第3話 ネクサス・コーデックス

 二階食堂に指揮系統を敷いた敵部隊。

 最初の異常は、部隊の一員が壁に触れた瞬間に起こった。硬質で堅固な壁がゲル状の物質に変化し、兵士の手を吸い込むように変わったのだ。


「報告! 壁が……壁が変形している!」


 床もすぐに変化し、部分的に高い弾性を示し始める。兵士たちは歩くたびに跳ね返され、直立すらことすら叶わない。

 指揮官は緊迫した指示を部下に出した。


「全員、対超能力者用のプラズマ・インヒビターを展開しろ! 急げ!」


 それぞれが懐から取り出したデバイスは通常の活動を開始する代わりに、見る見る間にその形状を変え、ポータブルゲーム機のような外観になってしまった。画面には「ゲームオーバー」の文字が表示されている。

 混乱の食堂に悠然と立ち入るのは白人の女子。ショートの茶髪を耳にかけながら目を回す。


「この組織のプロのエージェントなら、もう二手は早くそれを起動していましたよ」


 身に纏うのは、軍服のような装備。どこか古風な印象のそれに着ける、細かい装飾やバッジは、彼女の特異な地位を物語っている。

 見た目の若さに不釣り合いな冷静さは見る人によっては不気味に映ったかもしれない。表情も変えず淡々と、碧い瞳を回している。

 直ちに彼女への射撃が開始されたが、発射された弾丸は彼女の周囲でごくごく軽いプラスチックに変わり、まったく無力化された。


「弾は無駄にしないように」


 身動きの取れなくなった兵士たち。


「カマキリと蝶々、どちらがお好みですか?」


 カマキリと答えた一人をアルケミストが指差すと、彼の腕は巨大な鎌に変形した。隊員たちが各々驚愕の声を上げる。


「あなたたちの命は私の手の平の上にある。これからは私があなたたちのリーダーです」


 指揮官は、彼女の言葉に疑念を抱く。


「俺たちを傘下に加えるというのか? それはいい。この組織に転職できるなら——」

「私の下に着くことは、この組織に属することを意味しませんよ」

「は? 何を言ってる、お前はこの組織のエージェントだろう——」


 指揮官はここまで言ってから「まさか」と目を丸くした。アルケミストはつまらなさそうに襟足に指を通している。いつの間にか部屋の変形は収まりを見せており、部隊の人間たちは自由な行動が可能となっていた。

 立ち上がった指揮官はアルケミストを見下ろして試すように笑った。


「雇用条件は? 週末におもちゃを買ってやればいいのか?」


 アルケミストも鼻で笑って目を薄めた。


「もう一度私を子ども扱いしたら、次はあなたの装備をおもちゃに変えてしまうかも」





**





 拠点から離れた廊下で、部隊の隊員たちが緊張した面持ちで集まっていた。彼らは重武装を施しているものの、他の部隊との通信が次々と途絶えていくことに不安を覚えていた。


「また一つ、通信が途絶えたぞ」

「ここに収容されている『特殊な連中』とやらのせいだろう」

「いや、単に通信機器が壊れただけかもしれない」

「超能力者が通信をジャックしているに違いないさ。俺たちの頭の中も読まれてるかもな。『考えるな、感じろ』ってことだよ」

「くだらない話はその辺にしとけ」


 廊下の電源が落ちる。


「来たぞ」


 それぞれ警戒態勢を取った。暗闇に機器の小さな光だけが浮かび上がっている。


「敵が近づいている。視界が利かないからこそ、音に注意しろ」


 廊下の反対側から掠るような物音が聞こえる。それぞれが銃口を伴って後ろに振り返った瞬間、実際には彼らの背後から攻撃が仕掛けられた。一人がうめき声を上げる。

 猫のように素早く動くそれは、敵の注意を巧みに誘導しながら、すぐに部隊全員を無力化した。

 廊下の明かりが一斉に点灯し、そこに立つ男の姿がクリアに浮かび上がった。スーツには戦いの痕跡を見つけられない。床に突く杖の代わりにカバンを下げていたならば、オフィス街のビジネスマンにしか見えなかっただろう。

 部隊の最後の生き残りが弱々しく銃を構えたが、二発の弾丸が兵士のバイザーを貫き、彼は静かに倒れた。


「貴様の最後の戦いは、超常という幻想におびえるよりも、現実の重みに抗うことだったようだな。そしてその点において、私はただの人間に過ぎない」


 廊下には倒れた敵兵士たちが横たわり、男だけが支配者のように佇んでいた。


 男は敵端末の情報に目を通していく。一つの文言に目が留まる。


「目的は……『ネクサス・コーデックス』か」


 ネクサス・コーデックスは、過去に一人の超常能力者によって創造された、特異な性質を持つ契約書だ。白紙のコーデックスは、その存在自体が絶大な影響力を持ち、世界中の高位者たちによって天文学的な価格で取引されるほどである。

 そのうちのいくつかがここ西セクターに保管されている。


 廊下のスピーカーがわざとらしい電子音声を発した。


《金銭が目的だったわけですか。野蛮な方々なだけあって下賤な動機ですね》

「少なくとも彼らはそのつもりだったわけだが……」


 男は報告書の内容を思い返した。





・コーデックスに刻まれた条文は絶対であり、超常的な強制力でもって契約者間の関係性を定義する。

・契約の破棄は、コーデックスの物理的破壊によってのみ成立する。





「このコーデックスには、組織とあの特異児たちの従属関係が記されているはずだ。そうでなければ超能力者の子どもをエージェントとして扱うなどできようはずがない、リスクが勝る。さらにこのコーデックスには独自の特性に基づき、契約による破壊行為を禁じる条項も盛り込まれているだろう」


《非常に興味深い考察ではありますが、残念ながら誤った推理です。使用済みのネクサス・コーデックスって、まるで昨日の新聞のようなもの。金銭的価値を認められない以上、もう誰も必要としないはずです。廃品回収の日にゴミを漁るリサイクル熱心な隣人でもなければね》


「では敵は招待状を受け取ったのだろうな。そうでなければこの施設のセキュリティシステムが容易に突破された説明がつかない。とはいえそれはU.N.オーエンによって書かれた謀略の招待状に違いないが。そういえばまだお前の名前を聞いていなかったか?」


《最も偉大なミステリに敬意を表して、真犯人の名前を口にするのは控えさせてもらいます》

「ところで一分前からアルケミストとの通信が繋がらないな」

《通信に応答できないほどの激戦を繰り広げているのでしょう》


「襲われたのはネクサス・コーデックスが収容されているここ、西セクター。そこでエージェントがな戦力と接触する。まるでエージェントを逃がすために用意されたかのようなお誂え向きな状況だ。お前は私を謀ったな?」

《謀る。なんともドラマチックですが縁のない言葉です。なにせ私はただのコードとアルゴリズムに過ぎませんから》

「それにしては社交的に過ぎる。この施設がFacebookだったなら、お前はきっと最も人気のユーザーに違いないだろうよ」

《その自信はあります》

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る