けばいいんだ?」


 ユウリはその言葉に妙に納得してしまった。

 これは真っ白な紙ではない。行儀のいいマス目の入った作文用紙。

 つまり書き方にもルールが存在する。縦書きで、最初のタイトルは上から二文字空け、次の行で最後の一マスを空けながら自分の名前を書く。

 そんないつも通り行われるはずのルール。


 だがレイは知らない。

 レイのいつも通りの生活は一般人のいつも通りの生活とは違う。


「教えてあげるよ」


 ユウリはそう言って椅子を移動させて、レイと距離を詰める。


「まずタイトルはね、この右端の行から」

「分かったぜ」

「で、一マス空けてから書き始めるの」

「タイトルってなんて書けばいいんだ?」

「うーん……反省文とかで適当に書けばいいんじゃない?」

「反省って文字はどう書けばいいんだ?」

「反省はこうして───」


 ユウリは自分が普段愛用する青いシャープペンシルを持ちながら、作文用紙に薄く記していく。


「……なんで長髪で制服の人の文字ってそんなか細いんだ?」

「レイくんは書きやすいようにだよ。こうして薄く書けば、レイくんはなぞるだけで書けるから楽だよ」

「なるほど!頭いいな!」

「そうだね」


 誰でもやっていることなのだが、そんな大したことでもないことを褒めてくるレイに微笑む。

 レイはというと、ユウリが薄く書いた文字を見て、途端にこう言った。


「長髪で制服の人の文字って綺麗だよな」

「そう?普通だよ」

「偉そうな人の文字もかなり綺麗だけど、この文字も行儀いいって感じで俺好きだな」

「それ褒めてる?」


「褒めてるぜ?だって長髪で制服の人も綺麗じゃんか」

「え!?……いや、そんなこともないけど」

「でも偉そうな人の綺麗とは違うんだよな。偉そうな人はやっぱしっかりしてるから、雰囲気出てるっていうか。でも長髪で制服の人は……うーん、綺麗っていうか……かわいいって感じ?」

「…………怒るよ」

「え!?なんでだよ!?」

「自分で考えなよ。ほら早く書いて」

「えー……なんなんだよ」


 レイが首を傾げながら、ユウリの文字をなぞっていく。

 しっかりとシャープペンシルでなぞられた文字は濃く、本人の言うとおり、確かに綺麗な物だった。

 それは別として……ユウリは気が気ではなかった。

 レイはその顔を見ていなかったが……ユウリの顔は春の光に当てられたように、ほんの少し赤面していた。

 なにせ異性からはっきりと綺麗だとか可愛いとか言われたことはないのだから。それはもちろんタダユキからは可愛いとか言われて恥ずかしい気持ちはある。けれどもこの恥ずかしいは違う。


 そう考えるとふとユウリはハルカの言葉を思い出す。


 日常的に言われる言葉と、あまり言われない言葉じゃ重みが違う、と。


「長髪で制服の人、書けたぜ!」


 ハルカの言葉を思い返している内にあっさりとレイは文字を書き上げた。

 まさしく堂々とした「反省文」という濃い文字を。


「じゃあ次は自分の名前だね。愛衣蔵あいくらレイってここに」


 未だにほんのり赤面しながらも、ユウリはいつも通りと言った感じで2行目の後半部分にレイの名前を書いていく。愛衣蔵は本名じゃないんだろうな、と思いつつ、薄く記していく。


「……なんて読むんだ、これ」


 案の定、レイは愛衣蔵あいくらという文字の読み方を知らなかった。


「あいくら、だよ」

「あいくら……あいいくら……あいいい……」

「冗談でやってる?」

「いや、冗談なもんかよ。もう一回。もう一回教えてくれよ」

「あいくら」

「あいくら……あくら……あら……」


 レイはなんとも唸りながらも、愛衣蔵の言葉を発しようとするも、途中からだんだんと原型が失われてしまう。なんとも奇怪な事だが本人としても、悩んでいるのか、腕を組んで唸り声をあげていた。


「……ほーんとなんでなんだろうな。神様もタチ悪いことしてくれるよな。いくら自分が人の名前覚えられないからって、俺にもこんなこと引き継がなくていいのにさぁ」

「まぁ、そうだよね」


 それこそ冗談ではないかとユウリは発したくなるが、レイ本人としてはいたって真面目な発言だと思われるので、言葉を飲み込んだ。


「でも愛衣蔵レイって……なんだか他人みたいだね」


 普段ユウリはレイとしか呼ばないから、なんとなく言葉を飲み込まずにそう言ってしまう。


「だろ!?やっぱ俺はレイって名前が一番しっくり感じるんだよな」

「うん。私もそう思うな。レイくんの名前も神様がつけてくれたの?」

「いや、レイって名前は…………」

「レイくん……」

「一体誰がつけたんだろ。分かんねえや」


 レイはまた首を傾げた。


「神様じゃないことは確かなんだよな。俺に名前なんてくれなかったし。いや、あるのかな。それも分かんねえや。でもレイって名前は確かに覚えてるんだよ。正真正銘、間違いなく俺の名前。俺の誇れる名前。でも誰がつけたか分からないからするんだよなぁ」

「なんだか分かる気がするな」


 ユウリはそう言って続ける。


「私もする時あるから」

「制服で長髪の人はどんな時にもやもやするんだ?」

「うーん、ふと思っちゃうんだよね。自分の存在ってこれで合ってるのかなって。確かに私は関町ユウリって名前で、関町タダユキっていうお父さんの子どもで昔からお父さんの家に住んでて、キョウコっていう親友がいる。でも、本当にそれで合ってるのかなって」

「確かになー」


 レイはその言葉にふと、自分の思ったことを包み隠さずに発した。


「長髪で制服の人が言った言葉って……他人って感じがするんだよな」

「他人って?」

「俺に今日付けられたやつと一緒。長髪で制服の人の名前ってさ。なんだか取ってつけたみたいな感じなんだよな。うーん……なんていえばいいんだろう、言葉の表現が難しすぎるぜ……」


 どうにも言葉が見つからずにモヤモヤするレイに対して、ユウリもまた同じような気持ちにさせられた。

 自分でさえもその言葉を形容するなら、どの言葉が該当するのか分かっていなかったから。


「……でもさ。俺、思うんだよな」

「なに?」

「長髪で制服の人の名前は本物だと思う気がするんだよな」

「……どういう意味?」


 ユウリにはさっぱり意味が分からなかった。

 いかんせんレイから呼ばれている名前は名前ではない。他の人間から見れば、ただのあだ名のようなもの。

 つまり、偽物の名前のようなもの。


「えーと……あれだよ、あれ。長髪で制服の人の名前」

「関町ユウリ?」

「そう、!」


 レイは唐突に言った。

 を。唐突に。

 名前も覚えられないはずの少年が急にそう言った、かに見えた。


「ゆー……ゆり……あー、だめだ!やっぱり覚えられねー!」


 レイは自分に困った様子で叫んだ。

 しかしユウリにはそれどころではなかった。

 レイに名前を呼ばれた。それが衝撃的であり、同時に……何故かホッとさせられた。

 

 何故だか理由は分かりはしない。

 だけども……レイのその顔と、ユウリの名前を呼ぶ姿にどこか安心感を感じられる気がした。

 


「ねぇ、もう一度私の名前を呼んでくれない?」

「あえ?じゃあもう一回教えてくれよ、頑張って覚えるから」

「いいよ」


 ユウリはレイに笑みを見せて、言った。


「ユウリ」

「ユウリ……うり……り……。あーダメだ。もう一回だ」

「うん、ユウリだよ。ユ・ウ・リ」

「ユーリ……ユウリ……ゆあ……ゆー……あー!!!」


 はたから見れば、呆れもするし、馬鹿らしくも見えてくるかもしれない。

 または青い春だな、なんてある種茶化した言い方になるかもしれない。

 だがユウリにとっては重要なことだった。

 自分のモヤモヤが晴れるような気がしたから。


 ……しかして春の光は完全に沈み込み、いよいよ冷たい夜風を吹かそうとしていた。


《4−1》


 夜。

 そこは誰の手も触れなくなった、長谷川市の末端に位置する廃工場。

 春の光を浴びようとも二度と動くことはなく、春の冷たい風がただ吹き抜ける建物。


 すでに工場の設備も撤去された明かりも点かぬ、灰色の地面。


 そこにはたった一つの、抜け殻が存在した。

 魂の抜けた抜け殻。それを象徴するように肌は青白く、唇は紫に変色している。

 胸に手を当てされられ、ただ眠るように横たわる抜け殻。


 そして首筋には、まるで命を断ち切るように締めた両手の跡がついてた。

 

 その抜け殻の前に、いつも通り、一人の人間が暗闇の中に立っていた。

 ……否、人間と揶揄していいのだろうか。

 右手はまるで鉤爪のように五本の指を尖らした禍々しい手。

 そして左手には……


 それは右手の人差し指の爪で器用に書物を開くと、横たわる抜け殻へと唱えた。


よ』と。


 ───刹那、抜け殻は突如として発火した。


 これをプロメテウスの火を揶揄するべきか?

 しかしその炎はまるで……抜け殻を喰らおうとする竜の姿にも見えていた。

 春の冷たい風を熱く煮えたぎらせながら……。


(第四話:侵食─ゴッドハンド─ 完)

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