第10話 二人の出会い

 軍服を身に纏ったキアンは、上官の命令に従って、敵軍の研究所の中を進んでいた。


「これは……」


 研究所は既に捨てられ、がらんとした沈黙が場を恐怖的に支配していた。


「こりゃあラッキーだ。時間潰してから帰ろっと」


 キアンは重く冷たい暗闇に遠慮なく踏み入った。無機質な空間に不釣り合いな松明を設置して、狭い階段を下りていく。

 拾った資料を見れば、この研究所で人体実験が行われていたことが分かる。


「どこの勢力も煮詰まってるなあ。うちと似たようなことやってんだ」


 地下道の先、部屋の一つから明かりが漏れていた。その部屋は扉が解放されていた。


「腐臭がするな……」


 キアンは腰のスプレー缶に手を添えつつ、慎重に警戒しながら部屋を覗き込んだ。

 彼の目に飛び込んできたのは一人の少女の姿。


「ほら、ほら」


 彼女は何とも言えない楽しげな様子で、テーブルに着いた死体の口元へ食べ物を運んでいた。彼女の質素な格好は、彼女こそがこの研究所における実験対象であったことを示していた。

 裾の破けたローブを羽織った、舞い散る羽毛のような髪の毛を持つ、極限までやせ細った少女。

 キアンはその光景の奇妙さを飲み込むのに時間をかけた。ゆえに先に声をかけたのは少女の方であった。目を丸くして尋ねる。


「誰?」

「……き、君こそ。何をしてるんだよ」

「私のきょうだい、お腹、空いてるの」


 少女の素っ頓狂な返答に、キアンの動揺は深まるばかりだった。彼女の向かいで突っ伏す骨と皮の存在は、既にその皮膚を腐らせている。

 キアンにはそれを指摘することなどできなかった。

 ガリガリと遠慮なく頭を掻く少女、彼女が持つスプーンにはレーションと腐肉の混ざったものが乗っている。


「餓死……か?」

「食べ物……」

「食べ物!? あ、そうか食べ物! あっ、あげるから。こっちを食べなよ」


 キアンは部屋に立ち入らないままに、空気中にパンと牛乳の瓶を描いた。


「な、に?」

「ほら、食べれるよ。食べてみせようか」


 キアンはパンをかじって見せる。


「ジャムとかも欲しければ描くから」


 少女は椅子からずり落ちて、地面を這うようにしてキアンの足元まで来た。目を輝かせてパンを受け取る。


「いただきます」


 少女は咀嚼して嚥下するという基本的な行為にすら難儀していた。

 キアンは壁の縁を撫でたりして何度も確認した。


「この扉、空いてたよな。空いてた。その辺にインスタント食品だって転がってた」


 この部屋の扉は大きく変形しており、長期間解放され続けていたことに疑う余地がなかった。


「なんで食べ物を探しにいかなかったんだ?」


 少女は腕を持ち上げてキアンの奥を指差す。


「あの。取って、ください」


 キアンが振り返ると、そこには幼児用の音の鳴るボールが転がっていた。


「アルのおもちゃ、泣き止むから」

「……アルって?」


 少女が次に指さしたのは、部屋の中に転がっている一際小さな死体である。


「ひっ——」


 キアンの動揺は遂に臨界した。背筋をおぞましい気配が走り昇っていく。咄嗟に口を押えたが、溢れる嘔吐液を全て止めることはできなかった。

 ぺちゃ……ぺちゃり。

 床に落ちた嘔吐物を、少女は何でもない様子で舐めとっていた。しかしそれも、敷居を越えたものだけ。


「——!! やっ、やめろ!!」


 キアンは少女の肩を抑え上げて少女の行為を止めさせる。


「いっいたい」

「誰が君たちにここから出るなと言ったんだ! 言え! 僕が殺してやる!!」


 少女は恐怖に涙を浮かべながら答えた。


「っ……お、お母さんを、殺さないで」

「はあ!?」


 キアンは頭がおかしくなりそうだった。彼自身、世間一般の子どもとは相当に異なる人生を送ってきてはいたが、その境遇でもってなお異常と断じてしかるべき状況だった。あるいはその境遇ゆえに、親というものへの幻想を持っていたがために、より同情を深めたという側面もあった。

 彼は少女に会うまで、もし人体実験を受けた子どもを見つけでもしたら、今回の収穫として自分の軍に連れ帰るつもりでいた。そうなったならばその子供は、また人体実験をされるか、あるいは厳しい教育と訓練の後に最前線へと放り込まれる少年兵になる。

 それでも別に構わない。誰が不幸になっても構わないと思っていた。


 キアンは深く呼吸をして自らを落ち着かせると、少女を抱き上げた。羽のように軽く感じられた。


「僕はキアン。君の名前は?」

「……名前?」

「君はお母さんになんて呼ばれてたの?」

「『3番』」

「センスな。じゃあ今日から君は『ソレイユ』ね。名前を付けたんだから今日から僕が君の親だよ」

「あ、え……?」

「ひとまずこの部屋から君を出すから」


 キアンはソレイユの親になることを『選択』した。





**





『この声は、荒れ果てた大地に響き渡り、苦痛に満ちた心に安らぎをもたらす日を待っています』

『しょうがないな。次のテストで何事も無ければ、試験的な運用を打診しよう』





「君にとってフォルカンは庇護対象だ。ならば君には今回のクロステストを失敗させる動機があった。今回のクロステストの成功は、フォルカンを戦場に送るきっかけとなりうるのだから。親というならその判断を仰がなかった私が悪いだろう」

「いや、その……はい。ソレイユを実際の戦場に出すのだけは、少なくとも今は、まだ早いと僕は思いました。で、でも、管理人は悪くないですよ? いつのインタビューでだってこのことは話してなかったんですから」


「だがレディ・イリデセントには話していたんだな」

「まあそれは……彼女は人と打ち解けるのがもの凄く上手いですから」

「なら私の不徳の致すところだ」


 管理人はフォルカンのセリフを一つ思い出した。


『星の光は暗闇を照らすためにある。瓶に閉じ込めておくなんてもったいない』


 あれは過保護な親のことをいっていたのだろうか、と。


「レディ・イリデセントは僕が東セクターで働いているときにその会話の内容を漏らしました。それを聞いた僕は彼女にクロステストを失敗させるよう頼んだんです。代わりに彼女は、彼女の父親の戦災PTSDを取り除いてほしいと頼んできました」

「それを素直に受け取るならば、まるでこの事件の発端はチャコル、君のように思えるな」

「えっ? その含みのある言い方は何ですか? 間違いなくそうですよね?」


《前管理人とアルケミストの事件から着想を得たのでしょうね。あなたたちエージェントに身内の人間を治療させることができるのだと》

「だろうな。彼女はチャコルが契約を迫ってくると分かっていて、私とフォルカンの会話内容を漏らしたんだ」

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