第5話
俺は一度間合いを離し、臥威に再び殴りかかる。臥威はスウェーバックでそれを躱し、勢い余って俺はつんのめった。
「今年一年、俺はお前のおかげでさんざんだったよ!!」
臥威はこちらへ反撃してこなかった。その余裕ぶった態度が俺の心を逆撫でする。
「オーディションには落ちる! 彼女には浮気されてフラれる!! おまけに一緒にやっていたバンドメンバーとはケンカ別れ!! 全部、全部、全部、お前のせいかよ!!」
がむしゃらに振り回す俺の拳は、臥威にかすりもしない。まるで大人と子供のケンカのようだ。
「違うの、珠樹! そうじゃないの!!」
「うるさい! 巻き込まれたくなかったら黙って見てろ!!」
俺を止めに入ろうとする音々を怒鳴りつけた。
臥威は突っ込んでくる俺の腕を摑み、勢いを逸らして横に引き倒す。そのまま地面に突っ伏した俺を見下ろし、臥威は次のように言った。
「俺たちに出来るのは、機会を与えることだけだ。それを活かせるかどうかは、本人の手に委ねられる」
「……何……っだよそれ! 俺たちに機会を与えるだけ与えておいて、後は知らんぷりだって言うのかよ!」
臥威の態度は超然としており、まるで本物の神様のようだった。いちいち癇に障る。本当に、本当に気に入らない。
「そうやって天の上から、俺たちが苦しんでるのを見るのがそんなに面白いかよ!!」
せめて、せめて一発だけでも殴ってやらなきゃ気がすまない。俺は拳を振り上げ、なり振り構わず臥威に向かって突っ込んでいった。
「歳神なんてものがいるから、みんな苦しんでるんじゃないのか!!」
一瞬だけ、臥威の動きに動揺が走った気がした。拳が臥威の頬に突き刺さり、顔面が僅かに揺れる。俺は臥威の襟首を摑むと、引き寄せて詰め寄った。
「なあ、何とか言ってみろよ、おい!!」
次の瞬間、頬に激しい熱が奔ったかと思うと、俺の身体は宙を舞っていた。勢いよく地面に転がり、そのまま一回転する。一瞬後れて俺は、臥威に殴り飛ばされたのだと自覚した。
「珠樹っ!!」
臥威は地面に転がった俺に、つかつかと歩み寄ってくる。
「いい加減にしろ!!」
今度は俺の襟首を掴み、首を揺さぶった。
「いいか、俺たちは万能なんかじゃない! お前たちが思っているような、何でもできる力なんて、ありはしない!!」
いつの間にか空には、細かい雪がちらついていた。
殴られた頬がズキズキと痛んで熱い。肩から吐き出した荒い息は、煙のように真っ白だった。
「……じゃあ、じゃあ、何で歳神なんてものがいるんだよ!!」
「……」
「答えろよ!!」
臥威は答えない。ただ無言で、俺を睨みつけている。
「もうやめて、臥威!!」
その時、俺と臥威の間に音々が割って入った。
臥威は襟首を掴んだ手を緩め、俺は地面に尻もちをつく。
「音々……」
音々は俺に向き直り、近づいて跪いた。そのまま俺の頭を引き寄せ、ぎゅっと抱き締める。
「え……」
「ごめん……ごめんね、珠樹」
音々は俺の頭を掻き抱き、そっと頭を撫でる。しきりに謝るその声には、涙の色が混じっていた。
「今まで頑張ってきたんだね……辛かったよね。苦しかったよね」
「音々……俺、は……」
音々の胸から、温かい体温と心臓の鼓動が伝わってくる。彼女の声色につられ、塞がれた目から涙が溢れだすのを感じた。
「臥威の言う通り……。わたし達、歳神にできることは限られてるの」
俺を抱き締めながら、音々は言葉を続ける。
「わたし達に出来ることは機会を与え、それを見守ることだけ。特定の誰かに肩入れしたり、結果に介入することは許されていない」
わたし達は、神さまだから。そうでないと、公平性が保てないから。
音々の呟きはまるで、自分自身に言い聞かせているようだった。
「わたしは今まで、願いが叶わずに挫折した人をたくさん見てきた」
思いを巡らせるように、音々はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「頑張りすぎて、身体を壊しちゃった人。心を病んで、誰かを憎むようになっちゃった人。……それが元で、死んじゃった人だって、いる」
音々の声に悲痛な響きが混じった。抱いた腕に、ぎゅっと力がこもる。
「お役目のたびに、そんなのをずっと見せられて。それでも、何もしちゃいけないって。……無力な自分が嫌だった。悔しくて、悔しくて、たまらなかった」
音々は嗚咽混じりに自分の感情を吐露する。ぽたり、ぽたり、と涙の雫が俺の頭に落ちてきた。
「こんな仕事なんて、なくなっちゃえばいい。もう、終わりにしたい。そう……思ってたんだ」
「だったら……」
だったらもう、やめてしまえばいいじゃないか。
そう言おうとした俺の言葉を制するように、音々は俺の顔をぐっと引き寄せる。
「でもね、やっぱりやるしかないんだ」
「音々……」
「歩いていったその先にしか、道はない。それでも、歩くしかないんだよ。珠樹の歌で、わたしはそれを思いだすことができた」
抱き締めた腕を緩めると、音々はそっと立ち上がった。
音々の顔を見上げる。涙の跡が残ったその顔には、強い意志の光が灯っていた。
「わたしね、歳神の仕事を続けるよ。珠樹みたいに頑張っている人たちの、背中を押してあげたい」
「音々……俺はもう……」
「だからね、珠樹にも頑張って欲しい。そしたらわたしも、この一年間、頑張れる気がする」
音々は確かな足取りで歩きだし、臥威の傍らに立った。二人の身体を淡い光が包み始める。
「ありがとう、珠樹。わたしに歌ってくれたように、これからも誰かにその歌を届けてあげて」
「音々……っ!」
二人を包む光が輝きを増しはじめる。駈け寄ろうとした俺に、音々はにっこりと笑った。
「他の誰かが見てなくたって、わたしは珠樹のこと、ちゃんと見てるからね」
目の前でまばゆい光がぱっと弾ける。
光が収まったときには、二人の姿は忽然とその場から消えていた。
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