虚像
汐見 杳
1
羽虫の死骸が至る所に散らばった市道の坂を上っていくと、ひりつく日差しを視界いっぱいに遮る小さな木立の脇に出る。そこから足元のコンクリートを外れ、湿った土とこぶし大ほどの石に足を取られながら進み続ける。二段に積まれたブロック塀、一部はひび割れて雑草に飲み込まれ、中からは米粒ほどの大きさの蟻たちが暑さで干からびたミミズに群がって規則正しく列をなしている。
後ろ半身に張り付く湿気に舌打ちしながら、見渡す限りに並んでいる直方体の森、の一つを見る。正面には太い明朝体、いや教科書体?なんでもいいが私の苗字が書いてある。以前なら、ここには2人分の骨しかなかった。そこについ二、三か月前、もう1人分の骨が追加された。母が死に、冷たくドライアイスで冷やされた肉体が一日で骨になり、この石の下に置かれたのが何ら実感のない映像としてよみがえってくる。たとえ水を柄杓でかけてやったとして、身体なんてもうないのだから涼しさなんて感じないのだろう。私に課された仕事は、水を流して彼らを亀の子たわしで擦りあげ、黒ずんだカビや泥汚れを落とすことだけだ。
まだ盆も迎えていない墓地に人気はなかった。その方がかえって楽に呼吸ができて、身体に余計な力が入らずに済む。無機質で真四角で決まり切った形に姿を変えた「元人間」たち、静かに風の音に聞き入っているような気がして、私も思わず目を閉じた。
「大丈夫かい、熱中症か?」
突然聞こえたしわがれ声に右肩がびくりと震えた。一ブロック隣の墓にやってきたらしい小太りの男が怪訝そうにこちらを見ている。皺と盛り上がった肉に埋まって開いているのか閉じているのか分からない目は忙しなく動いて私を上から下まで検査しているようだ。田舎特有の、よそ者を警戒する目。
「い、いえ、あの」
「え、何?もっと大きな声で言ってくれ」
「で、です、から、だ、だい」
「はあ?本当に大丈夫なんか」
「は、ぁい、だい、じ、じょ」
「喋れないのか、救急車呼ぶか」
皮膚に触れる温度がすうっと下がり、舌が張り付いて声が壊れた。さっきあれだけ柔らかかった身体が金属にでもなったかのように固まる。置いていたカバンをひっつかみ、胸の前に抱きしめてねじの外れたおもちゃみたく頭を下げると、よろめきながら走り出した。
「ちょっと、おい」
失礼だろ、後ろで男が叫んでいるのが聞こえたが、振り返って反応する余裕などなかった。
獣道をたどり、市道に出てもまだ身体の震えは止まらない。坂を下りきったころにようやく息が付けるようになって、カバンを抱いた腕の下で胸がこれ以上ないほど大きく上下する。
行きよりも倍以上の時間をかけて家にたどり着き、玄関の引き戸を閉めて座り込む。身体を丸め込んで何かから守るように腕で固く掴むと、手のひらから伝わる温度が少しずつ流れ込んできた。輪郭を、境界線を確かめるようごしごしとこする。私の輪郭はここにある。私はここにいる。確かに。
あの男の顔も「ずれて」いた。まだ治っていなかった。
背にした戸の向こうから、唸るようなバイクのエンジン音が近づいてきてすぐ後ろで止まる。チャイムが鳴り、生島さぁーん、郵便でーす、中間を妙に間延びさせた声が響き渡った。曇りガラスの戸なのだからすぐそこにいると分かっているはずだ。それでも局員は強引に戸を開けようとしたり叩こうともせず、ただ私が戸を開けるのをじっと待ち、出てくる気配がないとわかるとぶつぶつ呟きながら郵便受けに手紙を突っ込んでバイクを走らせていった。
埃の降り積もった土間に投げ込まれた手紙を、恐る恐る開封する。
一通目は会社からの連絡だった。右上に傾いてずっこけてしまったような形の自分の名前を見て、上司の筆跡だとわかる。わざわざ手書きで、現在の体調を気遣う言葉、休職手当の申請手続きについて、私のいない職場の様子、いつ来てもいいから会社で待っている、と丁寧に綴ってあった。
申し訳ない、という思いが先に来た。今は昼時、午前の業務が終わってみんな一息ついているころだろう。隣の席の先輩、なんというんだったか名前を思い出したいのにさっぱり出てこない。あんなにお世話になっていたはずなのに。いつもいつも辛いカップラーメンをコンビニで買ってきては午後になって腹を壊し、いつだったかは客の案内を放り投げて慌てて公衆トイレに駆け込んだと笑っていた。
高校、大学と地元を離れず、就職先は小さな不動産会社の事務。先輩に付き従っての打ち合わせも、賃貸物件を内見しにきた客の案内も、こなしてみせると意気込んでいた。学校に規則があるように、会社にもルールがあり、マニュアルがある。守っていれば上手くいくはず、と信じて疑わなかった。
しかし、私の予想は見事外れた。会社にかっちりとしたマニュアルなんてものは存在せず、上司から部下へ、先輩から後輩へと口伝される継ぎ足し続けた秘伝のたれのような自己流の「仕事術」と、職人ばりの「見て盗め」とでも言いたげな業務スタイルだけがあった。入社早々躓き、よろめいた私は先輩を上手く真似することも人によって言っていることが全く違う仕事術を身に着けることもできず、ただ山のように細かなミスを積み上げていった。
初めて「ずれた」のは、いつものように出社して自分の席に着いた時だった。確かあの時も私は私に言い聞かせていたような気がする。大丈夫、まだやれる。まだついていけている、と。頑張るんだ、頑張らなくてはならないのだ。生島さん、と呼ばれ顔を上げたとき、もう上司の顔は上司ではなかった。なかった、というか、上司の顔は二重に重なったようになっていた。まるで、今まで一つの顔として見ていた顔が所定の位置から少しずれてしまったように。
絶句して返事が返せない私に、上司は聞こえなかったと思ったのか大きめの声で再度呼び掛けた。目を見開き、口を半開きにしている私はさぞかし馬鹿みたいに見えたに違いない。上司は自分の席から離れ、私の座っている席に近づくと目の前で手を振った。
「生島さん、どうした?体調悪い?」
何か言わなければいけない、そう思えば思うほど言葉が出ない。息だけがひゅうひゅうと喉を吹き抜け、私の机の上に零れ落ちていく。次の瞬間、息と一緒に生ぬるい液体が机に振ってきて、止まらなくなる。
「い、生島さん、生島さん!」
そこからのことはあまり覚えていないが、少しだけ安心した感覚が頭の奥にぼんやり残っている。ああそうだ、泣いているから上司の顔が二重に見えていたんだ。泣き止めばこんな事態は元に戻るに違いない。こんなもの、一時的な不調に決まってる。上司はその日の朝礼を中止し、私は休憩室に担ぎ込まれ、先輩の付き添いで産業医の元へと向かい、「ストレス性の不調だと思います」とありふれた見た目の医師からありふれた診断を下され、あっという間に自宅待機となったのだった。
「生島さん、ごめんね…気づいてやれなくて」
先輩が申し訳なさそうに頭を下げる、その顔も輪郭がぼやけたように「ずれ」て、二重に見えている。なんだっけ、これって理科の授業でやったようなと場違いなことを考えながら、先輩の勧めるままにベッドに横になった。違います、謝るのは私のほうです。こんなことで手を煩わせてしまって、仕事の邪魔をしてすみません。言わなくてはならない言葉は胃の中でぐるぐると回り続けている。
「生島さん、新卒で気合入ってたし、頑張ってたでしょ。きっと頑張りすぎたんだよ。仕事についていけなくなるのは、よくあることだから。うちは結構『見て覚えろ』って感じの社風だし」
違います、頑張ってなんかいません。だってミスしたり失敗してばかりでしたから。だって頑張っていたんなら、つまらないミスなんかしないはずでしょう?頑張っている人間は、成功してきちんと評価されるはずでしょ?
「でも、生島さんならやれると思ってたんだけどなあ。うちの会社でも社長が話題にするぐらい優等生だったし、大学でも優秀だったんでしょ?だからきっと…周りの期待も大きすぎたのかなあ」
期待に応えられないのは、それだけの努力が足りなかったからです。私の努力が足りなかったせいです。
「打ち合わせも案内も、って飛び回ってたもんね…とにかく、ゆっくり休んでまた会社おいでよ」
今先輩は笑ったのだろうか、表情すら「ずれ」ていてよく見えない。
先輩が家を出ていって、途端に空気が緩む。四角い形に固まっていた空間がゼリーみたいに崩れ出した。
あれから家で少し休めば、治るものだと思っていた。ストレスからくる一過性のものなのだと。家の中に引きこもって人と会わなかったから、すっかり忘れてしまっていたのだ。
不意に太もものあたりが震える。ポケットからスマートフォンを取り出し、アプリを起動する。メッセージの差出人は由紀だった。
「元気? 明日会う約束してたと思うけど、いけそう?」
画面にぽつりと映し出された一言が、優しく淡く光り輝いているように見えた。文章の上を指先でなぞると、ほのかに温かい。
大丈夫かもしれない。
由紀と会えば、こんな不調もどうにかなるかもしれない。
根拠もなく思い浮かべる。高校で同じ吹奏楽部、同じパートだった由紀。そういえば会う約束をしていたっけ。彼女に会えば少しは心が晴れるだろう。たくさん食べて、たくさん笑って、お互いの愚痴を言い合えばいい。そうすれば、分かり合えるはずだ。大丈夫になれるはずだ。
「大丈夫、いけるよ」
フリック入力する指はまだ覚束なかったけれど、何とか打ち込んでアプリを閉じる。大きく吸って、息を吐く。震えはだいぶ収まってきていた。
何度も深呼吸をして、少しずつ喉を震わせる。
「わ、わたし、の、な、なま、えは」
「いく、いくし、いくしま」
「いくしま、りつ、です」
息を吸う。もう一回。
「わたし、の、なまえ、は」
「いくし、ま」
「りつです」
「わたしの、名前は」
「い、生島」
「律、です」
何とか声を形にして、固めて、型に入れ込む。大丈夫。まだいける。まだ大丈夫。
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