「泊まっていけ」だなんて大胆ですね、先輩?
紫鳥コウ
「泊まっていけ」だなんて大胆ですね、先輩?
「二千円をお願いします」
「
見るかぎりだと、ケーキがふたつくらい入っていそうだ。ふたつ――ということは、唱歌は、ぼくがこう言ってくれるのを待っているのだろう。
「上がってく?」――という言葉。
もう八時だ。むかし、唱歌を家まで送っていったことがあったけれど、人通りの少ないところを何度も通ったし、ひとりで帰すのは心配だ。
「……はやく帰らないと、ナンパされたり不審な人に声をかけられたりするかも?」
だからその上目遣いは、卑怯なんだって。かわいすぎるだろ。心臓がどくんどくんと波打っているのが、唱歌に聞こえていやしないだろうか。
それにしても――真冬の夜は凍えるほど寒かっただろうに。
「修論の執筆でお忙しいでしょうし、わたしは帰りますね。それでは、メリークリスマスでした!――って、ちょっと、先輩……?」
唱歌をこちらへと抱き寄せる。ブラウンのコートは冷え切っている。白色のマフラーがするりと抜け落ちて、スリッパの上へかぶさった。
「寒かっただろ?」
「いまは、あったかいです……というか、びっくりしてます」
「いいから、上がっていきな」
「お邪魔でしょう?」
「このまま唱歌が帰ってしまったあとのことなんて、考えたくないけれど」
唱歌がクスクスと笑う声が、ぼくの胸のなかで押し潰されている。
「ちょっとだけ、苦しいかも……です」
「わっ、わるい!」
「でも、いまは……顔を見られたくないので、もう少しだけこのまま……」
ぼくも、いまの自分の表情を見られるのが恥ずかしい。唱歌だけじゃないよ。
* * *
黒色のハイネックにブラウンのパンツ。シンプルであり、くつろぐ気まんまんなコーデだ。
湯気の立ったコーヒーとココア。フォークがふたつ、空になった小皿の上に仲よく寝転がっている。
ドラマの一挙放送を、ベッドの端に腰をかけて見ている唱歌を横目に、英語で書かれた論文集を、ボロボロになった辞書を頼りに読んでいく。
「先輩、口にクリームがついていたり、いなかったりしますよ?」
「どっちだよ」
ぼくは、論文の中心的な議論の部分から、目を離すことができないでいる。
「ぬぐってあげましょうか?」
「これを読んでいるから、そうしてくれると助かる」
「はーい」
すると、唱歌の両手がぼくのほほを抑えて、ぐいっと首を持っていかれた。そして、唱歌の甘い香りのするほんの一、二秒の口づけが、ぼくの頭をくらくらとさせた。
わたしの思い通りになりましたね?――と言いたげな表情をしている唱歌。ペーパーバックは、ページを開いたまま床に落ちてしまった。
腰をひねってそのまま押し倒し――というわけにはいかない。なぜなら、ぼくたちは付き合っているわけではないからだ。ほーんと、不思議なことに。というか、意味が分からない。
修士論文の執筆の邪魔になってはいけないから、付き合うことはやめましょう。告白は、修論を提出したあとに受け付けますと、あのとき唱歌は言った。
でも実際は、こうして、もし第三者ならハンカチを噛みしめてしまいそうな、いちゃいちゃカップル――みたいなことをしているわけで。
なんというか。すでに付き合っているという事実があって、それを裏付けるエビデンスとして告白が
「ところで! こんな時間なので、わたしはもう帰れません!」
「泊まっていっていいよ、べつに」
「へえ……送っていくよ、とか言わないんですね」
「ううん……寂しいし。最初から、帰す気なんてなかったし」
ぼくたちの間に、気まずい沈黙が流れだした。
こうして見つめ合ったままでいると、恥ずかしさが募ってくる。肩に手を置いて、ぐっと引き寄せると、唱歌はぽんと自然に飛びこんできた。
「泊まっていって、本当にいいんですか?」
ぼくの耳元で、唱歌がそうささやいた。温かい息が、ふんわりと吹きかかってくる。
「うん、いいよ」
「大胆ですね、先輩って?」
「ちょっとだけ、このままでいていい?」
「……わたしも、もう少しこのままじゃないと、ダメみたいです。ねえ、先輩。もうちょっと、ぎゅっとしてくれませんか。この幸せが、逃げていかないように」
ぼくたちは、あふれんばかりのこの幸せを、
「修論の提出って1月7日でしたっけ?」
「うん。それまで、待ってくれるよね?」
「待てるわけないって思っちゃうくらいですから、もう答えは決まっているんですけどね。だから……」
「だから?」
唱歌は、身をよじってぼくの両腕をゆるめると、ぼくの耳元に口をつけて、こうささやいてきた。
「とびきりの告白の言葉をくださいね、先輩」
「泊まっていけ」だなんて大胆ですね、先輩? 紫鳥コウ @Smilitary
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