チャンスブレンド・エンゲージ
和立 初月
第1話
「チャンスは残り三回です」どこか楽しげに声は告げた。
ほんの少しだけ、寂しさを滲ませながら。
「この店も長いことやってきましたが、営業日もあと三回で終わりです。つまり、この店に来れるチャンスは残り三回というわけです」
仕事の合間の休憩時間となり、彼は以前から気になっていた喫茶店へと赴いた。
「喫茶バール」と看板を掲げるその店は、シックな雰囲気で古き良き日本の喫茶店を思わせた。
店内はそれほど広くはなく、カウンター席が5席と四人掛けのテーブル席が3卓。
ドアベルに迎え入れられ、カウンター席へ。
シックな制服に首元の蝶ネクタイ。前掛けタイプのエプロンを着こなすマスターの話を聞きながら、湯気とともに芳醇な香りが立ち上るコーヒーを一口啜る。
彼も仕事柄コーヒーを扱うことはあるが、喫茶店のマスターほど専門的な知識があるわけではない。それでも。
口に含んだ瞬間にふわりと舞い上がる香りと、舌で感じる苦味。そして仄かな酸味が爽やかに抜けていく。
それは間違いなく、マスター渾身の一杯だった。
「昔からコーヒーが好きで、定年退職してから老後の楽しみに、と。皆さんにおいしいコーヒーを振舞いたくて始めたんですよ。
今年で十年。ちょうど区切りも良いので、これで終わりにしようと思いまして」
「……そうですか、もったいないですね。もっと早くに知っていれば……残り三回の営業日、必ず来ます」
「お客様にそう言っていただけると、私も今までやってきた甲斐があるというものです。どうぞ、ゆっくりとおくつろぎくださいね」
マスターはにっこりと笑うその表情だけで「ごゆっくり」と重ねて言い、店の奥へと消えていった。
対面式のカウンターの向こうには、サイフォンが立てかけられ、新しいコーヒーの準備が進んでいる。
彼は、改めて目の前のコーヒーに向き合った。白いカップに注がれた黒いコーヒー。ここに至るまでにどれほどの工程と手間を重ねたのか、想像に難くない。
老後の趣味、でここまで味を高められるものなのか……。そんな風に考えていると。
入り口のドアがやや乱暴に開け放たれた。
「あー寒い寒い」
ドアベルがまだ余韻を残す中、彼の座るカウンターに、二つほど席を空けて座る女性が一人。
手袋を外してなお、吐いた息を手にかけながら、わずかばかりの暖を取っていた。
間髪入れず、マスターが店の奥から顔を覗かせた。
「いらっしゃい……あぁ、ブランさん」
「マスター、これに合う一杯を」
ブランと呼ばれた彼女は、ランチトートの中からフルーツサンドを取り出すと、マスターにそう言った。
「フルーツサンドか……よし、少々お待ちを」
マスターは棚にずらりと並んだコーヒー豆の入ったボトルから一つを手に取ると、ミルにセットして、丁寧に挽いていく。
ブランはその様子を、晩御飯を待つ子供のように、わくわくしながら待っているようだった。
「ブラン……さん?」
彼は無意識の内に、口に出してしまっていた。その声に、マスターとブランの二人がほぼ同じタイミングで彼の方を向き。
「そういえば、あなたはこの店が初めてでしたね。あまりにも美味しそうに、味わって飲んでくれるものだから、すっかり常連さんだと思い込んでしまって」
マスターは彼に軽く頭を下げ、ブランはマスターの方を一瞬だけちらりと見やり。
「この店の常連さんは、皆ペンネームで呼ぶことにしているんですよ」
ほどなくして、ブランの前に一杯のコーヒーが差し出された。
「お待たせしました」
「いただきます」
ブランは、優雅にカップを持ち上げ、ほんの少し香りを楽しんでから一口。
その様子が、まるで一枚の絵画のようだと、彼は思った。
幸い、その様子はブランに気取られなかったようで、カップを静かに置いた後。
「今日もおいしい」
と、一言マスターに告げるのだった。
「それは、良かった」
ほっとした様子のマスターは、そう言って再び店の奥へ……消えることはなく。
さりげなく、カウンター越しに彼の目の前へとやってきた。
そして耳打ちをするように、小声で。
「良かったら、味見されますか?」
彼の視線は、どうやらマスターにはお見通しだったようである。
「これは……しっかりとした苦味ですね」
「本日のお昼はフルーツサンドということでしたので、甘味や酸味を邪魔しないように、苦味を少し際立たせる仕上がりにしてみたんですよ。
今度はあなたも、何か持ってきてください。看板にも書いてますが、食べ物の持ち込みは大歓迎なので。それに合わせて焙煎して、提供しますよ」
その後、豆の種類や煎る深さ、コーヒーの淹れ方について、熱く語ってくれていたマスターだが、彼にはほとんど頭に入ってこなかった。
マスターとの話の最中に、自身の名前に反応したブランが、席を詰めて声をかけてきたからだ。
いつの間にか、目の前からフェードアウトしていたマスターに、冗談めかして怒りながら。
「すみません、マスターが勝手に……ここのマスター、美味しいコーヒーを淹れられたと思ったら、すぐ他のお客さんにも勧めるんですよ」
「いえいえ……私もコーヒーは大好きなので美味しく頂いたんですが、やはりフルーツサンドに合わせているだけあって、苦味が強いですね」
赤面した顔を隠すように、彼はそう言って自分のコーヒーをぐいっと一気に飲み干した。
ブランはとても驚いた様子でそんな彼を見つめていたが、くすりと笑ってから彼のある部分に注目して、今度は目を丸くして驚いた。
「あの……もしかして、あのパン屋さんで働いている方ですか?」
「はい。……本当は衛生上の問題から、店の外に持ち出してはいけないものなんですが……」
ブランの目線の先には、彼の働くパン屋の帽子が、ベルトループにぶら下がっていた。
話しかけられた嬉しさから、夢のような心地でいたところで、店に戻った後怒られる現実の映像が頭の中で切り替わる中。
対照的にブランはとても明るい笑顔とトーンで、
「私、あのお店のパン大好きなんですよ! ほら、今日のフルーツサンドもそこで買ってきたんです!」
と空になった袋を見せながら、食いついてきた。
「美味しいんですよねぇ。パンはふわっふわだし、フルーツも甘酸っぱくて。
あの店でパンを買って、ここでそれに合うコーヒーを飲む。毎週末の私の楽しみなんです」
「ありがとうございます。……あれ?」
自分が全てのパン作りに携わっているわけではない。
それでも、自分が働いている店のパンを褒められるのは嬉しい。そんなことを心の中で思いつつ頭を下げると、不意にブランのショルダーバッグのロゴが目に入った。
「失礼ですが……このバッグって……」
「はい。あのビルの一階のテナントに入ってるケーキ屋のバッグなんです。私、そこでパティシエをやってて。
以前、イベントで配布したノベルティなんですけど、オーナーが宣伝になるから外でも使えって……あんまり可愛くないんですよね、このバッグ」
はぁ、とため息をつくブラン。
会話は一旦、そこで途切れてしまった。
……実を言えば、彼もそのケーキ屋には足しげく通っていることを話すつもりだったが、なんとなく会話の流れがブランの嘆息によって遮られてしまい、完全にタイミングを逸してしまった。
今日ここで初めて会って、そんなに時間は経っていないはずなのに、とても楽しい時間だったと感傷に浸っていると……。
「そういえば……」
彼は、何かを思い出したようにスマートフォンを取り出して、時間を確認する。
「まずい!もう戻らないと!」
休憩時間の終わりまであと数分という頃だった。
「すみません、機会があればまたいつか」
そんなセリフと、ちょうどの代金をテーブルの上に転がすと、店の奥からまるでタイミングを見計らっていたかのようにマスターが顔を出す。
そんな様子をちらりと見やり、片手で感謝を告げて、店を出ていこうとする彼に。
マスターとブランは顔を見合わせてから、異口同音にこう告げた。
「あなたのペンネームは?」
「あと二回です」
そんな風に言うマスターの表情は変わらず、楽しげだった。
「マスターは、このお店を畳んだ後どうするんですか?」
店から持ってきた、売り物にならない規格外のクロワッサンをかじりながら、彼は尋ねた。
「そうですね……特に決めてはないんですけどね……いっそ海外旅行とか?」
「良いですね、海外旅行。奥さんと二人で夫婦水入らず。最高です」
「ありがとうございます。……本日のコーヒーです、ルヴァンさん」
ルヴァンと呼ばれた彼は、恭しくカップとソーサーを受け取った。
「しかし、あの日店に来たのが初めてだったのに、もう常連扱いでよかったんですか?」
あの日、帰り際に己のペンネームを二人に尋ねられ、咄嗟に出た単語がそれだった。
インターネット上で何らかの活動をしているわけでもなく、ペンネーム自体特に考えたこともなかったので、パン作りによく使われる発酵種の名前を答えた。
あまりしっくりきていなかったものの、こうしてその名で呼ばれてみると、我ながらあまり悪くはないと思うのだった。
「ルヴァンさんのコーヒーを楽しむ姿が、味わっている姿がとても素敵だったんですよ。この人は只者じゃないな、と一目で分かりました。
あのパン屋で働いていることは、後でブランさんから聞きました。
私にパンの魅力を余すことなく話してくれてましたよ。
ルヴァンさんとあの日会っていなかったら、ブランさんのあんな笑顔は見れなかったでしょうね」
「え……それはどういう……」
聞き返す声は、入り口のベルにかき消された。
何の気なしにルヴァンが振り返ると、そこには。
「ブランさん……?」
「あれ、ルヴァンさん。奇遇ですね、また会うなんて」
「今日は午前で仕事が終わりだったので。ゆっくりここのコーヒーを味わおうかと」
カップを持ち上げて軽く会釈を返すと、ブランの声はどこか弾んでいた。その理由は、ルヴァンには分からなかったが、マスターのややにやけた笑顔が、なぜか気になった。
ブランは、迷わずルヴァンの隣に座ると、バッグから今日のお昼……パウンドケーキの袋を取り出して、マスターにコーヒーをオーダーする。
「今日はパウンドケーキなんですね」
「お店で売り物にならない、規格外のやつなんですけど……ってまさか!ルヴァンさん、それは……」
恍惚の表情でルヴァンのクロワッサンを見つめてくるブラン。よだれを必死にこらえているのが、とても可愛らしく見えた。
ルヴァンは、脇によけていた手付かずのクロワッサンをいくつか、ブランに分けてやろうとして……取り皿がないことに気づき、マスターを呼ぼうとした刹那。
「取り皿をどうぞ」
一体どこから現れたのか、マスターが取り皿を二人の後ろからさりげなく差し出していた。
そして、二人の邪魔をしないように、音もなくフェードアウトしていく。
「忍者ですか、あなたは!」
二人で同じ突っ込みを入れる。そしてどちらからともなく顔を見合わせて、ふっと笑みがこぼれた。
「改めて……どうぞ」
「ありがとうございます。良かったら私のパウンドケーキも」
なぜか二枚重ねになっていた取り皿をスライドさせて、ブランはパウンドケーキをルヴァンの取り皿に。
そして、お互いに同じタイミングで一口。その感想も、二人とも同じだった。
「美味い!」
「このパウンドケーキ、ふわふわの食感ですね! 中に入っている、細かくカットされたミックスフルーツの甘味や酸味も良いアクセントになってます!」
「このクロワッサン、何層にも重なった生地がサクサクで、噛んだ瞬間にバターの香りがフワッと香ってきて美味しいです!」
ならば、と。お互いに、残りのクロワッサンとパウンドケーキを交換し、最後の一口まで美味しく平らげた。
ちなみに。いつの間にか二人の前に出された二杯目のコーヒーは、交換した状態で提供されていたこともお互いに気づいていたものの、それには口を挟むことはなく。優雅な午後のひと時を過ごすのだった。
「あと一回です」
「それ、私が店に来たら言う、決まり文句みたいになってませんか?」
「さぁ、どうでしょう?」
マスターはルヴァンの疑いの目をさらりと流し、何事もなかったかのようにコーヒーを差し出した。
「お待たせしました。本日の一杯です」
一口啜ると、苦みと酸味のバランスが程よい、シンプルな仕上がりだった。
今日は休日で、喫茶店に行く貴重な機会ということもあり、ブランがパティシエを務めるケーキ屋で数点のケーキを買ってから、この店を訪れたのだった。
「どんなケーキにも合うように、バランスよくブレンドしてみました」
「さすがです、マスター」
店もちょうどモーニングとランチの間の時間で、店内には他の客の姿もない。
これはちょうど良い機会かもしれないと思ったルヴァンは、先の件を聞くことにした。
「ブランさんのことなんですが……」
その名前を聞いた途端、にやついた顔になりつつも、一瞬で真顔に戻し、マスターはコップを拭く手を止めた。
「この前の話……ブランさんに何かあったんですか?」
「……ルヴァンさんになら、話しても良いか。どちらにせよ、近いうちに分かることですしね。
実は、ブランさんが働いているあのお店、今月末で閉店するらしいんですよ。
ブランさんはまだ働きたいって言ってましたけど、お店の経営が思わしくなかったらしくて……。
ここのところ、ずっと思い詰めてたんです。他の系列店に行くか、辞めて他の店に就職するか」
「そうだったんですね……」
「そんな時、偶然ルヴァンさんと出会って、色んな話をするようになって。それがとても楽しいって、ブランさん言ってましたよ」
そこまで言ってから、今のは内緒でお願いしますと言わんばかりに、口に人差し指を当て悪戯っぽく笑うマスター。
そんな折。
入り口のベルが鳴り、
「あ、ルヴァンさんじゃないですか! 本当に良く会いますね」
迷わずルヴァンの隣の席に座り、パンを数点取り出して、マスターにコーヒーを注文する。マスターは親指で了解の意を示してから、店の奥へ。
「不思議ですね。特に待ち合わせたわけでもないのに」
「ええ、本当に。次ももしかしたら、同じタイミングで会うかもしれませんね」
笑顔で話すブランの表情はとても柔らかく、今のルヴァンにはそれが特別なものに思えるのだった。
「今日は出勤だったんですけど、急にバイトの子がシフト入ってくれて休みになったんです。
なので、ルヴァンさんの働くパン屋さんでおいしいパンを買って、ここでコーヒー片手にゆっくりしようと思ってたんですよ」
いつの間にか音もなく、すっと差し出されたコーヒーを一口。静かにカップを持ち上げる、その仕草さえもどこか愛おしく思えた。
「なるほど。……そういえば、前から聞いてみたかったことがあるんですけど」
「なんでしょう?」
パンをかじったまま、きょとんとした表情に、もはやノックアウトされそうになりながら、ルヴァンは続ける。
「ブランさんのペンネームの由来を知りたいんです。もしかして……モンブランからもじったとか……?」
推測も付け加えて尋ねると、ブランは口の中のパンを飲み込んで、ひとしきり笑ってからこう答えた。
「違いますよ。ブランの由来は、ブランシール。白っぽくするという意味のフランス語です。一例として、スイーツでは卵黄とグラニュー糖を白っぽくなるまで攪拌したりする時にも使います。
ちなみに、ブランだけだと『白』という意味になるんですよ」
人差し指を立てて、自慢げに知識を披露するブランを、ルヴァンは納得しながら聞いていた。
ブランはその様子に満足したのか、今度はテーブルの上で組んだ腕ごとルヴァンの方を向く。
「今度は、ルヴァンさんの番ですよ。やはりパンに関する何かなんですよね?」
ただでさえ近いブランとの距離がより縮まって、心臓の音が何倍にも早くなったように感じながらも、何とか平静を保ちながら、ルヴァンは返答を口にした。
「ええ、パン作りに欠かせない発酵種のことなんです。主に、小麦粉と水。それに、天然酵母を加えたものです」
「なるほど……さすがはプロのパン職人さんですね!」
「それを言ったら、ブランさんもプロのパティシエじゃないですか」
ルヴァンは、咄嗟に抑えようとしたが、思いのままに口走ってしまった。今のブランには、あまり良い言葉ではないと分かっていたのに……。
「そういえば、今度ブランさんの考案したケーキが発売されるらしいですね。聞きましたよ、念願叶って自分の商品を出せるなんて、素晴らしいじゃないですか」
半ば強引に話に割って入ったマスターが、助け舟のように話を反らした。
ルヴァンを一瞬だけ見てから軽くウインクをして、頼んでもいない二杯目のコーヒーを二人分。
そして、その助け舟にひょいと乗っかるように、ブランは話の続きをマスターから引き継いだ。
「そうだった、聞いてくださいルヴァンさん!今度私がプロデュースしたケーキがお店に並ぶんです!
ずっと夢だったんです、自分のケーキをお店に並べること。
今度の日曜日、ちょうどこの喫茶店の最終日に発売するんです。是非来てください!」
「ブランさんのケーキ、食べてみたいです! その日は有給とって朝から並びますよ!」
勢いよく立ち上がり、一人闘志を燃やすルヴァンを、ブランはとても嬉しそうに眺めるのだった。
「今日で最後です」
しみじみと、噛みしめるように、マスターはつぶやいた。
外はすでに真っ暗で、カーテンは閉められている。
店内には他の客はおらず、とても静かだった。
いつもなら、落ち着いた雰囲気のジャズやクラシックが店内を音で彩っているのだが、今日に至ってはそれもない。
「お疲れ様でした。どうぞ、ブランさんのケーキです」
ルヴァンは、箱から取り出したケーキをマスターに差し出しながら、それに見合うコーヒーをオーダーした。
いつもならすぐさまコーヒーを作り始めるのに、マスターは一口、口に運んでからゆっくりと味わった後。
「少々お待ちください」
余韻を感じながら、コーヒーを淹れていく。ほどなくして出来上がったコーヒーが、ルヴァンの元へと運ばれてきた。
「お待たせしました。今までで一番の出来だと思います。どうぞ、ご賞味ください」
「いただきます」
ケーキの甘みとマッチするように計算されたその味は、口の中で複雑に絡み合い、見事なマリアージュを成していた。
「おいしいです。その一言に尽きます」
「ありがとうございます。それでは、私も失礼して」
マスターもカップを傾けて一口。
マスターのコーヒーを飲む姿を初めて見るルヴァンには、それがとても新鮮に見えた。これが最初で最後の光景なのだと思うと、殊更にそう思うのかもしれなかった。
それからは特に話すこともなく、二人で静かにその時を待っていた。ブランが店に来る、その時を。
そして、だんだんと近づいてくる足音。
「マスター、お疲れ様……ってルヴァンさん!」
ブランは、ルヴァンの顔を見るなり、抱きつきそうな勢いでルヴァンの隣の席へと飛び乗った。
「マスター。今日はこれに合うやつでお願いします!」
そのセリフに、二人はにやけが止まらない。
「どうしたんですか、二人とも……」
ブランは、そう言いつつも二人の意図を察し、それ以上は何も言わずにマスターのコーヒーを待った。
コーヒーを待つ間、どこか落ち着かない様子のブランだったが、やがて意を決したのか、口を開いた。
「ルヴァンさん……実は、今日であのお店閉店するんです。……辞めた後のことは何も決まっていなくて。私、すごく不安で仕方なくて……この先どうしようかなって……」
そこまで話したところで、ブランは一旦話を切り上げた。目に一杯の涙をためながら。
「ルヴァンさん、ありがとうございます!それにマスターも。私の作ったケーキ食べてくれたんですね!嬉しいです!とっても……こんなに、嬉しいことは……ないです……」
そう言いながら、服の袖で強引に涙を拭うブランを、ルヴァンは優しく抱き寄せた。
そして、ブランが落ち着くまで。
「とても、とてもおいしかったですよ」
と、優しく肩を叩きながら、ただそれだけを伝えるのだった。
「ごめんなさい、ルヴァンさん。もう、大丈夫です」
落ち着いたのか、ルヴァンからそっと離れ、ブランはお手洗いへと消えて行った。
「マスター。コーヒーは」
「あぁ、新しいのを淹れ直しますよ。……と言いつつ、三人で飲む分のコーヒーはまだ淹れてないんですよね」
悪戯っぽくウインクをして見せるマスターに、意地の悪さと感謝をしていると、ほどなくしてブランが戻ってきた。
「本日のコーヒーです。どうぞ、ご賞味ください」
マスターは三人分のコーヒーをそれぞれに差し出した。
カップから立ち上る芳醇な香りが、静かな店内を満たしていく。
そこに流れる空気はとても澄んでいて、落ち着いた空間を演出していた。
「ありがとうございます。……もう食べたと思いますけど、良かったら」
ブランは、二人の分のケーキを取り出してから、コーヒーに口をつけた。
「いただきます……っとその前に」
マスターはおもむろに店の外へ。表の看板を掛け替えに行ったようだ。
「あぁ……ほっとする味」
「ですよね。さすが、マスターの淹れたコーヒーです」
ブランはそれに、ただ頷きながら続けて啜る。
そんな、ブランを眺めながら。
「ブランさん。ようやく落ち着いたところで申し訳ないんですけど、また泣いてもらうかもしれません」
ルヴァンはそう前置きをしてから、続く言葉をブランに告げるのだった。
それからしばらくの後。喫茶バールは、営業を続けていた。
ただし、以前のマスターは現役を退き、今は妻と海外旅行へ出かけたり、自宅で自慢のコーヒーを淹れたり、悠々自適な生活を送っているらしい。
その喫茶店を今、経営しているのは。
「いらっしゃいませ。……マスター! お久しぶりです!」
ブランの明るい声が店内に響く。マスターは促されるまま、カウンター席へ。
「もうマスターじゃないよ。元マスターさ。しかし、驚いたよ。
君達がこの喫茶店を継ぎたいって言ってきた時は、夢でも見ているんじゃないかと思った。
これも、チャンスだったってことなのかな」
そう言って、元マスターは本日のケーキセットをオーダーする。
カウンターの向こう側に立つルヴァンは、コーヒー豆がずらりと並ぶ棚から一つを取り、ミルに入れて挽いていく。
そして、ワクワクしながらコーヒーを待つ元マスターに、こう言った。
「元マスター、私がこの店に来た時言われたのもチャンスって言葉でしたよね。
知ってますか?マスター。
チャンスって、日本語では好機という意味ですけど、英語だと『偶然性』って意味なんですよ。
元マスターにとっては、店をやめる好機だったのかもしれませんけど。
私にとっては……いや、私とブランにとっては偶然性の好機だったんですよ。きっと」
「それは、惚気と受け取っても良いのかな?」
以前と変わらぬ笑顔で悪戯っぽくそう尋ねる元マスターに、左手の薬指にきらりと光る指輪を見せながら、ルヴァンが答えようとして。
しかしそれは、運ばれてきたケーキとコーヒーによって遮られた。
「元マスター、お待たせしました。本日のケーキセットでございます」
満面の笑みで、ブランは「ごゆっくり」と言い残し、カウンターの向こう側へ。
そして、店の奥へ消えていこうとするブランを、ルヴァンは引き留めた。
「ブラン。思ったんだけどさ。元マスターって、呼びにくくない?」
「それもそうね……それに、この店の常連さんだし。ここは、何か決めてもらわないと」
「決めてもらうって……何をだね?」
きょとんとする、元マスターに二人は口を揃えて、こう言った。
「元マスター、ペンネームをどうぞ」
これは一本取られたな、とひとしきり笑った元マスターはしばらく考え込んだ後、何かをひらめいたようで、その答えを口にした。
「『バリスタ』で頼むよ」
チャンスブレンド・エンゲージ 和立 初月 @dolce2411
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