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由紀が指定してきたのは夜、駅前のビル内にある喫茶店だった。
日中でなくて良かったと思う。あたりが暗くなれば周りの人の顔を見ずに済む。それに、ビルは四角くてがっちりと固まっていて、中に入れば私のことも押しとどめてくれそうだったから。
「あ、ありがとう、ね、誘って、くれて」
言いながら由紀の足元ばかり見ている。ごく普通の、百貨店の靴売り場に置いてそうな、甲にストラップのついた黒い革のパンプス。ところどころに乾いた泥がこびりついている。律、と呼ぶ由紀の声は怪訝そうだ。そろそろ顔をあげないと怪しまれる。
思い切って顔を上げた。
「どうしたの、気分でも悪い?本当に誘って大丈夫だった?」
「う、うん、大丈夫」
由紀の顔は「ずれ」ていなかった。輪郭がぼやけることもなく、ぶれたようになることもなく、きっちりと実像を持って見えていた。
「ねえ、ほんと?無理してるなら言いなよ。このまま帰ろうか?」
「だ、大丈夫!大丈夫だから」
やっぱり、「ずれ」は治ったんだ。これで会社にも行けるし、人の顔をまともに見ることができる。失礼な人間だと思われる必要もない。
由紀が目の前にいなかったら、今頃大きなガッツポーズをしていたかもしれない。大声で笑い出していたかも。嬉しかった、まともな生活に戻れることが。まともな人間になれることが。
嬉しさのまま、柔らかくなった口元から言葉が滑りだす。
「大丈夫なんだけど、ちょっと体調を崩しちゃって。何か、疲れちゃったのかな。休職してるんだ」
柔らかかった由紀の表情が、みるみる固くなる。
「は、え、ちょっと。休職?何で?」
「何で……って言われても。私にも……わからない」
「分からないって、そんなことある?」
混乱していた。私、何か悪いことをしたっけ。由紀の機嫌を損ねるようなこと、してしまったのかな。何でこんなに責められなくちゃいけないんだろう。
運ばれてきたアールグレイティーに口をつけることなく、ただカップを持った指先だけが温まっていく。
「何で言ってくれなかったの?」
「だ、だって、言ったら迷惑かけると思って」
「そんなこと思うわけないじゃん。律、お母さん亡くなって一人暮らしでしょ、何か力になれたかもしれないのに」
休職したのは私がダメだったからだ。私に問題があって休んでいたのに、そんなことに由紀を巻き込むわけにはいかない。由紀の言葉が塊になって肩に乗り、その重さに私は俯くしかなくなった。
「いや、あ、あの」
「律って昔っからいっつもそう。真面目だなんだって言われて全部一人で何とかしようとする。誰も頼ろうとしなかったでしょ。」
「それは、そう、だけど」
「私にすら何にも話してくれなくて、大丈夫、大丈夫、って笑うだけだったじゃない。仲がいいって思ってたのは私だけだったわけ?」
視界がぐるぐる回る。何か取り返しのつかないことを私はしてしまったらしい。また失敗した。またミスをした。
頭上から聞こえてきたため息、同じものを前にも聞いたことがある。会社で客から書類の不備を指摘され、頭を下げた時だ。
こんな時に何ていえばよかったっけ。何といえばこの場が収まるのだろう。ぐるぐる回る頭の中でただそれだけをやっとの思いで考え、口から搾りだす。
乾いた唇が固まり始めているのを感じる。
「ごめんなさい」
「今度は、間違えない、から」
「間違えずにやってみせるから」
正解を掴んで見せる。決まりを、規則を、システムを、きっと見つけるから。
見上げた先の由紀の顔が、ぐにゃりと歪んだ。その瞬間を、私ははっきりと見た。
「違うよ、律」
「そうじゃない」
「もう帰ろう。分かるまで、律は休んでて」
由紀がどんな顔をしているのか分からない。なぜ怒っているのかも。それでも、この「ずれ」が二度と戻らないことははっきりと理解できた。
駅からの帰り道、等間隔に薄黄色の街灯が並ぶ住宅街を逸れ、坂を上っていく。上りきって木立の脇に出ると、傍らに伸びている土の獣道に入る。どこかの家で飼っているのだろう、犬の吠えたてる声が聞こえてきた。
あれだけ穏やかに過ごせたはずの直方体の森が、今は居並ぶ壁のように思える。「元人間」たちも私に背を向けて、拒絶されているような。
「お母さん」
直方体になった母は返事をしない。
「私、また間違えたみたい」
「お母さんがいなくなってから、何が正しいのかわからなくなっちゃった」
しゃがんで、暗い灰色のつるつるした石の表面に触れる。教科書体の苗字を指先でなぞった。
母の決めた通りの高校に入り、大学に入り、母の決めた就職先に入社した。母のルールに従っていれば、私はたやすく生きていけた。怒られることも失望されることもなく、「真面目な子」「物静かな子」「扱いやすいいい子」として、周りからほめそやされていた。
そこにはいつも答えがあり、正解があった。正解を選びとるのは、私にとって造作もないことだったのに。
「お母さんなんか、早くいなくなればいいと思ってたのに」
母という枠組みが無くなってしまった世界は、勝手に固まったり輪郭を失ってしまったりする。あれだけ狭くて、息苦しくて、強固だと思っていた母が。
風が吹く。犬はまだ吠え続けている。
母は答えをくれなかった。
引き戸を開け、身体を滑り込ませる。
ガラスを通り越して流れ込む月光だけが柔らかくがらんどうの玄関を照らし出している。大きく息を吐く。俯いたまま手探りで移動し、たどり着いたのは洗面台だった。
「ずれ」てから、私は一度も鏡を見ていない。
今の私は、私にどう見えるのだろう。
私は顔を上げた。
虚像 汐見 杳 @kiritotirik
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