2話 あいりと精神科に行こう

 朝の9時頃、俺は歯を磨いて、シャワーを浴びて、適当に髪を乾かして、精神病院へ出かける準備をした。服装はめんどくさいから黒のスウェットのままだ。

 俺はいつも病院まで自分で車を運転して行く。だが、正直、今も酒が抜けていない。だから今日は飲酒運転をすることになるだろう。


「ねえ優雅、今日は車じゃなくて電車で行けば? まだお酒が抜けてないでしょ」

「電車は人が多すぎてパニックになりそうになるから、やだ。電車に乗るくらいなら飲酒運転するわ」

「事故っても知らないからね」

「平気平気」


 俺とあいりは車に乗った。あいりは助手席に乗り、俺は運転席に乗る。精神病院までは車で10分程度の距離である。

 やがて病院につき、受付を済ませて、待合室で待っていると、俺の順番になったので、俺とあいりは一緒に診察室の中に入った。

 挨拶も程々に、俺と主治医はいつものように話し始めた。主治医と俺は机を挟んで向き合う形になっている。そして俺の真横にあいりがいる。


「佐藤さん、どうですか? 最近の体調の方は。消えたいとか、死にたいなっていう気持ちはまだ強い?」

「はい。特に変わりないです。死にたい気持ちとか、憂鬱な気持ちは、相変わらず毎日あります」

「そうですか。夜は、ぐっすり眠れてる?」

「いや、全然眠れないことの方が多いです」

「そうですか。じゃあ眠剤を少し増やしてみようか」

「はい」

「お酒はどう? ちゃんと今も辞められてる?」

「はい。最近はもう全然飲んでません」


 俺がそう言うと、横にいるあいりが「嘘つき。毎日死ぬほど飲んでるじゃん……」と、小さい声でつぶやいた。


「そうですか。それならよかった。アルコールっていうのは、鬱病の治療には悪影響しか及ぼさないんですよ。アルコールで一時的に気分が上がって、時間が経つとまた下がるでしょう? その落差が鬱を更に悪化させるんです。アルコールは鬱病をどんどん悪化させるだけなんです。アルコールに薬理作用を求めるのはダメなんですよ。お薬の効果も打ち消してしまうしね。アルコールを辞めない限り、佐藤さんの鬱は治りません。だから、佐藤さんが禁酒できてるのは、とても良いことだと思いますよ」


 俺は、嘘をついたことに関して、全く罪悪感を感じていなかった。

 やがて、話題はあいりの事に移った。

 実はこの精神科医はあいりの存在を知っている。以前、俺があいりのことを話したからだ。


「彼女さんとはどうですか? 仲良くやれてます?」

「そうですね。仲良しカップルです。たまに喧嘩することもあるけど、喧嘩するほど仲が良いって言葉もあるし。まあ順調に付き合えてるかなと思います」

「それならよかった。彼女さんは今も佐藤さんのそばにいる?」

「はい。すぐ隣にいます」


 すると、あいりが先生に向かって、突然お辞儀して、こう言った。


「優雅がいつもお世話になってます。ありがとうございます。これからもよろしくお願いします」


 俺は、あいりが言っている言葉をそのまま先生に伝えることにした。


「優雅がいつもお世話になってます。ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。って言ってます」

「礼儀正しいね。君の彼女さんは」

「そうですよ。私ってめっちゃ礼儀正しいし、優しいと思う。なのに優雅は私の優しさを理解してないんだよね。私ほど優しい女の子なんてこの世のどこにもいないのに、そのことを優雅は自覚してない。私が優しくしなかったら、誰が優雅に優しくしてあげるの? 優雅ってほんとに馬鹿だよね!」

「なんか今、彼女がめちゃくちゃ俺に文句言ってます。すごくうるさいです。俺のこと馬鹿って言ってます」

「ははは」


 主治医は笑った。俺もつられて少しだけ笑った。やがて、俺は気になっていたことを主治医に訊ねた。


「俺に彼女ができたのは半年くらい前のことなんですけど、やっぱりこれって何かの病気なんですかね」


 すると主治医は、小さく唸ってから、こう言った。


「うーん。近い病気で言えば、解離性同一性障害かな。いわゆる多重人格ですね。解離性同一性障害は、過度なストレスから自分の身を守るための防衛機制によって引き起こされる病気なんですよ。でも私は、佐藤さんが解離性同一性障害である可能性はとても低いと思ってます」

「そうですよね。別に記憶が飛んだり、人格が入れ替わってるわけではないし。単に、俺の妄想力が凄いだけなのかなって思います」

「私もそう思う。優雅は絶対、解離性同一性障害じゃないよ。だって私は私だもん。まあ私も私のことがよく分からないけどね。私って何なんだろうね」

「幻覚や幻聴という面で考えると、統合失調症の陽性症状という可能性もありますね」

「統合失調症ですか。でも俺、仮にそうだったとしても、全然困ってないですよ。もし俺に彼女がいることが病気だとして、その病気が治ってしまったら、俺はすごく悲しいです。彼女と別れたくないです。だから、もし俺が病気だったとしても、治さないでほしいです」

「私も治さないでほしい。ていうか優雅は絶対統合失調症じゃないでしょ。統合失調症って遺伝しやすい病気なんでしょ? 優雅の家系は躁鬱の家系なんだから、統合失調症にはならないと思う」

「彼女も、治さないでほしいって言ってます。あと俺は躁鬱の家系だって。あと、俺も、彼女の存在を病気だと思いたくないです」


 すると、主治医は穏やかな口調でこう言った。


「今、彼女さんがいる事によって、佐藤さんの精神が救われてる事は間違いないと思います。もし、彼女さんが突然いなくなってしまったら、佐藤さんはどうなると思いますか?」

「死ぬほど寂しくなると思います」

「私も優雅がいなくなったら寂しいよ」


 俺とあいりの意見は一致している。俺はあいりを必要としているし、あいりも俺を必要としている。

 やがて主治医は俺に向かってこう言った。


「まあ、ゆっくり考えていきましょう……。もし、佐藤さんの彼女さんが、佐藤さんを攻撃してくるようになったり、あるいは殺そうとしてくるようになったり……そういった不穏な行動が見られたら、すぐ病院に来て、教えてください。金曜日以外だったら私はいつでもいるので」

「わかりました」


 あいりが俺を攻撃したり、殺したりしそうになることなんて、今後あるんだろうか?

 俺と主治医の話は、そこで終わった。


「じゃあ、次の診察はまた2週間後でいいですか?」

「はい。大丈夫です」


 そして俺は椅子から立ち上がって、軽く頭を下げて「ありがとうございました」と言った。あいりも「ありがとうございました」と言った。主治医は「はい、お大事にしてください」と言った。


 俺は受付で金を支払い、薬を貰い、あいりと車に乗って家に帰った。


 ◆


 帰宅した俺とあいりは、なんとなくリビングに向かった。すると、リビングには専業主婦である俺の母親がいた。母親はテレビを見ながら言った。


「おかえり。病院の先生、なんか言ってた?」

「いや、いつもと同じだよ。特に変わりない」

「そう」


 ちなみに俺の母親は、あいりの存在を知らない。あいりの存在を知っているのは、この世で俺と精神科医の2人だけだ。

 

「ママー、私お腹すいた。なんか作って」


 当然あいりの声は俺にしか聞こえず、母親はテレビから視線を移そうとしない。

 それから少し間が空いて、やがて母親は俺の目をじっと見てきた。母親は何やら真剣そうな顔をしている。そして次の瞬間、俺は世界で1番聞きたくない言葉を聞かされる事になる。


「優雅、そろそろ働いてみたら? バイトでも何でもいいからさ。ずっと今の暮らしって訳にもいかないでしょ? もう無職になって3年も経つんだよ。そろそろ仕事探そうよ」


『仕事』という言葉を聞かされて、俺は固まった。俺は思考停止して、その場に無言で立ち尽くすことしかできない。

 すると、あいりが楽しそうな顔をして、俺の目を見てこう言った。


「あーあ、ついに言われちゃったね。ついにこの日が来ちゃったね。まあ優雅はクズニートだからしょうがないよね。そろそろ働け。クズ! あはは」

「俺はクズじゃない。自然淘汰されただけだ。あいりはちょっと黙ってて。うるさいから」


 すると母親は不思議そうな顔をして俺にこう言った。


「あいり? なんのこと?」

「いや、なんでもない。気にしないで」

「そう。……まあ今すぐ働けとは言わないよ。優雅の鬱病が完治したら、働くことも考えてみて。うちだってお金が沢山あるわけじゃないんだよ。家のローンだってあるし、結衣が大学に行くお金だって必要なんだから。分かった?」

「分かったよ。鬱が治ったら働くよ」


 俺は感情の無い空返事をした。


「あと、お酒も飲みすぎないこと。わかった?」

「はいはい。分かったから」


 俺が適当な返事をすると、あいりが小声で言った。


「ママ、絶対優雅は何も分かってないよ。今からお酒飲む気満々だよ」


 図星である。

 俺は冷蔵庫から冷えた缶チューハイを2本取り出した。それを見た母親は、深い溜息をついていた。俺はそれを無視して、さっさと階段を上って、自分の部屋に閉じこもった。母親は多分俺のことを諦めているだろう。


 ◆


 俺は自分の椅子に座って、キンキンに冷えた500mlの缶チューハイを思いきり開けた。そして、一気に全部飲み干した。

 すると、少しだけ酔った。頭がふわふわする。

 俺はいつもの習慣でノートパソコンを開き、匿名掲示板の書き込みを眺め始めた。横にはあいりがいる。


「優雅、どうするの? そろそろ仕事しろって言われたけど」

「仕事なんてしたくねえよ。死ぬまでニートがいい」

「優雅ってほんとにクズ」

「俺がクズなのは俺が1番知ってる。俺はどうしようもないクズでアホだ」

「自覚できてるだけまだマシだね。本当のクズは自分がクズだって認めないからね」


 匿名掲示板には、毎日のように誰かの『死にたい』が氾濫している。毎日この世の誰かが死にたがっている。俺もそのうちの1人だ。同族をネットで見つけて、安らぎを得るのが好きだ。俺と同じようなクズを見るのが好きだ。パソコンの画面の中で、俺と同じような底辺のゴミが居場所を探してウジャウジャしている。


「俺もこいつらと同じ穴の狢だな。生きてる価値ないクズだよ。俺なんて死んだほうがマシだ。この薬、全部飲もうかな」


 俺は、飲みかけだった錠剤の瓶を持った。そしたら、あいりが反射的に叫んだ。


「死んじゃやだ!」

「あはは、冗談だよ」


 俺は無機質に笑った。

 あいりは少し悲しそうな顔をして、言った。


「たぶん私じゃ優雅のこと助けてあげられないと思う。もうどうしたらいいのかわからない。自殺することが優雅にとって一番の幸せなら、私は自殺を止めないほうがいいの?」

「わからない」


 俺は2本目の缶チューハイを開けた。憂鬱と自己嫌悪と絶望感を消すために、必死に酒を飲んだ。頭がふわふわしてきた。あいりは俺に都合の悪いことは言わない。


『衣食住が保障されてるくせに、何に絶望してるの? 本当に詰んでる人に失礼だよ。お前みたいな甘ったれは早く死ねよ』


 みたいな正論は絶対言わない。


「俺って甘えてると思う?」

「甘えてるっていうか、単純に馬鹿だと思う」

「そっか。俺は馬鹿なのか……」


 俺は馬鹿みたいに酒を飲み続けた。






 〜次回に続く〜

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る