第9話 コードネーム:チャコル
中央セクター、エージェントの待機室。広い室内には子供が二人。一人は六肢を捥がれてジャングルジムに縛り付けられており、もう一人は机について絵筆を動かしていた。前者の女子は昆虫的特性を示しつつあるが、しかし後者の男子には異変は見受けられない。その同様の欠片も無い態度は、彼の恒常性が保たれていることを如実に体現していた。
彼の手元にはハンドガン型の注射器がある。管理人が使ったのと同様の、アンチ情報汚染体が装填されていたものである。使用済み。
「チャコル。君は間に合ったんだな」
黒髪の一房が首の僅かな動きに揺れている。長い前髪から青い瞳が覗く。
かつてフォルカンはそれぞれを「夜空のように深い黒色」、「夜明けのように澄んだ青色」と表現した。
エージェント:チャコルは彼のスケッチブックから目を上げると人懐っこく微笑んだ。
「ま、これでも最年長ですから」続けて大袈裟な表情で「とはいえ十三歳の子どもに過ぎませんからあまり過度な期待はしないでください」
「では、期待はしないから手を貸してくれ」
「僕はここでお絵描きしてます、と言ったら?」
「フォルカンの喪失を許容できるのか?」
チャコルは筆を一度くるりと回すと、スケッチブックに目線を戻した。
「安心してください管理人、死にはしませんから。アルケミストがいればみんな元に戻ります」
「三十分以内にフォルカンを発見し、捕縛できたらの話だな。彼女が歌い続けている限りいたちごっこになる」
チャコルは不思議そうに顔を上げた
「ソレイユは実験場にいるでしょう。近くにアルケミストを控えさせていたのでしょう?」
「事件の直後、どさくさの中で、実験場は解放されていた。フォルカンの現在地は不明だ。そうだな?」
《私の東セクター監視カメラへのアクセスが制限されているのは、セクター管理者以上の権限に阻まれているためですね》
チャコルはぱちくりとまばたきを繰り返した。
「レディ・イリデセントは何をしているんですか」
「それを彼女に聞ければ話は早いな」
音を立てて立ち上がる。
「ではソレイユは死ぬというんですか!?」
「それは我々の行動次第だ」
チャコルは壁際の自分の装備をひったくるようにして手に取った。ペンキにインクにスプレーまでが並ぶ、芸術的に汚れたジャケットを羽織る。年季の入ったジャケットで、塗料の匂いが強く染みついていた。
「協力に感謝する」
二人並んで東セクターへ向かって走り出した。チャコルの表情は真剣そのもの。
「貴重な時間を浪費してしまい申し訳ありません」
「問題ない」
「コードネーム:チャコル。この絵筆でもって、管理人に貢献します」
《前方から虫が一匹です》
それの動きは非人間的であり、壁を歩くかのようにしながら現れた。
逆関節の脚が鋭い爪となって床を引き裂く。もはや人間の面影は僅かで複眼が剥き出しに。血を纏った両顎が空気を裂き、彼らの口からは卑猥な唸り声が漏れている。
人間とクワガタの中間の見た目を持つその姿が視界の奥隅に移った瞬間に、管理人はもう銃を構えていた。
管理人が普段のものから持ち替えた拳銃は一見すると古典的なリボルバーである。しかし特殊な弾頭の持つ麻酔作用は効果的に作用した。
腹部に銃撃を受けた敵は、意識を失いながら管理人の前に滑り込んだ。
「鮮やかですね。これぞカラヴァッジョの光と影、闇を裂く一筋の光です」
「やや際立ちすぎるな。葛飾応為くらいが好みの塩梅だ」
「東洋系に見えますが日本人ですか?」
「プライベートを知りたければ私の信用を勝ち取ることだ」
続けて現れた三体。それらは管理人の弾丸を外骨格で受け流し、勢いを衰えさせることなく突っ込んでくる。
「学習されたな」
「では僕が」
「許可しよう」
前に出たチャコルがハケを素早く縦横に振る。
「ほいっ」
滴るほどにペンキを垂らしていたはずのそれは、運動を受けたときだけ不思議と全くペンキを放出せず、代わりに二人の前方に廊下いっぱいの黄色い『何か』を貼った。
甲虫たちは黄色い壁に阻まれた。その間にチャコルはややのっぺりした色合いの拳銃を描いている。塗料が空気中に張り付く様子は、まるでそこに不可視のキャンバスがあるかのようである。
「クオリティは低いですがまあ拳銃ということにしましょう」
黄色い壁が破り抜かれるのと同時に、チャコルの描いた拳銃が厚みを伴って顕現した。チャコルの放った三発の弾丸は彼らの外骨格を貫通する。全ての敵は先の個体と似た様な挙動をして動かなくなった。
管理人にはそれらの弾丸が「貫通する」のではなく「すり抜けていった」ように見えた。
「『境界照写』というんだったな」
チャコルはまるで人を斬ってから納刀するかのような大振りな仕草でハケと筆を仕舞った。塗料が床に散る。
「この通り、僕は空中に絵を描き、それを動かすことができますが、これは僕の指定したレイヤーにのみ干渉します」
管理人はサイトの資料、チャコルに関する報告書のインタビュー部分を思い出した。
チャコルは「世界は無限のレイヤーで構成されている」と語っている。彼はその表面に絵を描いているだけなのだと。
「今の弾丸はこの三名の『意識』のレイヤーだけを撃ち抜きました」
「現実と幻想の境界線上に絵を描く、か。エッシャーに例えればいいか?」
「いい例えですが僕ならば、無限の階段かのように錯覚させる、というアプローチをとるでしょう」
「GPSが必要になるな」
《私がいますよ管理人!》
「助手に頼るくらいならコンパスに頼るほうがマシだ」
「推奨します……」
実験場を見下ろす東セクターのオペレーショナルルーム。アルケミストの部隊はそこで敵性クワガタたちを鎮圧したところだった。
「レディ・イリデセントの白衣には『むにかわ』のキャラものクリップが止められていたはずです、探してください」
「むにかわってなんすか」
「私も知りません! けど見ればわかります。むにかわって感じです」
アルケミストはコンソールを操作して、この部屋の機器をサイト全体のネットワークと再接続した。管理人から送られてきたIDを使って、レディ・イリデセントの指示を取り消す。
「助手さん、どうですか」
見下ろす実験場の扉が重い音を響かせながら閉まっていった。
《よくやりましたねアルケミスト、東セクターは私の手に戻りました》
「フォルカンはどこに? 座標を指定してもらえればここから変形させます」
助手はすぐに返事をしなかった。それは芳しい返事ができないときの間。
《監視カメラの画像では個人の見分けが尽きませんね》
「なっ……どうにかならないんですか! この施設の広大さといったら、遭難すら可能なくらいなんですよ!?」
《過去の映像を遡っていますが、多少かかるでしょう》
「リーダー! 見つけたぞ、イリデセントのIDカードと端末も持っている!」
アルケミストは隊員の押さえつけている巨大なクワガタに近付くと、指で頭からなぞっていった。見る見る間にその人物は人間の姿を取り戻す。
レディ・イリデセントの白衣を羽織っていた一般女性職員は、困惑した様子で辺りに目を回した。向けられた銃口に怯えた様子を見せる。
「な、何事ですか。収容違反ですか?」
アルケミストと部隊指揮官は顔を見合わせた。
「リーダー、これはもう疑う余地もない」
「ええ」
アルケミストはハンカチを放って職員のための服を一瞬で作った。感謝の言葉には微笑みだけ返す。
中央の椅子に置かれていた使用済みの注射器が目に入った。
「助手さん、レディ・イリデセントの居場所は分かりますよね? きっと彼女はフォルカンの歌の影響を受けていないでしょうから。管理人の判断を仰いでください」
《少々お待ちを》
隊員が一人、アルケミストの元へ『むにかわ』のクリップを持ってきた。
「貰っちゃったらどうっすか? 可愛いし」
「浅はかですね。私そういう、女が好きそうなデザインが嫌いなんです」
「マセたガキだな」と溢したのは指揮官。すぐにバレて腕をガトリングに変えられる。隊員たちから歓声が上がり、アルケミストは満足げに鼻を鳴らした。
「こういうのですこういうの」
《管理人、レディ・イリデセントを捕捉しました》
「了解した」
チャコルは読んで字のごとく、自分の胸を撫で下ろした。
「なんだよかった。座標が分かったのなら、後はアルケミストに任せれば良さそうですね。本部から来るエージェントには彼女を差し出して時間を稼ぎ、そのうちにソレイユを見つけましょうか」
「その指示を下す前に私は君に確認することがあるな」
「何を?」
「チャコル、君はフォルカンと仲がいいんだな」
「どうして?」
「アルケミストのことはコードネームで呼ぶのにフォルカンのことはソレイユと呼んだだろう。だから少し気になっているんだ」
「そりゃあ多少の仲ですよ。僕らが同時に保護されたことはご存知でしょう?」
チャコルとフォルカンは同時に保護された。衝突する二勢力のどちらもが全滅した不可解な事件。組織が派遣したエージェントがその跡地で二人を発見したのだ。
「ではクロステストの失敗は君に『利』するはず、だな?」
チャコルはおどけるような足さばきで大きくのけって見せた。
「なっ、何を仰っているんですか! 何が僕に利益をもたらすと!?」
「私は君の反感を買う約束をフォルカンと交わしてしまったかもしれないということだ」
「今は時間が無いんですよ!? 何を胡乱な事を仰っているんです!」
「私は報告書の内容を暗記している。君の超能力には『記憶』というレイヤーも存在し、それらの『コピー』や『ペースト』もできるのだと。これは一瞬のうちに他人に記憶を付与することができるらしいな。君とフォルカンの出会いの部分だけでいい。私は君に命令できるができればしたくない」
「……なるほど」
チャコルは肩をすくめると鼻で笑った。自分の頭にスポイトを刺しこみ自分の記憶を抽出すると、素直に管理人に差し出す。
「まったく。いつから僕を疑っていたんですか?」
「モニターを見ていた私ですらギリギリのタイミングだったのに、注射が間に合っている時点で、君が計画を事前に知っている可能性はあったな。後は発言の指向性がどれもこれも露骨すぎるところか。お喋りが災いしたな」
「画家ですから仕方ないですね。彫刻家に転職しようかな」
「その偏見がどのような環境で育まれうるのかも気になるところではある」
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