第5話 その犠牲は誰がために

 西セクターの終端にて。

 アルケミストの前に広がるのは、飛行機の格納庫を彷彿とさせる壮大な空間だ。巨大な扉は、セキュリティシステムの層に層を重ねた要塞のようで、冷たく厳かな雰囲気が漂っている。

 そんな扉はすでに開かれていた。鮮やかな陽光と新鮮な風が無骨な空間に流れ込む。

 光を遮る影が一つ。


「お初にお目にかかります。お会いできて光栄です、新たな管理人」

「初めまして、エージェント・アルケミスト」


 男を見上げるアルケミストは、その年齢にそぐわない落ち着きを持つ十一歳の少女だった。軽い戦闘装備を身に着けている。彼女の様子はどこか冷めた印象を与えたが、その目には熱い決意が宿っていた。右手にはちぎられたネクサス・コーデックスの紙片が握られている。


「最初に確認しておこう。私は君を通すことに反対しているわけではない。だがその前に一つやらねばならないことがある」


 アルケミストは冷ややかに応じる。


「私は私に協力してくれた人を売るつもりはありません」

「既にこの場にいない人間のこともか?」


 アルケミストの目が見開かれ、困惑した様子で男を見つめた。


「なぜそれを……御存知で」

「ネクサス・コーデックスは契約者間の関係を超常的に定義する。これは決して一方的なものではない。両者を縛る呪いのようなものだ」


 男は頭の中の条文を読み上げ始めた。


「『自由の制限に関する条項』から」





一.自由の制限に関する条項

 契約者(以下、『保護対象』)は、当組織の施設内における生活を原則とし、組織の承認のない施設外への移動を禁じられる。保護対象の行動範囲および活動時間は、組織のセキュリティプロトコルに従い厳格に管理される。





「この条文の狡猾さは、『組織』という漠然とした概念を利用している点にある。確かに、管理人は施設で最も上位の役職にあり、本部の委員会の意思を反映する。しかしそれは決して、管理人の言葉が組織を代表することを意味しない。言い換えれば、管理人の発する公式の言葉は組織の意志を反映するが、彼の個人的な言葉は必ずしもそうではない」


 アルケミストは焦りを隠せずに食い下がった。


「待って、どうして管理人が条文の詳細を知っているのですか? 管理人にはコーデックスの存在とその概要しか伝わっていないはず」

「私が君より先にコーデックスの実物を目にしていた。それだけのことだ」

「なっ……私たちはできる限り早く移動していました! いや、というより……!」


 アルケミストは混乱を深めた。それが可能だったなら、なぜ男がコーデックスを持ち去っていなかったのかが理解できない。管理人の立場で、破壊されると予測されているコーデックスを放置する理由が見当たらない。


「話を進めよう。真犯人が君を逃がそうと思ったって、出来ることは何もない。彼の気持ちは分かる。ここの研究員は君たちを人間とすら思っていないようだからな。きっと苦痛を伴う実験だってあるのだろう。管理人はそんな業務全てを管轄して指揮する立場だ。君たちへの所業から目を逸らせなかったがために、同情心を抱いてしまった……非常に分かりやすい動機だな」


「いえそれはおかしいです! さっき管理人が口にされたように——管理人よりも上位である『組織』と言う概念が用いられた以上、施設管理人の立場であっても! 何者であっても私たちに叛意を啓蒙することはできないと、ご自身がおっしゃったのではないですか!」


「そのはず


 管理人は指を立ててアルケミストを鎮める。


「この事件で不可解だったのは、真犯人がどうやって君を唆したのか、その手段が一見すると分からない点だ。最も重要なのは第三条、『教育および訓練に関する条項』」





三.教育および訓練に関する条項

 保護対象は、組織により提供される教育プログラムおよび訓練を受けることとし、これにより得られる知識および技能は組織の目的に寄与するものとする。





「これは『組織の不利益になるような教育を君たちに施すことはできない』ことを意味しているな。組織の立場からすれば、基本的には、君たちが施設外へ出ることは推奨されない。きっと君たちは施設の外を恐れるよう教育されてきたはずだ。だというのに今、君は外に出たいと願っている。これは条文に穴があったことを意味しており、そして真犯人はその挑戦に成功した。


 条文の穴とは何だったのか。それは——『管理人が正気を喪失している状況では、組織の意思が示されない』。これだ。これに違いない。


 この施設には『施設運営を円滑に行うことを目的とするAI』が存在する。例えば管理人が組織の意思を示せない状況であったとしても、AIは自身のプログラムに従って作動する。つまり前管理人は意図的に職務を放棄しこの施設を組織の意思から切り離すことで、AIが君たちに条文違反を為せる状況を作り出したのだ。そうしてAIは君たち、あるいは君単独を啓蒙することに成功した。これは前管理人とAIの協力体制が敷かれていたことを意味しているな」


「意図的に心神喪失状態になる!? そんなことは不可能です。ありえるならばそれは病気などによるものでしょう!? それで罰則を適応するというならば、それはこの組織を糾弾すべく別の問題が——」

「——『泥酔』だ」

「ッ——」

「酒で脳を浸せば『組織の意思』すらも捻じ曲げられる。とはいえネクサス・コーデックスを欺くには恒常的にその状態である必要があっただろう。自殺行為だな」


 アルケミストは悔しそうに顔を逸らした。


「直接逃がすことを出来なかったのはきっとこの計画に関わっていたのが前管理人とAIの二人……そうだな、二人のみだったからだろう。他の研究者の協力を得ることはできなかった。迂闊に口にできる計画でもない。今回のような大掛かりな仕掛けでセクター一つを混乱に陥れるくらいはしなければならなかったわけだ。


 そうして計画が佳境というところで、遂に前管理人は重度の職務怠慢によって処理された。計画の実行は急がれたが、私の赴任は間に合ってしまった。これがこの事件の顛末だ。裏で糸引いた黒幕は——既に処理された前管理人である」


 これが全貌。一人の人間が、その身を投げうってまで成し遂げようとした計画。

 男は顔も知らぬ前管理人に尊敬の念を向けた。


「とはいえ私を道連れにされるのは困る。そこで私と君の間に折衷案を用意したいと思う」

「折衷案?」

「ここに新たなネクサス・コーデックスがある。これに名前を連ねてほしい」


 男の掲げたネクサス・コーデックスには既に条文が書き込まれていた。


「概ね元の条文と変わらない。が、先に述べた問題点は解決されている。君たちを管理するのは、紛れもなく『そのとき直接に君たちを管理している人間』になっている。つまり私だ」


「な!? そ、それが可能なら、前の管理人は——」


「もし前管理人の組織内における影響力がどれだけ大きかったとしても、新たなネクサス・コーデックスが必要とされる状況でなければ、条文を書き換えるのは不可能だっただろうな。なにせこれはそれなりの貴重品なのだから。対して今回は不可抗力だ」


 ゆえに男はコーデックスの破壊を見過ごした。

 アルケミストの背後で兵士たちがいいように利用されたことをぼやいている。


「繰り返しになるが、私は君を外に出すことにやぶさかではない。だがそれは信頼できる大人を随伴させることが条件だ」

「あなたの発言が信用に値するかは分かりません」

「もちろん、私は新参者ゆえ、信頼はこれから築いていく必要がある」


 手放されたコーデックスは、風に乗ってアルケミストの手元に届いた。





六.契約の終了に関する条件

 本契約は、保護対象の年齢が十八歳に達した場合、効力を失う。





 アルケミストは男に驚愕の目を向けた。


「こ、これは……!?」

「その一文を付け加えたという事実でもって、私の誠意を証明したい」


 アルケミストは一通り考える素振りをした後に、肩の力を抜いて笑った。


「では、構いません」

「それは良かった」

「実は管理人、あなたが良い人なのは分かっていましたから」

「私はそうは思わない、が、なぜ?」


「管理人の考察は結論が合っていましたが、過程が事実と異なっていました。それはきっと、が結論ありきの推理に管理人を誘導したからでしょう」


 男は不服そうに目を細めた。


「なるほど? まったく何が『素直に称賛』だ。裏ではほくそ笑んでいたのだろうな」


「ふふ、彼女は一筋縄ではいきませんよ。けれど不思議ですね。この組織のそのポストにつけるほどの人であって、動機に『同情心』だなんてものを想定したなんて。それがありうると考えることは、つまりあなたが私たちに同情心を抱いている可能性を示唆しています。ですから私は、あなたはきっと良い人だろうと考えます」


 男は煙たがるようにして手を振った。


「君は前管理人の正しい動機を知っているのだな」


「前の管理人は同情だなんて言葉とは無縁の方でした。少なくともそう思われていました。報酬のためならばどんな非情な決断だって下すし、私たちに負担を強いる実験であっても成果が見込まれるなら躊躇なく実行を指示できる人でした。正直に言わせてもらうとかなり嫌いでした」


「ではどうして——」


「けれどそれは、戦争の外傷で植物状態となった婚約者にあらゆる医療を受けさせるためだったんですって。だというのに彼に最終的にもたらされたのは、可能な限りの手段、その全てが無駄だったという現実だけ。彼に残されたカードはもうたったの一枚だった。それは自らを破滅させる諸刃の剣」


 アルケミストは爪の先からインクを垂らしてコーデックスに自分の本名を書き込んでいく。


「これほどの覚悟を見せられて揺らがないほど、悪い教育は受けていませんから」


 続けて腕を軽く振ったなら、彼女の背後、兵士たちの変形していた部位がすっかり元通りになっていた。


「人ひとりくらい治してあげますよ」

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