7話 後遺症
窓が割れた音と、男の大声。それらを断片的に覚えていた。
そのあと、誰かに運び出されたことも、断片的に覚えていた。
◆
目を開けた俺は、しばらくの間ぼーっとしていた。
俺の意識が完全に戻ったとき、俺はベッドの上にいた。だが病室ではない。
ここは救急車で救急搬送された患者が集められる場所だ。俺は過去に何回か救急車で運ばれたことがあるから似たような景色を知っている。何かの機械の音や、看護師の声が忙しなく聞こえる。薄暗い。
患者と患者はカーテンで仕切られている。俺の隣にいる男性患者のいびきが聞こえる。
俺がなんとなく視線を天井から右に移すと、ベッドのすぐそばには、あいりが立っていた。
「あいり」
俺は小さい声であいりを呼んだ。俺の声は掠れた。あいりは俺の目を見て「優雅、大丈夫?」と泣きそうな顔で言った。
「うん、大丈夫」
今の俺にわかるのは【ここが病院である】という事と【俺は自殺に失敗した】という事だけだった。
そして、俺は後頭部がとても痛かった。まるで鈍器でぶん殴られたかのような痛みがある。生まれて初めて感じる種類の痛みだった。
思考がだんだん明瞭になっていくにつれて、俺は少しずつ大事なことを思い出した。
「あいり、田中さんはどうなった?」
「わからない……」
「死んでたらどうしよう」
俺だけ生き残って、田中さんが死んでいる可能性がある。俺は頭痛に耐えながらゆっくり上体を起こして、枕元付近を見回した。すると、ナースコールのボタンがあったので、俺はそれを押した。すると、数十秒後に看護師がやって来た。
看護師がカーテンを開けて、言う。
「あ、佐藤さん。目が覚めたんですね。今先生を呼んできます」
「あの……」
「はい?」
「俺と一緒に車の中にいた女の子はどうなりましたか」
「大丈夫ですよ」
「そうですか……」
やがて看護師は去っていった。
その代わりに今度は医者が来た。
「佐藤さん、大丈夫ですか。どこか痛むところはある?」
「後頭部がすごく痛みます」
「両手は自由に動かせますか? 前に出してグー、パー、グー、パーってしてみて」
俺は言われた通りにしてみた。
すると、何故か左指5本が少ししか動かせなかった。医師は言った。
「佐藤さんの体には、やっぱり練炭自殺の後遺症が残ってますね。まだ他にもあるかもしれない。救助されるのがあと少し遅かったら、2人とも確実に死んでいただろうね」
「あの、俺と一緒にいた女の子は生きてるんですか?」
「うん。生きてるよ。まだ眠ってるけど、ちゃんと生きている。ただ、なんらかの後遺症が残ってる可能性はとても高いと思う」
「そうですか……」
俺が黙っていると、やがて医師は嘆くような口調でこう言った。
「23歳と17歳で自殺なんて、若すぎるよ。何もそんな歳で死ななくたっていいだろう。君と同世代の若者たちは何も考えずに猿みたいに遊んで生きてるだけだよ。君くらいの年齢で、何をそんなに思い悩むことがあるんだ。人生なんてもっと適当でいいんだよ。自殺企図をする人全般に言える事だけど、君はちょっと性格が真面目すぎるんだな。まあ、命を落とさなかったことは幸運だったよ。命さえあれば、また何度でもやり直せるからね」
「……」
「そうだ、佐藤さん、目はちゃんと見えてますか? 視力は大丈夫?」
そう言われてみれば、左目が見えない。右目しか見えていない。視界が狭い。俺はその事に今、初めて気がついた。俺は右目を手で覆いながら言った。
「左目が、何も見えません。左目が真っ暗です。多分、左目が失明してます」
「そうか……わかった。じゃあ、今日はもう遅いからベッドで横になって安静にしてなさい。詳しい検査は、また明日になると思う」
「はい」
医師は去っていった。
すると、あいりが悲しそうに言う。
「優雅が失明しちゃった……」
「うん。まあ、片方だけだったからいいよ」
俺はとりあえず横になった。今は何時なんだろう。視界がカーテンで遮られている上、時計がどこにもないから分からない。深夜だろうか。
俺はとても眠る気分ではなかった。
俺は自殺に失敗してしまった。
しかも後遺症を残して。
後遺症が残ったこと自体は自分でもびっくりするほど悲しくなかったが、田中さんがどうなったのかがとても気になる。だが、いくら気になったって、確かめる術が無いので、俺は仕方なく目を閉じた。そうしているうちに、俺は眠っていた。
◆
翌朝から、色んな検査が始まった。俺に残った後遺症は、後頭部の痛みと、左手の麻痺と、左目の失明だった。それ以外は正常だった。
だが、脳波に異常が見られるということだった。そのため、俺はその病院に入院する事になってしまった。
俺は看護師に連れられて、病室に向かった。病室は4人部屋で、俺以外の3人は既に埋まっていた。俺が来た事で満室になった。
俺は病室であいりと喋っていたかったが、他の患者の迷惑になると思って、自重した。あいりは時々、俺の顔を覗き込んできた。
その日の午後3時頃、病室に俺の両親と妹が来た。
俺の両親は、俺の姿を見ると、泣き始めた。妹は黙って俯いて突っ立っていた。
「ごめんね、ごめんね」と母が言って、俺の手を握って泣いている。父は黙って突っ立って「ごめんな」と言って泣いていた。父が泣いているのを見るのは生まれて初めてだった。母と父が俺を見て泣いている。
何がごめんなのか、よくわからなかった。
産んだことがごめんなのか、教育を間違えたことがごめんなのか、自閉症を持った人間に産んだことがごめんなのか、引きこもりにさせたことがごめんなのか、息子を自殺未遂させたことがごめんなのか。
「別に謝らなくていいよ」
と俺は言った。
母親は家から俺の着替えや歯ブラシやスマホの充電器などを持ってきていた。
そういえばスマホは、ずっと持ったままだった。俺はスウェットのポケットを漁った。すると、スマホが見つかった。俺はスマホを充電器に繋いだ。
しばらく無言で父と母と妹はその場に立っていたが、そのうち鬱陶しくなってきたので、「もう帰っていいよ」と言った。
そしたら母と妹はその場から離れていったが、父は最後まで残った。父は俺に「また来るから」と言い残して、去っていった。
「優雅、大丈夫?」と、あいりが言う。
「大丈夫だよ。それより田中さんがどうなったのか気になる」
俺は小さい声で言って、ラインを開いた。田中さんからのラインは来ていない。もし田中さんが既に起きていて、もし入院しているのだとしたら、多分スマホを持っているだろう。
俺は田中さんにラインを送る事にした。
『田中さん、大丈夫? 俺は今病室』
すると、30秒後くらいに返信が来た。
『大丈夫です。私も病室にいます。佐藤さんは後遺症とか大丈夫ですか?』
『俺は後頭部の痛みと左手の麻痺と左目の失明』
『私も似たような感じです。右目が失明しちゃいました。あとは、頭がずっと痛いです。あと、体が重い』
田中さんも失明していたのか。
『あいりちゃんは無事ですか?』
『無事だよ』
『佐藤さん、これから直接話しませんか? 場所は一階のロビーで』
『わかった。じゃあ今から行く』
俺はあいりと一緒に病室を出て、ロビーに向かう事にした。エレベーターに入って、一階に向かう。
一階に向かうと、ロビーは割と混雑していた。ロビーの椅子の中に田中さんの姿を探したが、なかなか見つからなかった。そうやってしばらくうろうろしていると、後ろから軽く肩を叩かれた。
振り返ると、そこにはグレーのスウェットを着た田中さんが立っていた。
田中さんは笑顔だったが、目元が腫れていて目が充血していた。さっきまで泣いていたのがすぐに分かった。
「あそこの椅子に座りましょう」
と俺は言って、ロビーの1番隅っこにある椅子を指さした。
俺とあいりと田中さんは、ロビーの隅っこの、あまり人がいない場所に座った。
俺・あいり・田中さんの並びで座る。そして、しばらく俺が黙っていると、田中さんが笑いながら言った。
「自殺失敗しちゃいましたね」
「うん。かなり惜しいところまでは行ったんだけどね」
「私が先生から聞いた話だと、たまたま通りかかった猟友会の人が通報して、レスキュー隊が来たみたいです。だからその人が通報しなければ、私たちは確実に死んでました」
「うん」
俺は正直かなり責任を感じていた。そもそも、俺が一緒に練炭自殺しようなんて言わなければ、田中さんは後遺症を残さずに済んだ。
「田中さん、本当にごめん。俺のせいで失明させちゃって」
「いえいえ、佐藤さんは何も悪くないですよ。私の方こそごめんなさい。ていうか佐藤さんだって失明してるじゃないですか。だから同じですよ。悪いのは通報した人です」
俺は何も言えなくなってしまった。
はっきり言って、あのまま誰にも通報されずに自殺に成功していた方が、間違いなくお互いに幸せだった。
結果的に、俺も田中さんも失明し、後遺症を残した。
誰だ、勝手に通報したアホは。
「先生が言ってたんですけど、明日、警察が私たちを事情聴取するそうです。集団自殺で、一応、事件性があるかもしれないからって」
「そうなんだ」
そういえばこの前ネットで知ったことだが、集団自殺で1人だけ生き残ってしまった場合、その人は自殺関与及び同意殺人罪に問われるらしい。6ヶ月以上7年以下の懲役と聞いた。
俺は、後頭部が痛くて、ぼーっとしていた。
病院を流れる人が空気の流れみたいに見えた。みんなどこからどこへ行くんだろう。俺はもうどこにも行く場所がない。
しばらくぼーっとしていたら、いきなり、田中さんが嗚咽を上げて泣き始めた。
「どうしたの?」と、あいりが聞くが、あいりの声は田中さんには聞こえない。
「どうしたの?」と俺は聞いた。
すると、田中さんは涙を手で拭いながら嗚咽混じりに答えた。
「さっき私のお母さんが私の病室に来たんですけど、その時に『お前なんて死ねばよかったのに』って何回も言われました。お母さんにはもう何の期待もしてなかったけど、さすがに辛かったです」
俺は悲しい気持ちになった。
きっと今、田中さんはめちゃくちゃ辛いに違いない。
「俺は田中さんが生きててよかったと思ったよ」
すると、田中さんは言った。
「私も、佐藤さんが生きててよかったです。もし佐藤さんが死んでたら、私はもう心が折れてました。私は高校にも1人も友達がいないんです。日本の中学・高校ってなんであんな閉鎖的な人間関係で集団生活を強要するんでしょうね。今の私は佐藤さんしか頼れる人がいません」
◆
「……なるほど。じゃあ、佐藤さんが田中さんを誘って、田中さんはそれに同意して、2人で一緒に練炭自殺を図ったって事で良いのかな」
「はい」
「はい」
翌日の10時頃、俺と田中さんは一緒に警察の事情聴取を受けていた。警察の人は1人だけだった。中肉中背の中年の男だ。
俺と田中さんが出会ったきっかけから、自殺未遂に至るまでの経緯を2人で刑事に話した。そしたらすぐに事件性は無いと分かってくれた。
「佐藤さんは何歳だっけ?」
「23です」
「田中さんは?」
「17です」
「そっか。君たちみたいな若い子たちが自殺を実行したってことは、今まで本当に生きてて辛かったんだろう。生きてればきっと良いことがある、なんて無責任なことは言えないけど、俺は君たち2人が幸せになってほしいと思うよ」
事情聴取はそれで終わった。
◆
俺も田中さんも、入院期間は1週間程度だった。
俺が自殺未遂したことは、既にこの病院から、俺が通ってる精神病院に伝わっていると先生が言っていた。だから、この病院を退院したと同時に、俺は閉鎖病棟に入院させられることになるかもしれない。
一週間が経って退院するまでに、俺と田中さんはよく一階のロビーの椅子に座って話した。入院中はとても退屈で、やることがないから、よく話していた。そして俺と田中さんは同じ日に退院した。
父と母が俺を迎えに来た。
俺は父が運転する車の後部座席に座って、車窓を流れる景色を死んだ目でぼんやりと見ていた。
「優雅。しばらくの間、精神病院に入院して、休憩しよう。優雅は疲れすぎたんだ。一旦全てをリセットして、ゼロからゆっくりやり直せばいい。そのために入院しよう」
父が車を運転しながら優しい口調で俺に言う。
「うん。わかった。入院するよ」
俺は入院することを受け入れた。
もう、全てがどうでもよかったのだ
〜次回に続く〜
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