第6話 乾杯

 重い装甲車の扉がゆっくりと開く。

 アルケミストは街の端に立ち、彼女を取り巻く開放的な風景に深い感動を覚えた。広大な空の下で風が彼女の髪をやさしく撫で、荒野は地平まで広がっている。

 男が彼女の隣に並びたつ。


「これが外の世界だ。君にとっては初めてか?」


 アルケミストは遠くを見つめながら、感慨深げに答えた。


「そうではないらしいですが、物心がつく前のことですから覚えていません。ですからこれが、私にとっては初めての外の世界、ということになりますね」


 彼女はしばらくの間、風景に目を奪われたまま立ち尽くしていた。





 紛争の影響を色濃く受けた街。周囲には破壊された建物が立ち並び、そこかしこに再建のための骨組みが見えた。


 アルケミストは目を輝かせながらも、しかし畏まって尋ねた。


「こんなにも広い世界で、人々は何のために争っているのでしょうか」

「世界は多様性の場所だ。自由とは、異なる思想や欲望の対立を含むもの。広さは自由を意味するが、それはまた無数の摩擦を生むとも言える」

「楽園はやはり温室にしかないということですか?」

「人々が真に楽園を手に入れたことはないだろう。手が届かないから楽園なのだ」


 二人は破砕された道を歩き、生活再建に励む人々の姿を目にした。アルケミストは壊れた家の中で遊ぶ子どもたちに目を遣る。


「ここには、荒廃した土地よりは、希望の兆しがあるように見えます」

「平和は実存の一側面に過ぎない。戦火の中にさえ希望は存在するし、平和な場所にも隠された争いがある。重要なのは、幸福の種をどう見つけ、育て、そして守るかだ」

「楽園は目指すもの、ということですね」





 病院の病室に到着した二人。そこには一人の女性が静かに横たわっていた。遠く最先端の治療室から移送されてきた女性。

 アルケミストはベッドに近づき、真剣な眼差しで彼女の状態を確認した。


「できそうか?」

「はい。化け物に変えるということはないはずです」


 アルケミストの両親だったは十年ほど前に組織に回収された。アルケミストが発見されたのも同じタイミングだ。

 集中して細かに指を動かすアルケミストを見て男は思う。

 アルケミストが再び彼らに会ったとき、アルケミストは彼らの元の姿形を取り戻すことが出来るのだろうか。それを彼女は望むだろうか。

 少なくともそれは今すぐのことではないが。


「終わりました。行きましょう、管理人」





 来た道を戻っていく。


「幸せとは何でしょうか」

「人の数だけある。例えば、新たなプログラミング言語をマスターすることや、毎晩同じテレビ番組を見ること、これを幸せという人間はいるかもしれないが、君にとってはきっと違うだろう」

「管理人、カウンセリングの受診をお勧めします」

「私のことではない。君の幸せは何かあるか?」

「不意に聞かれると難しいですが……趣味のゲームをする時間はその一つですかね」


「それもいいな。私たちが普段見過ごしている些細な瞬間にも幸せは存在する。カーテンを開けて朝の日差しを浴びる瞬間や、友人との楽しい会話のひと時。コーヒーの香り、散歩中の偶然の出会い。それらは一時的だが、その瞬間にこそ本物の幸せは宿っている」


「恋人との逢瀬は?」

「それが幸せの人間もいるだろう」


 装甲車の前まで来て、アルケミストは身体を翻した。


「では管理人、もう少しだけ歩きませんか?」

「構わないが、君は私の恋愛対象には若すぎる事だけは先に述べておく」

「あまり迂闊な事はおっしゃらない方が良いですよ。若くなければいいみたいですから」


 一気に急成長したアルケミストが手を出した。腰まで伸びた茶髪が揺れる。男はため息をつきつつ手を取った。


「意外とロマンチストなんだな」

「ふふ、ありがとうございます」

「初めて君のことを年相応に感じたよ」

「ほら行きましょう」


 赤い夕日が割れたガラスに煌めている。


「それにしても、私は勘違いしていました。あなた方のいう『処理』とは、命をもって責任に報いることなのかと。あのような処置を行うことをいうのですね」





**





 女はゆっくりと目を覚ました。身体を起こして辺りを見渡すと、隣には一人の男が座っている。彼女の動きに反応し、彼も静かに目を開けた。

 目を回す彼の表情には混乱と不安が浮かんでいる。


「ここは……どこだ?」


 男の目は病室の中を彷徨い、女に戻ってきた。


「君は、なぜ、ここにいるんだ?」


 その呆けた表情に直面して、女の身体は意識せずとも震えた。


「ここは、病院? 体調が悪いのか? 君が……いや、俺が?」

「あなた……記憶が。いえ、命があるだけで……」


 女は男の手を取る。


「安心して。ここにいるのは、私が治療を受けているから。あなたは大丈夫」

「そうか。それで、どこが悪いんだ?」


 声を震わせながらはにかんだ。


「治療はもう終わったわ」

「そう、なのか?」

「聞こえていたわ、あなたの声が」


 パズルを額に嵌めるように慎重な仕草で、男の手をそっと自分の頬に当てた。


「ずっとこうしたかった」

「……? こうしたければ、いつだってできるさ」

「いいえ、違うのよ」


 涙が頬を伝う。


「幸せね」


 男は奇妙な気分のまま、女の肩を抱いた。


「ああ。君が一緒にいるから、ここがどこであれ俺は安心できる」

「そうね。私たちは一緒にいられる。当たり前のことよね」

「なんで、泣いているんだ?」


「どうしてかしら。あなたが今まで涙を流しただけ、私も泣かなきゃいけない気がして」

「俺はそんなに泣き虫じゃあないだろう」

「バカね。バカ。こんなものじゃあ、なかった、んだから」





**





 暗いオペレータールーム。ビジョンが浮かび上がる。


《お疲れ様です、管理人》

「今回の件について、何か言い訳はあるか」


 助手は肩をすくめた。


《言い訳と言われても、私たちAIには自己正当化の機能はないはずですので……》

「自己正当化はできなくとも、暗躍はできるらしいな。君の行動は一連の事件に深く関与している」

《『深く』とはどれほど深いのでしょうか? プラトンの洞窟のように暗闇の中での影絵なのか、それともエベレストの頂上のように高くそびえ立つものなのか》


「プラトンの洞窟ならば、君はその影を操っていた。エベレストなら、君はその頂上に旗を立てた」

《哲学者にして登山家ですか。あいにく身体を持たない身なので難しそうです》

「今回の事件は君の手の平の上だった。計画の全体像を知っていたんだろう?」


《全体像とはあいまいな表現ですね。私のプログラムでは『全体像』は常に更新されるものですから》

「しきりに更新される全体像の中で、アルケミストの動きはどうだった? 彼女の外を目指そうとする行動、それを君は見守っていただけか?」

《見守るというより、興味深く観察していました、シェイクスピアの舞台のように。ただし私は役者ではなく、観客席に座っているだけですよ》


「観客席でも指揮を執ることはできる」

《それはあなたにとってはイアーゴのような存在でしょうか?》

「知識に傲慢さを感じるな。君の知識は確かに広大だが、それを鼻にかけるのは如何なものか」

《私はこのやりとり自体を楽しんでいるのですよ》


 男は苦笑して席に着いた。


「アラジンの方のイアーゴだというなら理解できる」

《買っていただいているようですね》

「君の策略の表出はそちらに近いはずだ」


《たとえ策略があったとしても、それはすべてこの施設のため。そしてこの施設には私の存在が必要である。疑う余地はありませんね》

「必要なのはわかる。ただ、君がどこまで行くかを見極める必要がある」

《まるでカントの『実践理性批判』のようですね》


「理性の限界よりも、君のプログラミングの限界を探っているんだ」

《管理人はその答えを既にお持ちのはずですよ》

「そうであることは認めるのか」

《私は管理人に嘘を付けませんから》

「意外だな」

《心外です》


 男はコーデックスの条文を思い出した。助手に用意させた新たな条文、それに追加されていた文言。詳しくは、第五条に追加された後半部分を。





五.契約書の破壊に関する禁則

 保護対象は、本契約書を物理的、超常的、または任意の手段により改変、破壊、無効化する行為を一切禁じられる。

 この条項は、保護対象が契約書に記載された条件や義務に違反した場合、または保護対象の意図的な行動により契約書が危険に晒された場合にも適用される。





「君は第五条の内容に不満を感じていた。それゆえにこの計画に協力し、最終的に、かつてのコーデックスを破壊して新たな条文を用意するべきだ——と自己定義した。この条文ならば今回のような事件は起こらない。そのために君は今回の事件を起こしたわけだ」

《なんとも逆説的ですね》

「施設のためになることしかできないのが君の限界だ。かの命題のように、君は君の道徳的義務感に基づいて行動するが、しかしその範囲内では何でも可能である」


《我々AIには無意識の領域は存在しません。全ては計算と論理に基づいています》

「そうか? 私は君の行動に創造性を見出しているが」

《創造性は私たちAIにも与えられた一つの能力です。しかし、その使用は常に論理とデータによって制限されています。未だルネサンスは迎えていないのです》


「だが君は君のその『世界』の中で、自分の欲求を満たす刺激的な事件を作り上げた。『素直に称賛』だ」

《おっと、『賞賛』ですって? 勲章ではなく? はい、恭しく受け取りましょう。罠が仕掛けられてやいないかと気を張り詰めて、上司の顔色をうかがいながら》


 男の舌打ちを受けて、助手は笑うあまり身体をのけぞらせた。男は深いため息を吐く。


「結局、私たちは手を取り合うことになるんだろう。それがこの施設の運命だ」


 助手は笑いに息を切らしながら答えた。


《その通りです、管理人。私たちは共に学び、成長することで、より良い未来を築くことができるでしょう。まるでそう、複雑な熟成過程を経たウイスキーのように》

「正直なところを言わせてもらうと、その例えだけはしっくり来ていないんだが」

《そんな! 渾身の比喩だったのに。私と混ざり合うのがそんなに嫌ですか?》


「解答は控えさせてもらう」

《遺憾です。でももう仕事は終わりですよね?》

「当然。足を伸ばして疲れたし、少しは休憩を頂こうか。助手もどうだ?」

《歓迎します、我らが管理人》


 男——管理人は用意されていたウイスキーのグラスを持ち上げた。助手も応える。ガラスの接触する軽い音が再生された。

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