10話 本当にどうでもいい

 入院して1ヶ月が過ぎた頃、俺は病棟が移動になった。【開放病棟】から【ストレスケア病棟】と呼ばれる区域に移ることになった。ストレスケア病棟では、朝7時から夜9時までの間、スマホが使えるようになる。

 だから田中さんとラインでやり取りが出来るようになった。

 俺の新しい部屋は【158号室】であった。前いた部屋とほとんど変わらない。ベッドとテレビがある小さい部屋だ。

 俺はベッドに寝っ転がりながら、田中さんにラインを送った。


『今日から病院内でスマホが使えるようになったよ』


 すると、5分後くらいに返信が来た。


『佐藤さん、2人とも退院できたら、また一緒に自殺しませんか? もうそれしか無いような気がするんです。2人とも失明したのも何かの運命かもしれません。2人で一緒に死ねって神様が言ってるのかもしれません』

『俺も自殺したいと思ってるけど、また失敗するかもしれないから、田中さんは巻き込めない』

『大丈夫です。次は絶対失敗しません。私たちは終わってるので、もう自殺するしかないんです』

『俺は終わってるけど、田中さんはまだ終わってないと思うよ』

『いや、終わってます』


 本人が終わってると思っているなら、終わっているのだろう。俺がとやかく言うことではない。


「優雅、また田中さんと自殺するの?」と、あいりが横から言う。


「どうすればいいのかもう分からない、俺は」


 俺は本当に自分がどうすればいいのか分からなかった。生きればいいのか、死ねばいいのか、分からない。

 きっと田中さんは今、死ぬことしか考えられない状態なのだろう。俺はどっちも考えられない状態だった。俺は思考を停止した。


『ちんちん』

『え、いきなりどうしたんですか?笑』

『思考するのがめんどくさくなった。生きるのも死ぬのもめんどくさいね』

『なるほど』


 俺は、あいりに向かって「ちんちん」と言った。そしたら「なに?」と聞かれたので「なんでもないよ」と答えた。

 そこで俺は、意味もなく、ふいに絶望的な気分に陥った。それは、急に来た。


「俺はひどく孤独だ。一生俺は孤独なんだ」

「私がいるじゃん。あと田中さんもいるし」

「田中さんは、1人で死ぬのが怖いから俺を使ってるだけだ。あいりは、孤独に耐えきれなくなった俺が生み出した幻想だ。俺は精神病院に1人ぼっちだ。死ぬまで1人ぼっちだ。俺は頭のおかしい自閉症だ」


 すると、あいりは無言になって、特に何も言わなかった。あいりは部屋の中をふらふらと歩いている。蝶みたいだった。ベッドに横たわる俺は、適当な独り言を呟いた。


「幸せな奴は、どいつもこいつも不幸になればいい。そうしないと俺が相対的に幸せになれない。俺は生涯幸せになれないことが確定しているが、そんな俺が幸せになれる唯一の方法は、他の奴も俺と同じレベルまで落ちることである。つまり、この世に生きる人間全員を殺さないと俺は幸せになれない。くだらねえ」


 その独り言に、あいりが反応した。


「優雅はそのうち無差別殺人事件とか起こしそうで、怖い」

「実は、死刑になる目的で無差別殺人しようと思ったことは何回もあるよ。死刑以上に確実な自殺は無いから。でも下手に無期懲役にでもなったりしたら地獄だから、死刑目的で人を殺すのは合理的じゃない」


 俺は心の中にずっと、鬱々とした怪物を飼っている。俺は時折その怪物に乗っ取られる。いや、時折どころではない。常にその怪物に脳を乗っ取られている。暗くて鬱々とした巨大な怪物に思考を乗っ取られている。その怪物が俺を自殺未遂させた。


「優雅は人を殺したりしないよね?」

「わからない。退院したら殺すかもしれない。そのくらい、自分の人生がどうでもいい。ただ、刑務所には入りたくないから、たぶん殺さないと思う」

「殺しちゃだめだよ? 殺したら優雅のこと嫌いになるよ」

「うん。殺さないよ」


 俺は空返事をした。

 こうして精神病院にいて退屈な時間を延々と過ごしていると、頭がおかしくなりそうだ。本当に人をぶっ殺してしまいたくなる。

 もう自分の人生なんて本当にどうでもいい。本当にどうでもいい。本当にどうでもいい。


「本当にどうでもいい!」


 俺はベッドに横たわったまま、あいりに向かってでかい声で言った。するとあいりは不快感を露わにして、


「うるさいなあ!」


 と言った。


「もうだめだ、解釈不能だ。何を言っているんだ。きちんと書いてくれ。背景もどっかに書いといてくれ。もうだめだ。もうだめだ」


 俺はベッドの中で適当な言葉を呻いた。総括すると、俺は死にたかった。他人より、自分のことをぶっ殺したい。いや、他人もぶっ殺したい。両方。


 ◆


 入院日数が増えるにつれて、俺の感情はどんどん死んでいった。スカスカと感情が死んでいく。退屈に殺されそうになる。酒が飲みたい。タバコが吸いたい。DXMを飲みたい。毎日が本当に退屈すぎて、頭がどうにかなりそうだった。3ヶ月も入院しなければならない。その事実が俺を発狂させそうになった。

 それでも、時間は着実に流れている。時間はどんどん過ぎている。

 気がつけば、残りの入院期間は1ヶ月になっていた。ということは、もう2ヶ月もここに入院していたのか。本当に空白の時間だった。あと1ヶ月の辛抱。

 ある日、病室から出て、病棟をフラフラ歩いていると、飯塚さんが俺の前から歩いてきた。飯塚さんもストレスケア病棟に移ってきたのか。と思いながら、俺は俯いて、飯塚さんの方を見ずに歩いた。すると、すれ違いざまに飯塚さんは立ち止まって、俺に声をかけてきた。


「あ、佐藤さん」


 俺は立ち止まって、顔を上げて、飯塚さんの目を見る。飯塚さんは笑っていた。


「佐藤さん、私のこと覚えてますか? 前、話しましたよね」

「あ、はい、向こうの病棟で……」

「私、昨日からこっちの病棟に移ってきたんです」

「あ、そうなんですか」


 そこで俺の頭はフリーズして、言葉が何も出てこなくなった。

 

「なにか言わなきゃ」と、あいりが言うが、俺の頭は全く働かない。一度フリーズすると、俺の頭はゴミ同然になる。黙っていると、飯塚さんがやがて口を開いた。


「佐藤さんってあとどのくらい入院するんですか?」

「あと1ヶ月くらいです。飯塚さんは?」

「私は期間が決まってないんです。だから分からない」

「そうなんですか」


 そこで再び俺の頭はフリーズした。

 やがて飯塚さんは、気まずそうに「あ、すいませんでした」と言って、俺の前から去って行った。飯塚さんは、何故こんなに俺に話しかけてくるんだろうか。俺と仲良くなりたいのだろうか。

 もしそうだとしたら、それは無理だ。

 俺はコミュニケーション能力がうんこすぎる。人と仲良くなれない。

 でも、せっかく2度も向こうから話しかけてきてくれたのだ。俺も何か話すべきだろう。

 俺は遠ざかる飯塚さんの背中に向かって声をかけた。


「あの、飯塚さん」

「はい?」


 飯塚さんが振り返って、意外そうな顔で俺の目を見ている。目が合う。そして俺は思いついた言葉を適当に述べる。


「飯塚さん。俺は何故、生きているんですか?」

「うーん、ちょっとわかんないです」

「俺は根腐れしてるんです。生きる意味が無いんです。俺は、植物で例えるなら、根が完全に腐ってるのに水をやり続けてる状態なんです。俺が精神病院に入ってることは、それと同じです。俺は根が完全に腐ってる植物だから、俺にいくら水をくれたって意味が無いわけです。俺にとって精神病院は水です」

「ああ、わかります。入院なんて無意味ですよね。私も、こんなところから早く退院したいなって毎日思ってます。だって精神病院って、刑務所と同じじゃないですか。自由が奪われて、脱走もできなくて。何も悪いことしてないのに、なんでこんなところに居なきゃいけないんだろうって毎日思ってます。毎日が苦痛です」

「飯塚さんもそうだったんですね」

「私に限らず、患者さんはみんなそう思ってると思います」

「ですよね。好き好んで入院する人なんて、きっと1人もいないと思います」

「お互い、早く退院できるといいですね」

「はい」


 会話が予想外に長く続いた。話そうと思えば、案外話せるじゃないか。俺はそう思った。

 俺が少し自信を持ち始めたところで、飯塚さんが突然こう言った。

 

「実は私、少し前まで風俗で働いてたんです」

「あ、そうなんですか」


 いきなり何を言い出すのだろうと思ったが、俺はとりあえず適当に言葉を返すことにした。


「俺の勝手なイメージなんですけど、風俗で働いてる人って病んでる人が多いイメージがあります。心の奥に闇があるっていうか。精神病とか発達障害を持ってる人が多いイメージがあります」


 と言ったら、あいりが横から、


「童貞で世間知らずの優雅に風俗嬢の何が分かるの?」と笑いながら言った。


 俺はもしかして失言をしたかもしれない。そう思っていたら、飯塚さんは笑いながらこう言った。


「そのイメージで合ってますよ。私は精神病で発達障害なので。たしかに風俗嬢はそういう子も多いです」

「そうなんですね。ちなみに俺も発達障害です」

「私は彼氏に捨てられて自殺未遂して、ここに入院することになりました。佐藤さんはなんで入院してるんですか?」

「俺は引きこもりで人生に絶望して練炭自殺に失敗して、入院することになりました。後遺症で左目が失明しました」

 

 飯塚さんが俺の左目を見ているのが分かった。


「何かに依存して現実逃避を続けたところで状況は悪化しかしなかったよ。だから佐藤さんも何かに依存しすぎるのは良くない。人は1人で生きていけるようにならなきゃいけない」


 飯塚さんは失明した俺の左目を見ながら、独り言のように呟いた。俺は飯塚さんの目を見返す。飯塚さんの目は死んでいる。俺の目も多分死んでいただろう。


 ◆


「あと1ヶ月で退院だけど、体調や気分の方はどうですか?」

「死にたいです」

「やっぱり死にたいか。【死にたさ】っていうのは簡単に消えるものじゃないよね」

「はい」


 俺は診察室で大川先生と話している。大川先生と俺が何を話したって、きっと何の意味もない。俺はそのことを分かっている。精神科医と話したところで、俺の腐った脳は変わらない。弱者や変人は寿命を全うするだけで至難である。俺は早く死にたい。


「その死にたさを、小説にしてみたらどうだろう」


 こいつはどんだけ俺に小説を書かせようとするのか。俺は小説なんて書く気がない。


「先生は何でそんなに俺に小説を書かせようとするんですか」

「人生において、何か目標や目的を持つことは大事です。その一環としてね」

「俺は小説は書きません」

「そうですか。それは残念だな。佐藤さんはきっと才能があるのに」

「才能なんてありません。仮にあったとしても書きません。小説を書くなんて、そんなめんどくさいことやってる暇があったら自殺します」

「あなたを自殺させないために私がいるんですけどね」


 ◆


 大川先生との話が終わると、俺は部屋に戻って、ベッドに横たわった。俺は、ぼーっと虚空を眺める。あいりは部屋の隅にある椅子に座って、ぼーっとしている。

 あいりは退屈そうにしている。

 俺も退屈だ。

 横になって、ぼーっとしていると、そのうち、田中さんからラインが来た。


『また一緒に自殺しましょうね』


 田中さんは、俺と死ぬことしか考えていないのか。でも、田中さんをこういう状態にさせてしまったのは俺の責任だろう。だったら、最後まで責任を取るのが筋ではないだろうか。俺は返信した。


『いいよ。一緒に死のう』

『ありがとうございます』


 田中さんは俺と死ぬことしか考えられなくなってしまった。田中さんは壊れてしまった。田中さんを壊したのは俺だ。俺は田中さんに対して罪悪感がある。


「あいり」

「なに?」

「俺はまた田中さんと自殺するかもしれない」

「失敗したらどうするの?」

「わからない」


 ◆


 あいりと喋ったり、田中さんとラインしたり、飯塚さんと喋ったり、大川先生と喋ったり、ぼーっとしたりしてるうちに、俺は退院の日を迎えた。俺は3ヶ月の地獄からようやく解き放たれたのである。





 〜次回に続く〜

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