第三話:関係─ネクロノミコン─
♢(Ⅰ)
春の光が、教室を照らしていく朝。
いつも通りの時間になるとクラスの生徒たちが着席し、曜日に応じた朝の行事を迎え、それを終えると担任教諭からの連絡事項を伝えられ、授業を迎えるはずだった。
しかし窓ガラスが割れ、床には等間隔に焼け焦げた跡がついた教室には、誰一人としていなかった。
まるで神の悪戯を隠すように、割れた窓ガラスの位置にはブルーシートが掛けれている。
しかし風を遮ることはできず、ただ春の暖かい風が青い遮断物の隙間のせいでほんの少し冷たい風になって教室に寂しく流れていた。
♢(Ⅱ)
「一年五組の関町ユウリです。藤原先生に用事があるのですが入室してもよろしいでしょうか?」
「……はい、どうぞ」
一号棟にある職員室。
扉を開けたと同時に言った形式上の言葉に返事をしたのはカンナであった。
彼女の名前は藤原カンナ。
一年五組、つまりユウリとキョウコの担任。
生徒はきっちりと校則を守り、いくら長くても肩まで髪を整えるが、彼女は背中の方にまでストレートな黒髪を流していた。まぁ、生徒側で特に思うものもいないのでユウリは気にしたことがない。
とは言えユウリはどうにもカンナに苦手意識を持っていた。
それは丸メガネの奥に見えるつった目に鼻も高くツンとした表情、そして着飾らない黒いスカートスーツが如何にもな真面目さを感じさせるからかもしれない。
ユウリは「失礼します」と言ってから職員室に入っていく。
職員室は教室とは違い、暖房が入っているから暖かった。しかし温かみは感じられない。まるで生徒の存在を忘れた教職員たちがいつも通りの日常を濁すように、珈琲のほのかな匂いが感じられる。
ユウリはそのままカンナの席の前に辿り着く。
「休み時間に呼び出してしまい、申し訳ありません」
「あ、いえ……」
カンナはユウリに対して深くお辞儀をする。
小学校や中学校でもそんな先生いなかったよな、と思いつつユウリは問いかける。
「あ、あの……伝えたいことって……?」
突然のことであるが、ユウリはカンナに呼び出されていた。
理由は全く分からない。朝のSHRで「昼休みに職員室にいらしてください」と唐突に言われたのだ。
その時、ユウリは直感した。まさかあの事では無いだろうか、と。
窓ガラスが割れ、床には等間隔に焼け焦げた跡がついた教室のことを。
正直、あの事は誰にも見られていないはずとユウリは勝手に思っていた。確かに生徒の慌てた声は聞こえていたが、瞬時に
……だが誰かに見られていたら。
カンナは、春にかくことのない汗を背中に流すユウリの心情を気にする事なく……言った。
「関町さん。他の先生方からお伺いしたのですが、あなたは……」
ごくり。
春ではなく、夏に乾いた喉を潤す水を求めるかの如く、喉元をユウリは動かしてしまう。
しかしカンナの言葉ユウリの予想とは大きく外れるものであっった。
「アルバイトをしてらっしゃいますね?」
「………はい?」
「アルバイトです」
「アルバイト……ですか?」
ユウリは「あの事じゃないんだ」と胸を撫で下ろそうとしたが、そうも行かなかった。
なにせ唐突に自分がアルバイトをしていると言われているのだから。
「アルバイトは……していませんが」
「近くの喫茶店で夕方アルバイトをされていませんか?」
「………あー」
納得。
腑に落ちた。
どうもそう言う事らしい。
もしかすると事情を知らない他の先生がたまたま喫茶店を覗き込んで、ユウリの姿を見つけて、アルバイトをしていると勘違いしている。
そして藤原カンナもまた、勘違いをしている。
「先生。あれはアルバイトじゃなくて、お父さんの手伝いです」
「……誤魔化そうとしたら反省文を書かせることになりますが」
「あ、いえ、本当なんです。私のお父さんがその喫茶店の店長をしていて、そこで手伝いをしているだけなんです。お金は貰ってないです」
「………本当ですか?」
「本当です」
「…………」
カンナはなんとも微妙な表情をしていた。
「早とちりをしてしまった」、そんなバツの悪い表情。
「そうですか……わかりました」
しかし納得したのか、納得していないのか。カンナは台詞と声色が合っていない言葉を吐くと、机の上に置いてある紙を差し出した。
「関町さんがそう言っても周りの先生方が納得されない可能性はあります。なのでアルバイト許可届を提出してください」
カンナはそういうと一枚の紙をユウリと見ながら説明を始めた。やれ、正当な理由を5行ほどの欄に事細かく記入しろやら、やれ、記入後は親からの印鑑を貰えやら、やれ二人いる教頭と校長に印鑑を貰ってこいやら。
そして極め付けに。
「このアルバイト許可届の提出を終えるまで、喫茶店での手伝いを禁止します」
「え……!?」
ユウリは実に素っ頓狂な言葉を上げてしまった。
「でも……私が手伝わないと忙しい時が……」
「いくらお父様の手伝いと言われようと、あなたが喫茶店で作業をしていればアルバイトと見なされます。私としても不当にアルバイトをされても困りますので、喫茶店で手伝いとやらをされたいのであれば、速やかに提出を願います。明日提出されれば、来週のこの日には許可証を発行出来ますので」
「そ……そんな……」
あまりにも横暴だ。
ユウリはそう言いたくもなった。
しかし……正論と言えば正論だとも思える。
なにせ長谷川中央高校は特別な事情がある場合はアルバイトをしていいことにはなっているが、原則的には禁止だ。その特別な事情とは母子家庭や父子家庭で金銭的事情に困る場合。
ユウリが喫茶店で手伝いをしていると思っても、今回のように勘違いで指導されかねない。
つまり……カンナの言葉に従うのは一理あるというもの。
「分かりました……明日提出します……」
渋々ながら納得してユウリは紙を受け取ってから、そう言うしかなかった。
「失礼します」
どうにも暖房のせいだろうか、体が妙に熱く感じながら、ユウリが出ていこうと振り向いた時だった。
「ところで」
カンナは続けざまに言い放った。
「昨日の夜、一年五組の教室にいませんでしたか?」
「ッ!?」
ユウリは振り向くとをせず、顔を強張らせた。
……まさかカンナに見られている、まるで神に見透かされてしまったようにビクビクしながらもなんとか平常心を保とうといつも通りの大人しく物静かな表情で振り向いた。
ユウリの表情はどうにも困惑を隠し切れてはいなかったが。
「いえ……昨日の夜は教室にはいませんでした」
「そうですか、分かりました」
先ほどと違い、カンナは納得すると「もういいですよ。アルバイト許可届だけ明日の提出をお待ちしております」とユウリの心情を気遣うことなく言い放った。
「失礼します……!」
ユウリはそそくさと職員室を出て行った。
カンナはユウリが職員室の扉から足早と出るまで、ずっと見つめたままだった。
♢(Ⅲ)
いつも通り授業を全て終え、放課後。
キョウコは部活(どうやらバスケ部に入部しているらしい。おそらく漫画の影響だろうとユウリの推測)に行ってしまい、ユウリは家路に……つかずに父親のいる喫茶店に向かっていた。
確かに手伝いは出来ない。
父親には直接事情を話すべきだろうと思って学校近くの喫茶店に立ち寄った。
タダユキの喫茶店は落ち着きのある場所ながらも多少の違和感を感じることのある喫茶店だ。
タダユキの趣味でラモーンズのアルバムがずっとループして流れており、雰囲気に合えば目立つことはないが、例えば「ブリッツクリーグ・バップ」や「ペット・セメタリー」なんて流れてしまうと、コンクリート造りの外観に天然木を使った机や椅子の落ち着いた雰囲気がぼやけてしまいそうになる。
ただ……ユウリはそんな独特な雰囲気の喫茶店が嫌いではなかった。
それはおそらく幼少期に嫌と言うほどラモーンズを聞かされて慣れてしまったのかもしれない。
そうして扉を開けると「アイ・ワナ・ビー・ユア・ボーイフレンド」がテンポよく、それでいて落ち着く爽やかなラモーンズの歌が流れ、いつも通りを演出できていた。
「おかえり、ユウリ」
そしてタダユキはいつも通り、ユウリに言葉をかけた。
「あ、長髪で制服の人じゃん!」
そしていつも通り、レイはカウンター席に顔をうつ伏せならもユウリの姿を見るなり声を上げた。
……ん?ユウリは首を傾げるしかなかった。
「レイくんもいたんだ」
まさか昨日の今日で会えるとは思わず、そんな春に会わない冷たさを感じる言葉を言ってしまう。
「な!?いたんだはないだろー!?」
「あ、ごめん……でもまさかいるとは思わなくて」
「まあな、でもしばらくはこの街にいるわけだし。ここの雰囲気も気に入ってるんだ。落ち着くには最高の場所だしな」
レイはそう言って立ち上がると、ユウリの方ではなくてカウンター席の近くにあるレジ方へと歩いていく。
「長髪で制服の人、なんかいるか!?奢るぜ?」
「……なんで?」
「だって奢る約束してたじゃんか」
「……あー、そういえば」
そういえばずっと言われていた。
ただ毎回そういうとレイは何かしらでいなくなるものだから、さほど気にしていなかったのだ。
それに……。
「ごめん、レイくん。あの……」
ユウリはタダユキの許可さえあればコーヒーはいくらでも飲めるし、デザートも食べれる。タダユキがユウリに対してクリームたっぷりのパンケーキほど激烈に甘いのだから全部食べれるわけで。だから実はレイに奢ってもらう必要は、この場所に関して言えば……ない。
ユウリはその事情を伝える前に、タダユキが遮った。
「お、何にする?このシフォンケーキなんてどうだ?俺の自信作だ」
最も事情を知っているはずのタダユキがレジ側に立つと、レイを促すようにそう言うのだ。
思わずユウリはカウンター席にある入り口を抜けて、タダユキの腕を掴む。
「ちょっと、お父さん」
ユウリは腕をぐいぐいと引っ張る。心情的にはレイに聞かれないようにタダユキの耳もとでで小声で言い聞かせたいのだが、ユウリの女子らしい低身長は高身長のタダユキの顔には少しばかり届かなかった。
タダユキは察するようにして、その顔の耳もとをユウリの顔に近づける。
「どうしたんだ?」
タダユキはレイに聞かれないようにひそひそとユウリに尋ねる。
「どうしたじゃないよ、なんでお金取ろうとしてるの。言ってあげてよ。私はここでお金払わなくても飲食できるってこと」
「そんな無粋なことをレイに言うのか?せっかくレイが気概を見せようとしてるのに」
「そういう問題じゃないよ。払わなくてもいいお金を出そうとしてるんだよ?」
「……それ、レイに言えるか?」
「もう。お父さんが言わないなら私が言うよ」
ユウリはいざ、その言葉を告げる為にレイの顔を見つめる。
相変わらずユウリに何かを思い出させようとさせる顔。
それがなにを意味するのか、ユウリには思い出すことはできない。
だが今はそれは重要ではない……。
レイは無邪気な笑みを浮かべていた。
「どうしたんだよ、長髪で制服の人。なんでも頼んでいいぜ?偉そうな人からお金は貰ってるんだ、ほら!」
レイは屈託のない笑みでそう言いながら、黒スーツのポケットからいつも通りしわくちゃな千円札を取り出す。
「なんだよなんだよ、お金はまだあるんだぜ?無駄遣いはするなって偉そうな人からは言われてるけど、長髪で制服の人にはお詫びもあるし。謝罪するってことは無駄遣いじゃなくて必要経費ってやつだよな!?ほら!」
そう言ってまた胸ポケットから千円札を取り出す。いつも通りしわくちゃの。
どうして財布を買わないのか。あと敷地内とか知らないのにどうして必要経費という言葉を知っているのか、というかよく見たら危なっかしい刀が入った竹刀袋を持っていないと思っていたら、カウンターの机にしっかり立てかけられてるし。絶対危ないから肌身離さず持っておいてほしいというユウリの誰にも明かせない心情は一旦しまっておくとして。
どうしてこんな満面な笑みを浮かべる少年に事実を言えるだろうか。
もし言ってしまえば……もしかするともしかすると……ホテルの屋上の時のように非常に残念がるのではないだろうか?
ユウリにはそう思えてならなかった。
「な?」
タダユキはユウリの肩にそっと手を置いた。
「いや、でも……」
しかしユウリは未だに迷っていた。
レイが払わなくてもいいお金を出すことに。
ただレイは自分に何かをご馳走しようとしている。
この穢れのない純粋な笑顔の前に、「私、ここではいつでも飲食できるから大丈夫だよ」と事実を告げることができるだろうか?藤原カンナじゃあるまいし。
とは言え、とは言えなのだ。
あぁ。神様。どうかこの状況を打破する鍵をお与えください。
そう思いそうになった時だった。
窓張りの扉がいつも通り開かれる音がした。
「ん?いらっしゃ───」
タダユキがいつも通り客に対する挨拶をしかけた時、タダユキは思わず息を飲んだ。
「お父さん?」
ユウリもまた扉の方を見て……そして思わず口を開けた。
「……綺麗な人」
それは明らかに見たこともない女性だった。
顔の年齢はどうにも30代ほどに見える。それは肌艶の綺麗さ、垂れ目ながらも鼻が高く、均等に配分された顔のパーツから想像はできる。それでいて銀色の丸メガネに洒落た巻き髪の短髪からは40代ほどにも見える。しかしユウリは綺麗だと思わざるをえなかった。
まさに神が作り出した奇跡、なんて言いたくもなった。
黒いパンツスーツがよく似合う謎の女性。
女性は扉を開けて「こんにちは」とユウリとタダユキに軽く会釈しながら挨拶し、ある一点を見つめた。
「あれ、この声って」
女性の挨拶、そして声に気付き、レイは振り向いた。
「偉そうな人じゃん!何してんだよ、こんなところで!」
「え!?この人が……その偉そうな人……?」
レイの驚きの言葉と共にユウリもまた驚いた。
そしてタダユキも言葉にしないながらも、目を見開いた。
穏やかな表情を見せるこの女性から、とても偉ぶっている印象が全く見受けられないのだ。
「こんなところとはご挨拶ね、レイ。それに偉そうな人はやめてって言ったでしょう?他の方に聞かれた誤解を招いてしまうわよ」
そうして偉そうな人はレイに教えるようにユウリとタダユキに手を向けた。
「ほら、この方たちのように」
レイはユウリとタダユキの方を見やる。
二人は……唖然としていた。
「なんでそんな変な顔してんだよ」
「いやいや、だってレイくん……この人……レイくんが言ってた印象と全然違うもん…」
「いや、偉そうだろ?」
「全然偉そうなじゃないよ……」
その言葉に思わず偉そうな人はくすりと笑った。
「確かに偉そうには見えないわよね」
「あ、ごめんなさい……そんなつもりじゃなくて」
偉そうな人の言葉にユウリは思わず謝ってしまったが、彼女の言葉には決して嫌味なようなものは感じられなかった。むしろ自分でも可笑しく感じているのか、笑い混じりに言った。
「違うのよ。多分、私が立場でいえば一番上の役職についてるから、レイがそれを印象に持っているらしいのよ。レイが名前を覚えられないのは知ってるでしょう?レイはその代わりに、その人の印象的な部分を呼ぶようにしているらしいのだけども……それでも偉そうな人は無いわよね?」
微笑み混じりの言葉にユウリは頷いてしまった。
その笑顔には寛容さも感じられる、心の広さを感じることができたから。
同じスーツの女性でもこんな人だっているんだと、ユウリは思ってしまう。
「レイ」
偉そうな人は改めてレイを見つめた。
「お楽しみのところ、申し訳ないけど。一緒に来てもらえるかしら?」
「えぇ!?なんでだよ。怪物なんか出てないのに!」
「人前でそれを言わない約束でしょう?」
「じゃあなんでだよ。俺は今から長髪で制服の人にここでなんか奢るんだ」
「……レイの希望は叶えてあげたいのは山々だけど。今後のことについて相談したいの。申し訳ないけど、それはまたの機会にしてほしいわ」
「えぇー……」
レイは少し寂しそうで、酷くがっかりしていた。
「…………」
偉そうな人は、レイの耳元に顔を近づけると、ユウリとタダユキに聞こえないほどの声で囁いた。
「あなたの探し物について、分かったことがほんの少しだけあるの」
その言葉にレイは目を見開き、偉そうな人の顔を見た。
「ホントかよ!?」
偉そうな人はこくりと、深刻な面持ちで頷いた。
「こうしちゃいられねえ!行こうぜ、偉そうな───」
そうしてレイは慌てて店から出て行こうとした時……不意にユウリの顔を見た。
「ごめんな、長髪で制服の人。もしかしたら俺のもやもやを晴らせるかもしれねえんだ。また今度!絶対奢るからな!」
そうしてレイはまたつむじ風のように店を出た。
……偉そうな人を置いて。
「……あいつっていつもあんな感じなのか?」
一人取り残された偉そうな人に対してタダユキは問いかけると、偉そうな人は困ったように笑った。
「えぇ、そうなんです。ごめんなさい。昨日からこの店で飲食をされているみたいですね。何かご迷惑をおかけしていませんか?」
「いや、特にはないな」
「それならよかったです。もし何かご迷惑をおかけしているようであれば、この名刺の連絡先にお電話いただければと」
偉そうな人はそう言ってスーツの胸ポケットから銀色の洒落た名刺ケースを取り出してから、まるでいつも通り作法よくしてるかの如く丁寧に名刺をタダユキに差し出す。
「別にそこまでしなくていいんだがな……。うちは金を払って行儀良くしてくれれば問題ないよ」
タダユキは名刺を見ることもなく、いつも通り無作法のように名刺を受け取ってしまう。
「そう言っていただけるのは嬉しいのですが……おそらくレイは忘れ物をしているかと」
「忘れ物?」
ユウリは「なんだろう」と、思わずカウンターを見ると……再び唖然としてしまった。
……そこには刀が入れられた竹刀袋がいつも通り置かれてしまっていた。
「ちょ、レイくん!」
ユウリは思わず慌てふためいてしまう。タダユキは「何してんだ、あいつは」とレイのおっちょこちょいさに呆れてしまうだけだが、ユウリは中身を知っているからかあたふたと思わずカウンターから出て竹刀袋の前に来てしまう。
しかし……中身が刀であることを知っているからか、その様子は実に滑稽だった。
まるで火に近づこうとするが火の粉が当たって手を背け、それを繰り返すような、そんな滑稽さ。
「……何してんだ、ユウリ」
「え!?えーと……えーと……」
こればかりはユウリも反論できなかった。
偉そうな人はその様子に思わず微笑んでしまい、近づき、あっさりとその竹刀袋を握る。
剥き出しの
「え!?危ないですよ!?」
「大丈夫よ」
偉そうな人はそう一言言ってから、ユウリの耳元に近づき、小声で囁いた。
「刀があることは秘密にしてね。レイの為にも」
「………」
そうだ。この人がレイの為に竹刀袋を渡してくれたんだ。
つまりは……秘密を共有する人
だが目の前にいる偉そうな人は決して偉そうにせず、まるで親しき隣人のような暖かい言葉を送ってくれたような……ユウリはそんな気持ちになった。
そして顔を離してから、偉そうな人は尋ねた。
「あなたのお名前をお聞きしてもいいかしら?」
「私は……関町ユウリです」
「そう、いい名前ね」
偉そうな人はユウリを見つめ、そしてふとタダユキの方を見つめてから、改えてユウリの方を向くと微笑みながら言った。
「これからもレイと仲良くしてあげてね、時間は有限だから。関町ユウリさん」
そう言うと偉そうな人はユウリ、それからタダユキに会釈してから、すぐに店から出て行ってしまった。
「あの人……何者なんだろう」
ユウリはただただ疑問に思うしかなかった。
あの刀の秘密を握っているとしか思えない態度。そして怪物のことも知っているようである。であればレイのことも何もかも知っているのかもしれない。
だが……彼女の穏やかな雰囲気からは何も感じることはできなかった。
「……
その時だ。
偉そうな人が出ていってからしれっと名刺を眺めたタダユキも驚きの声をあげた。
「偉そうじゃなくて、偉い人じゃないか、あの
いつも通りラモーンズのBGMが響く店内に、いつも通りではない驚愕の声が上がった。
愛衣蔵ハルカ。
その名にもちろんユウリは聞き覚えがなかった。
しかし愛衣蔵財団にはもちろん聞き覚えがあった。
なにせ昨日見たニュースでその単語はちらりと聞いていたのだから。
♢(Ⅴ)
いつも通りの日常。
いつも通りの春の夜。
いつも通りの長谷川中央高校。
そしていつも通り……では無い簿記室の前。
時刻は19時。
簿記室は三号棟に存在する。ここはユウリたちの教室があんなことになったので現在は代わりの教室になってしまっていた。
だが時刻も夜になっており、春の風も遮られた教室には誰も来ないはずであった。
「ごめんなさーい、先生。忘れ物しちゃったら藤原先生に説教されちゃうんですよー」
「いや、いいんだけどさ。気をつけろよ」
しかし薄暗い廊下に二人の人間がいた。
一人は雲野キョウコ。そしてもう一人は簿記室を本来管理しているキョウコと同じ身長の小さな男性教諭。
「藤原先生はなんの顧問もしてないからさっさと帰るもんな。あの先生が担任だと苦労するだろー?」
本来であれば他の教諭のことを悪く言うものではないがキョウコは何も思わず必死に首を縦に振った。
「ホントですよー!あたしも中谷先生のクラスがよかったなー!遅刻とかしても絶対説教しなさそうだし!」
「いや、遅刻したら反省文はさすがに書かせるぞ……」
中谷と呼ばれた小柄な男性教諭は簿記室の鍵を開けた。
「えー!?なんでー!?」
「仕方ないだろー、生徒指導の方針でそうなってんだからさー。まぁ、あんなに長々とした説教はしないけどな」
「でしょ!?いいなー。来年のクラス替えの時に先生のクラスにしてくれません?ユウリと一緒に」
「無茶言うなよな」
鍵を開き、扉を開ける。
するとどうだろう。
───春の風には似合わない、強烈な風が二人を襲った。
「うわっ!?」
「きゃあ!?」
空調設備の切り忘れだとか、そんな次元の話では無い。
まるで台風のような風が二人をあっさりと吹き飛ばし、緑色の合成樹脂で作られた廊下に二人を叩きつける。
「だ、大丈夫か。雲野」
「痛い……」
中谷は教員らしく、叩きつられてしまった全身をなんとか起き上がらせてキョウコに近づく。しかしキョウコもまた全身を強く打ち付けてしまい、その痛みからもがいていた。
「いったいなんだ───」
中谷は思わず簿記室の方を見た。
そして薄暗い電灯に照らされた存在に目を見開いた。
怪物。
そう。まるで神に化かされたと思うほどに、見間違うことのない怪物。
全身を風でうねらせ、水を撒き散らした、人間の姿のように見えて不定形な怪物。
目に当たる部分はないものの、風をうねらせた顔のような箇所は間違いなく二人を捉えていた。
怪物は言葉を発することはない。
代わりに……腕に当たる部分を二人にかざすとその風をうねらせた。
まるで二人を飲み込まんとするように。
「雲野!!」
中谷が倒れ込むキョウコを庇った、その時だった。
───突如、風が真っ二つに叩き切られた。
怪物はされど死ぬことはない。
炎を纏った刀に斬られながらも、その風が止むことはなく、簿記室の方へと流れていく。
怪物の代わりと言わんばかりに二人の目の前に背を向けるように現れたのは───。
黄色に輝く鎧を身に纏った……戦士レイ。
「な、なんだ……あれ」
中谷が戸惑う中、
『さっさと逃げろ!』
そう言いながら、
♢(Ⅵ)
簿記室には入り口以外締め切っているにも関わらず、いつも通りとは程遠い風が強く渦巻いていた。
おかげで配置されていた机や椅子は壁やガラスに叩きつけられ、一部は破損し、一部は窓の外へと追い出されていく。
神罰だと言わんばかりに簿記室は荒れ果て、床には雨水のように浸っていく。
されど風に靡かれ、水に濡れようが、
『………』
普段は無邪気に喋る
『………』
ぼぉっ、とその刀に炎が燃ゆる。神の奇蹟と言わんばかりにその炎は静かに燃える。
ただ静かに、そして大きく。
そして
びゅう、びゅう。ぼぉ、ぼぉと日常をかき消す風と水。
実体のない怪物ではあるが
───そこだ。
言葉は発しない。
ただ刀を横一閃に、振り払った。
するとどうだろうか。
まず教室を濡らす水は一瞬で凍りつき、固まっていく。炎を纏った刀を振ったにも関わらず。そうして教室全体を濡らした水は一気に氷へと変貌していく。
春ではなく冬のような風が吹き続いていたが、風は勢いを失っていた。勢いよく渦巻いていた風は、相反する風により飲み込まれていく。炎を纏った刀を振ったにも関わらず。
凍てついた空間。そして黄色の鎧の
───明らかに人の形にも見える、凍てついた実体。
神の所業により、もはや動くことはない。
怪物はただ、そこで固まっているだけだった。
『成仏してくれよ』
───刹那。炎を纏った刃が怪物を真っ二つに砕いた。
怪物はもちろん断末魔の悲鳴はあげない。
ただ氷の体を裂かれながら、炎で溶けるようにその姿をあっさりと消していく。
それは
刀で怪物を切り裂いた直後、その身を炎で包み込み、そして───消えた。
残されたのは……いつも通りを崩された簿記室。
神が降臨した跡を消しさるように風も水も氷も炎もなくなったものの、並んだ机と椅子は列を見出し、窓ガラスも割られ、春の風を直接感じるように引き裂かれた防炎カーテンがなびくだけだった。
♢(Ⅶ)
簿記室が神の悪戯により、荒らされながらも夜の校舎はいつも通りであった。
しかし……怪物と
それは白い仮面をつけた、戦士。
そしてその右胸部には紅蓮の炎に似た結晶。
……それは
そしてその手に持っていたのは……一冊の本。
その本というのはいつも通りの日常に流通するようなものではない。
なにせ死を形容するかのごとく黒く変色したように装飾されているのだから。
『……』
戦士はただ何も言わず、簿記室の方を見下ろしていたが、戦闘が終わったと確認すると背を向けた。
『…………面倒なことになりそうですね』
戦士はただ、そう呟いた。
まるで神が地上の諍いに対して、酷く嘆くように。
《第三話:関係─ネクロノミコン─ 完》
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