最終話▷婚約破棄の向こう側

 それはまるで温かい泥の中に溶けていくような感覚だった。


 微睡む、と言い換えてもいいかもしれない。

 思考は定まらず、ゆるりゆるりと手足の先から溶けたバターみたいに自分が流れ出して、大きな何かに混ざっていく。


――――ああ、還っていく


 感覚に名をつけるならば、それだった。


 もともとあった場所に自分という成分が溶けて、その構成物の一つとして帰っていく。返っていく。還っていく。

 最早"自分"とは何なのか、名前すらも思い出せない。

 疲れた体に満ちる虚脱感ごと溶けだしていく感覚は、心地よかった。



(いいえ、駄目。駄目だわ)



 しかしその途中で引き留める意識が働く。


 その楔の名は十六年という、彼女が彼女として"在った"時間。

 彼女は「そこ」から生まれ、もとは「それ」と同じものだった。

 しかし赤子が二度と母の胎内へ戻れぬように、すでに別のものとして分かたれている。


 この微睡みは心地よい。だが身を委ねたらけして元の自分へは戻れない。

 そんな確信、危機感と共に溶けかけていた体の隅々まで神経を巡らせた。

 心臓から巡る血を追うように体中全て、五体がそろってあることを意識しようと試みる。





 ……そんな中、次いで襲ってきたのは直前までの心地よさを覆すような吐き気だった。





「………ッ」


 思わず口元を手で押さえて、喉の奥からせりあがってくるものをこらえる。

 そこで自分の手を動かせたこと、認識できたことに安堵したのもつかの間。

 ……するりとそこに、自分の手とまったく同じ色形をした手が絡められる。


「【戻れ。お前はもともと我が魂。消しなどやせぬ。……ただ戻り、一つになるだけで良い。帰っておいで】」


 不快なはずなのにひどく優し気な声が毒のように染みてきて、後ろからの抱擁に再び体が境界線を曖昧にしていく。


「誰が……ッ」

「【再び目覚めたとして、何になる? お前は愛しい男の妻を殺した怨敵と同一の存在なのだよ。これまで奴がどんな気持ちでお前と接していたのか、考えるのは怖くないか? ……怖いだろうとも。だけど、安心おし。その怨嗟は全て引き受けてあげよう。だから我が身に委ねなさい】」


 言葉にして答える前に思考を読まれ、甘い蜜を流し込むようにこちらの退路を手折っていく。

 ……きっと振り向けば、それは自分と同じ姿をしているのだろう。


 もともとお前の罪ではないか。

 そう責めるのは容易いが、流し込まれた前世の記憶をはっきりと自分のものとして追体験してしまった。

 何も知らなかっただけで、確かにあれは自分のものだと。





 婚約を模した茶番劇を申し込まれた時、どんな気持ちだっただろう。


 無理やり押しかけてくる自分を迎えた時、笑顔の裏にはどんな感情が隠されていた?


 氷樹の貴公子という仮面の裏で、もうひとつの仮面で本心を隠していたのではないだろうか。


 その優しさに甘えていい気になって、本当の彼と接することが出来ていたと浮かれていた自分をどう見ていたのか。




 渦のように思考がうねり、連鎖して不安感は増していく。

 最後に目にしたエイリスは、確かに自分の名を呼んでくれていたのに……自身が霞となって溶け消えていく。


「【償いたいと思うなら、消えてしまった方がいい。目障りな存在が居なくなる。それがなにより彼のためなのではないかね?】」


 不安に付け入る様なその声に……しかし、ピクリと反発する心が震えた。


「消えることが償い……ですって?」


 その空間で初めて耳にした自分の肉声に、靄がかっていた思考が一気に透明度を増した。




 腹に力を入れる。両の脚で踏みしめる。

 血が出るほどに強く強く拳を握りしめた。




「そんなの……ただの、逃げじゃない! お前はこのアウネリア・コーネウリシュに逃げろと言うのか!!」

「【…………。逃げるも何も、国外逃亡を図った身で何を今さら】」

「普通に痛いところついてくるのはやめなさいよ」


 啖呵を切ったあとに思いのほか冷静に言われたくない所を突かれて、アウネリアは口を尖らせた。

 しかし溶けかけていた思考がはっきりと「アウネリア」という輪郭を保ったことで、思考能力が戻ってくる。


(……こいつは私を取り込もうとしている。つまり、消せないんだわ)

「【……いかにも。君と我は表裏一体】」

「……心、読めるのね」

「【同一の存在だからね】」


 まるで古くからの友人のように気安く話しかけてくる……おそらくは魔王の声に、アウネリアは自分の考えを隠すことを諦めた。


 同一の存在。それは間違いないのだろう。

 意識してみれば魔王がアウネリアの思考を読めるように、アウネリアにもまた……魔王の心が読めたからだ。




 魔王を突き動かしているのは強烈な生存本能。

 魔族にとってのそれは歴史を積み重ねる過程で様々な不純物をくっつけていった人間などよりよほど強く、原初の生命といっていいほどの純粋さで形作られている。

 それを保つためなら人間にとっての悪逆も、彼らは当然のように行う。

 人に憑りつくことで得た感情や思考能力も帰結する場所は常に「生存」。


 今回転生するにあたって、魔王は「擬態」の能力を得た。それもまた、生きるためである。

 もし生まれながらに魔族の姿になっていたら、その個体が魔王であると知られずとも人間は無力に成り果てていた魔王を処分していた。

 そうならないための疑似体がアウネリアであり、そのおかげでこれまで害されること無く魔王は傷ついた魂を癒す事が出来たのだ。



(ある意味、とても無垢な生き物達だわ)


 そして無垢とは、純粋さとは残酷だ。

 自分たちの行動になんの疑いもなく、最適解を選択し続ける。

 その中にどんな犠牲があろうとも。



 ……魔王の記憶として、ほんの少しだけ魔界の景色にも触れた。

 こちらはことわりそのものが違うからか、見てもアウネリアの培ってきた常識の中で理解することはできなかった。

 が……少なくとも「ああ、ここでは生きられないな」と感じた。


 何らかの要因でもとの世界で生き続けることが難しくなり、新天地を求めて魔界からこの世界への進行を続ける魔族という生き物。


 憐れに思う。

 しかし受け入れられるかといえば、それは別の話である。




「返しなさい、この身体!!」




 理解が深まったとはいえ、それで譲ってやる義理も無い。

 アウネリアは自身を抱きすくめる魔王の意志を振り返り、その鱗に覆われた頬を両手で挟み込んだ。

 しかし魔王はアウネリアと同じ顔で、妖艶な笑みを浮かべて必死に抗うアウネリアを嘲った。


「【返してもらったのは我の方だよ。お前は我の皮だ】」

「ぬけぬけと……!」


 分かっている。目の前にある姿は仮初のもので、この空間自体が魔王の腹の中であると。

 だからといって諦めるほどアウネリアの往生際も良くないが。


(せめて内側でなく、外へつながるなにかを……)


 細い糸を手繰り寄せるように、アウネリアは魔王の気配のしない場所を……外界へ通じる場所を探る。

 だがその途中で、同一の存在ならばもっと簡単な方法があるのではないかと気が付いた。


(押して駄目なら……引いてみろ! というやつね!)


 その結論にたどり着いたアウネリアが行ったのは、反発ではなく調

 魔王の気配は一瞬それに感心した様子を見せるが、魔王にしてみればそれはアウネリアの精神を取り込む道筋が整うだけの行為。

 好きにせよ、とばかりに放置された。


 それを傲慢な余裕から生じた隙と見て、アウネリアは今度は自ら魔王の意識へと身を投じていくが……。


「ッ」


 馴染むことを意識した途端、再び魔王で会った時の記憶が脳内を駆け抜けていく。

 その中で最も鮮明なのは、怒りと苦悶に歪んだエイリス……否、勇者エディルハルトの顔。

 その怨嗟の瞳はただひたすらにこちらへと向けられている。


 魔王の言うようにこの視線から逃れるために消えてしまった方が、きっと楽なのだろう。

 エイリスが本当はどんな感情でもって自分に接していたのか知るのも怖い。


(……だけどそれは、自分わたしの都合)


 消えたら償いになるなどと、それは魔王の都合のいいように吐き出した甘言だ。

 魔王の存在そのものと共に消えるならばともかく、アウネリアだけが何もしないまま消えるのはただの逃げである。




 ふと、混濁する意識の中で唐突に蘇るのはルメシオ王子の言葉。


『努力が浅いのでは? 説得にどれだけ時間を費やしました? 足りないならその何倍も時間をかけて言葉を重ね続ければいいだけだ』





 エイリスを連れたまま国外逃亡を継続させようと帰国に反発したアウネリアに、彼はそう言ってなじった。

 その時に言い返せなかったのは、アウネリアも心のどこかで自分の心が楽な道を選んだ結果が国外逃亡であると理解していたからだ。

 ……だからこそ。今度こそ楽な道に逃げることなど、あってはならない。


 たとえ前世魔王と同じ目を向けられて罵倒されて、苦しくても悲しくても……どんな気分を味わっても。

 アウネリアが抱いた気持ちはアウネリアだけのものなのだ。

 それを伝える前に目を背けて消えて二度と会わずに逃げるだなんて、それはここまで付き合ってくれたエイリスに対する裏切りでもある。




(嫌われてもいい。この想いが届かなくてもいい。ただもう一度、あの人の前に立ちたい。そして、今度は本当の言葉を伝えたい!)



 魔王の記憶を振り払い、ただただ自分の望みを糧に同調を進める。





 そして――――繋がった。






 まず目を焼いたのはずいぶんと傾いた太陽の光。

 位置を見るに昼を過ぎて長い時間が経過しているようで、もうしばしすれば青い空も夕日の装いへと変化していくだろう。



「【ここは引かせてもらうとしよう。再び相まみえたくば、以前のように我が配下を退けて辿りつくがいい】」

「!! 待て!! ここまで来て逃げる気か!? さっきまでの余裕はどうした!!」

(!!)


 耳を打ったのは自分の口から零れる自分ではない声と……もう一度聞きたかった、愛しい人の声。


(よかった……! 生きてた!)


 まず安堵する。


 海底迷宮を空まで引っ張り上げて、海水を排出させるために迷宮ごと破壊したところまでは覚えていた。

 しかしその後はずっと魔王の腹の中。外の様子どころか時間の経過すらもわからずに、エイリス達の安否は分からなかったのだ。


 魔王が見下ろした視線の先にはエイリス、リメリエ、ルメシオ。……誰もがボロボロで酷い有様だが、誰一人欠けることなく立ってくれている。

 アウネリアはその事実に胸を満たされるも……視界だけ手に入れて、何一つ動かせない体に苛立った。

 体の支配権は未だ魔王にあるようで、アウネリアはただ見ていることしか出来ない。


 もどかしく思う中、アウネリアの意志など無視して魔王とエイリスの会話は続く。


 どうもこの魔王、劣勢とまでいかずともこの場を逃げようとしているらしい。

 魔王にとってエイリスは早々に始末しておきたい相手ではあるものの、リスクが増したとあらば優先させるべきは盤石の態勢を整えることなのだろう。


(悔しい……! 結局見ている事しか出来ないなんて……!)


 きっと一時的に表層へ出てこられたこの意識も、いずれ引き戻される。

 そうなれば今度こそ取り込まれて、アウネリアは自分という輪郭を失うだろう。



 そんな中。



「【待つ必要があるとでも? お前と違って身をわきまえておるのだ。……それもこの小娘に学んだことだがな】」

(…………ん?)

「【なかなかに愛い。この皮は、本心を隠しながらつかのまの恋愛ごっこに心躍らせていたよ】」

「……何? どういうことじゃ」

(………………んんん?)


 はた、と会話が引っかかる。

 血を吐くほどに苦しむアウネリアの心に、一瞬の余白が生まれた。





 待て。


 待て待て。


 こいつ今、何を言おうとしている?





 嫌な予感に、複雑に荒れ狂っていた思考が一本に絞られる。

 焦燥感。それが思考の正体だ。


 その他いっさいの雑念が消え去り、ただ魔王に「待て」と言い募る。

 が、当然魔王はお構いなし。





「【ふふふ。……この娘はな。偽装婚約など持ち掛けておいて、本心ではお前の事を……】」

(まっ)






 迷宮から帰ったら、意を決して告げようと思っていた乙女の一大決心。

 それが自分であるものの自分ではない他人の口から告げられようとしたその瞬間、全ての神経、細胞がアウネリアと心と体をリンクさせた。


 爆発するように吹き出た感情は……憤怒。




「【好】ふざっけんじゃないわよ!!!! それはお前が口にしていい言葉じゃないわゴフゥッ!!!!【!?!?!?】」




 取り戻した体で一番初めに行ったのは、自分自身の顔面へと向けた渾身の一撃だった。











++++++










 目の前で豪快に自分の頬を殴り飛ばした魔王を見てしばし呆然とするが、はたと我に返りその名を呼んだ。


「アウネリアか!?」


 まさか自力で意識を取り戻したのかという期待が胸を満たすが……どうもそれどころではない様子じゃった。


「お前!! お前お前お前お前ーーーーーー!! 馬鹿ッ! ばーーーーかーーーー!! 何を言おうとしているのよ!! 馬鹿! アホ!」

「【やめ、やめないか! お前の体でもあるだろう!!】」

「私の体だから私がどうしようと自由でブキュッ!!」


 美しい顔の半分を赤腫らしたアウネリアは最初の一発だけに留まらず、次々と自分自身へと攻撃の手を加えていく。

 両ほほを抓ったかと思えば手のひらで頬を引っ叩き、お次は拳を握って鼻っ面を豪快に殴る……などなど。

 見た目だけなら自虐行為に他ならないが、声を聴くにあの華奢な体の中では激しい攻防が行われているのじゃろう。

 それはわかる、わかるが……!


「あ、アウネリア! その、あまり若い娘が顔を痛めつけるもんじゃ……」

「ひいおじいちゃま、気持ちは分かりますがアウネリアは今それどころじゃないと思いますよ」

「それも、そうなんじゃが……!」


 つい先ほどまで自分こそアウネリアの体に容赦ない攻撃を加えていたというのに、どうしてもオロオロしてしまう。

 あああ、鼻血まで出して……!



 しかしその攻防はひとつの変化をもたらす。

 ……一人で揉みあうという器用なことをやってのけたアウネリアの体が、その高度を下げこちらへと向かってきたのじゃ。

 これは……好奇!


「……わしが行く!」

「任せました!」


 ルメシオに頷くと、すぐさま脚に力を入れて床を蹴った。


「ひゃっ!?」

「!!」


 その力で浮遊する残骸が大きく揺れたが、同じ残骸に立っていた二人には申し訳ないがこれくらいは力を入れねば届かぬゆえ、許せ。

 チラと見れはリメリエはルメシオが支えてくれたようだし、大丈夫じゃろう。


 それにしても……体が軽い。

 先ほどまで瀕死だったとは思えないほどの好調具合に、孫の才能を見込んだのは正解だったと実感する。

 そしてわしは宙に舞った勢いのままに、アウネリアの体を抱き留めた。


「きゃわっ!?」


 ずいぶん可愛らしい声を出したものだから、これはアウネリアじゃろう。

 そうあたりをつけるも、視覚から迫った影を油断なく掴む。見れば鋭利になった爪を硬化させた腕がわしの急所を狙っていた。……未だ魔王の意識も健在であるようじゃな。


 ともかく身動きが取れないよう、腕を固めて強く抱きすくめる。


「えい、えい、えええええエイリス!?」

「すまんの。苦しいかもしれんが、我慢しておくれ」


 今だ魔族の特徴を備えておるが、頬を赤らめて狼狽する様子がとても人間的で安堵した。


 ああ、この子は強い子じゃな。

 わしがなにもせんでも、こうして己の意志を取り返したのだから。


 そのまま別の残骸へと着地すると、わしはアウネリアの顔を覗き込んだ。


「……アウネリア。その状態は、保てるかの?」

「………………」


 問えば直前まで顔を茹で上がった蛸のようにさせていたアウネリアが、すっと真顔になる。


「【無駄だよ、勇者。驚きはしたが、体の主導権は我にある】」

「その通りよ。だからエイリス、今のうちに私ごと心臓ブチ抜きなさい」

「!?」

「【!?】」


 突如切り替わった魔王の顔に歯噛みしようとしたその直前……再びアウネリアが表となり、とんでもない事を言ってきた。


「なに驚いてるのよ? それが、あなたが勇者としてするべきことでしょ。友達との約束って……これなんでしょ?」

「それは……」


 言い淀む。


 そうじゃ。こうして魔王が覚醒した今、わしがすべきことは友との約束を守り魔王の魂を消滅させること。アウネリアを見守るのは、あくまで魔王として目覚めなかった場合に限る。


 しかしわしはこの子を……アウネリアを諦めたくないと思ってしまった。

 具体的に助ける方法など、思いついておらんくせに。


「迷うような顔、しないでよ。……期待しちゃうわ」


 そんなわしを見て困ったように笑うアウネリア。そこに含まれた意味に喉の奥が引き絞られるような感覚を覚える。

 ああ……この子は今、何を見て、どんな気持ちでこれを口にしておるんじゃ。


「こうして頑張って、出てきたのよ。何もしないで消えるなんて、嫌だったから。どうせならあなたの役に立ってから消えたいじゃない。……えへへ。そんな顔で迎えてくれるなんて、思わなかったけど。本当はずっと私の事が憎かったんじゃないかって……怖かったわ」

「そんなこと、思うはずないじゃろ」

「あは、そっか。……ねえ。あなたにとって、私と過ごした時間って……ちゃんと楽しいものだった?」

「もちろんだとも」


 年の功もなにもあったものでなく気の利いた台詞の一つも返せない。

 ただ嘘偽りがないことだけは伝わるようにと、不安に揺れる少女の瞳を覗き込みながら力強く頷いた。

 ……アウネリアの瞳に映ったわしのそんな姿は、勇者でも英雄でも氷樹の貴公子でもなく……ただの若造じゃった。


「それが聞ければ、十分」


 アウネリアが完全に体を取り戻すことは不可能であること。

 それを暗に伝える内容に、奥歯を噛みしめた。


「もう一度貴方の前に立ちたかった。ずっと私のわがままに付き合ってくれた貴方に伝えたい言葉があった。……優しいエイリスには酷かもしれないけど、聞いてくれるかしら」

「…………ああ」


 抱きしめる力を強くする。

 それは身動きをとれなくするためではなく、この存在が何処にも消えない様にと……すり抜けてこぼれてくれるなと願うように。

 強く、強く抱きしめた。







「好きよ、エイリス。大好き」







 晴れやかに笑んだその顔は、とても美しかった。







「……エイリス様」

「……うむ」


 いつの間にか近くへ来ていたルメシオから彼の剣を受け取る。

 勝負は体を離したその一瞬。アウネリアが魔王の意志を少しでも押さえつけている間に切り伏せる。


 本人が覚悟を決めた以上、わしが自分の我儘だけで拒むことはできない。

 友との約束を果たせるように、休日の酒を楽しむ以外はせっせとこの日のために準備をしてきた。……しかしどうしてこうも、心を満たすものはこうも苦いのか。


「【迷っているなら、やめてはどうかね? こんな健気な少女を殺すのは心が痛むだろう】」


 淡々と魔王の声がわしの躊躇を促すのが腹立たしい。そんな陳腐な誘惑が、今は大きく心を揺さぶるからじゃ。

 だがここで刃を鈍らせては、彼女の決意を無駄にする。それだけは……あってはならぬこと。





 ふと、これが終わったらわしはどうするんじゃろうと一瞬の考えが脳裏をよぎる。



(……なにも、思いつかんのう……)



 想像した未来は、空白じゃった。





 それがストンっと心に落ちた時、わしは口元に笑みを浮かべていた。

 己の今後が決まったからじゃ。

 そして思うがままに、受け取った剣の切っ先をクッキーでも割るようにへし折った。


「エイリス様!?」

「なに、心配するな。ちゃんとやることは決めておる」


 これは単に長さが邪魔だっただけのこと。


 わしは短剣よりやや長い程度の大きさになった剣先の長さを確かめるように眺め透かして、丁度良いなと頷いた。

 直接刃を砕き握った手はすでに多くの血を流しておるが、構わぬとばかりに強く握りなおす。

 ……しっかり、深く刺せるようにな。


「……エイリス?」

「おお、アウネリアか。最期にまみえたのがおぬしでよかったわい。返事がまだじゃったからな」

「返事って……そんなの、いいわよ。最期の記憶がフラれたものだなんて、みじめだわ」


 そうは言うが、勇気を出して伝えてくれたその気持ちにわしは一言も返せていない。それはあまりに不誠実じゃろう。


 前世で妻が魔族となって死んで以来、わしは独り身を貫いた。

 今世でもそのつもりじゃったが……。


 身体を解放したところを一思いに両手で剣を振り下ろし、切り伏せるつもりでいた。

 しかし、それはやめた。

 最期まで離すまいと抱きしめる力を強くして、刃を握る片腕だけを振り上げる。……"最期"の言葉と共に。







「短いが、エイリス・グランバリエの残りの生涯全てを……アウネリア。君に捧げよう」


 


 



 偽の婚約から始まった彼女との関係を刹那の間だけ結び付けるように。

 わしはアウネリアの背中から、自分の胸ごと貫いた。


 老いさらばえ枯れ切ったジジイの魂で悪いが、せめて死出の旅路は共に歩もう。

 なに、二人ならきっと……行く先が何処であっても、きっと楽しいものになる。
























「今の、言葉にッ! 嘘は、ない……わね……!?」

「…………。ん?」


 一切の仕損じが無いように万力の力を込めて貫いた一撃は、苦しみも無くあの世へ逝けるはずのものじゃった。

 しかし何故かわしは未だに生きた彼女の肉声を己の耳で拾っておる。


「嘘じゃ、ないわよね!?」

「あだだだだだだだだだだ!?」


 意識した途端に襲ってきた激痛に目を開ければ、絶妙に体をひねってわしの体ごと致命傷を避けておるアウネリアの姿が目に映った。


 う、嘘じゃろ!? わしの拘束を振り切った上に、あの攻撃も避けてみせた……じゃとぉ!? ば、馬鹿な!


 剣の先は確かにアウネリアの体を貫通しわしの体にも深く刺さっておったが、ものの見事に致命傷となる内臓部分は避けられておる。

 え、本当に? 抱きしめていた感じ、魔王の意識がある時でも振り払えないようじゃったから筋力はもとのアウネリアのままじゃったぞ?? それで振り払ったの?

 わし、勇者ぞ? その渾身の拘束と攻撃をこの近距離で避けたの!?



 う、うっそじゃぁ……。



「エイリス様あああああああぁぁ!!!!! 何やってんですか! 心中とか馬鹿なんですか俺聞いてませんよ!! お人よしもたいがいにしてください!! おいリメリエ、治療!!」

「ぜぇ……はぁ……! わ、わかってますとも!! でも、あの、ちょっと! 一人で先に行かないで運んでくださいよ!! ここまで来るのにどれだけわたしが苦労をしたとぉぉ!! 空の上だしちょっとの段差も怖いんですからね!?」

「知るか運動音痴! 今度たっぷり鍛えてやる! それより治療!!」

「だから分かってますってば!! あと鍛えるとかそういった親切のフリした余計なお世話はいらないので運んでください! 適所適材ってやつです体力馬鹿!!」


 わっと賑やかな声に囲まれたと思えば、アウネリアとわしの体を繋げていた剣先が引き抜かれて血が噴き出した。そこにすかさずリメリエの聖なる術が止血をする。


「ま、待て! まだ魔王が……」


 アウネリアの意志が強いとはいえ解放されれば、再びその体は魔王のものとなるのではないか。

 そう思いアウネリアを見たが……。



 飛んできたのは、強烈な張り手じゃった。




「おぶ!?」

「馬鹿! 何、一緒に死のうとしているのよ! これだから諦観に染まった年寄りは! もう、ほんっとに馬鹿!! 綺麗な思い出になって死ねたらまだ本望だと思ってたのに、直前で特大の未練作ってくれちゃって!! 私の覚悟を返しなさいよ!」

「アウあばっ! ネリごふっ! アじゃぱぁ!?」


 名前を呼ぶ間もなく往復でビンタをされ続け、わしの顔も次第に腫れあがっていく。先ほどまで自分の顔を殴っていたアウネリアの顔と、どっこいなありさまじゃ。

 お互い顔は良いはずなんじゃが、これじゃ美男美女もないのぉ……!


 そう思ったら、何故か妙に笑えてきてしまった。


「なに笑ってるのよ!!」

「いや、すまん」


 謝りつつ、次に飛んできた一撃は受けずに止めた。そこには攻撃の魔力が練られておったからじゃ。

 ……油断も隙も無いの。


「【……やはり人間もまた、生きる意志の方が強いものよな。死にきれなかったか。無様なものよ】」

「……まあ、お前が消えたわけではないよな」


 アウネリアが生きている事に安堵してしまったものの、先ほどから何も状況は変わっていない。

 しかしアウネリアが「やはり生きたい」と思うのならば、わしは……。


「無様? 逆よ。まったく……このアウネリア様ともあろう者が、最高に無様な死に様を迎えるところだったわ。セーフよセーフ!」

「【……何?】」


 わしが結論を出す前に、アウネリアが確固とした意志で言葉を紡ぐ。

 見ればいつの間にか片目だけもとの翡翠色に戻っていて、彼女はぐいっと鼻血をぬぐうと攻撃の魔力を霧散させて虚空を睨んだ。

 おそらくは自分の中に居る魔王を見据える代わりじゃろう。


「魔王。貴方、償いたいなら消えてしまった方がいいとか言ってたわよね。はあああぁ~~~~? そんなことで責任取ったことになるとでも、本当に思ってるわけ~~?」


 傷もまだ治り切っておらぬだろうに、アウネリアの言葉はハッキリしており絶好調である。

 わしらも黙って耳を傾けた。


「あのねぇ! もし相手を不幸にしたなら、その何倍も何十倍も幸せにするってのが、責任の取り方ってもんなのよ!! 死んでとれる責任なんて軽いわ! そもそも私じゃなくて貴方の責任だけどね!! まあそれはもうどうでもいいのよ。嫌だけど貴方魔王は私だもの!」

「【…………】」


 勢いのままに話しているだろうアウネリアじゃが、そこには有無を言わせない迫力があった。

 事実、魔王はなにも言い返せておらん。というよりこれは、困惑している……?


 そしてその翡翠と黄金の瞳が次に見据えたのは……わしである。

 アウネリアはその華奢な手で、逃がさないとばかりにわしの両肩を強く掴んだ。


「エイリス!!」

「は、はい!」


 思わずかしこまるわしに、アウネリアは魔王の意識を押しのけたまま熱く魂のこもった声で言葉を紡ぐ。



「あなたが自分で言ったのよ? 残りの生涯を私に捧げるって。今さら嘘だなんて言わせないからね。あとね、その生涯で……枯れただなんてつまらないことも、私が言わせない! 私がこの先ずっと、ドキドキわくわくさせてあげる。枯れてる暇なんて無いくらいに、たくさん楽しませて幸せにしてあげるわよ! もちろん私もそうしてもらうけれど! だから!!」


 真っ赤な顔で必死に言い募る様は先ほどの比ではなく、腹の底に響くようで……気づけば体の中が熱くなっていた。

 先ほどまで白紙だった未来図が色鮮やかに塗りたくられていくような感覚に、目の前がちかちかした。

 宝石のように、星のように煌めくアウネリアの瞳が未来へと光をばら撒いていく。


 気づけば不整脈のように鼓動が早くなっており、もしかしてわしって今死ぬ? などと思った時じゃ。

 アウネリアが叫ぶように、それを口にした。





「私と! 婚約破棄を前提のお付き合いを破棄して結婚を前提に付き合ってください!! 好きです!!」





 初めて会った時のように両手を掴んで見上げてくる姿に、顔がぼっと熱くなる。

 ……以前はピクリとも動じなかったわしが、ずいぶんとチョロくなったもんじゃ。


 いや……違うか。

 彼女の魅力が、わしの中での彼女の存在がそれだけ大きくなったと……ただ、それだけのこと。



 わしはアウネリアに手を握られたままゆっくりと彼女の前に跪いた。そして手の甲に唇を寄せる。

 いつの間にか空は夕日に染まっていて、傾いた太陽の光がアウネリアの金赤の髪に黄金の彩を添えていた。




 …………ああ、綺麗じゃのう。




「お受けしよう。わしも、アウネリアを愛しておるよ」

「!!」

「ただ」

「…………?」


 返事を聞いて喜色に染まった次の瞬間、前置くわしに肩をびくっと跳ねさせた小動物じみた仕草でこちらを窺う様が愛らしい。

 しかし、これは伝えておかねばな。


「今はまだ完全におぬしと同じ気持ちではないかもしれない。……それに中身はこんなジジイじゃ。それでも良いのか?」

「それを聞くのは野暮だわ」

「違いない。こんな熱烈な愛な告白を受けた後では、本当にな!」

「そうよ! ……今は同じ気持ちじゃなくたって、構わないの。でも覚悟なさい? 絶対に惚れさせてみせるもの!」

「それは、実に頼もしい」


 呵々と笑って立ち上がると、握られた手を振りほどいてアウネリアの体を持ち上げる。





「これからの生涯、よろしく頼むぞ婚約者殿!」

「こちらこそ!」





 ……願わくば長い長い時の先で、死出の旅路についた時は友たちへの土産話が増えんことを。










+++++










 そんな二人の様子を離れた位置から見ていたリメリエとルメシオは、それぞれに安堵の笑みを浮かべていた。

 リメリエはついでに涙と鼻水を垂れ流しており、泣き笑いというには壮絶な表情をしている。


「うっ、うっ。よがったぁぁ~~~~。二人とも死んじゃうかと……!」

「そこは君が誇るべきだろう。あんな風になるためにも、傷の治療は欠かせなかった。……本当にすごい奴だな、君は」

「!? 突然褒めるのやめてくださいよ。何か裏がありそうで怖いじゃないですか」

「賞賛も素直に受け取れないのか?」

「だって。……あ、それより。なんだか雰囲気に流されちゃいましたけど……魔王は?」

「あ」







「【…………我、まだ健在なのだがな】」















+++++













「…………!」


 ばしゃっと顔にかけられた水に、飛び上がるようにして跳ね起きた。


「つめたっ!?」

「やっと起きたわね」

「…………は?」


 緑色の髪から水を滴らせる男装の麗人を、ぐるりと四人の人間が囲んでいた。


「まずは第一成功例……って感じかしら。ねえクロエ?」

「……君は、アウネリアかい? というか僕は何故……」


 疑問をもって問いかけたのは、腕を組んで堂々と目の前に立ちこちらを見下ろす彼女の姿が以前とは異なる姿をしていたからだ。

 獣の翼にヤギのような角、肌をうっすら覆う鱗に片目だけ金色に染まった瞳。

 魔王の特徴だ。しかしクロエには目の前に立っている人物がアウネリアであるように思えた。


 更に疑問は尽きない。

 自分は共生出来ていたと思っていた魔族に裏切られ、意識を呑まれたはずだが……。


 ふと体を見下ろせば、胸からは青い花弁が生えており体の中ではガチャガチャと金属のこすれる音がする。動く分には問題ないが、体は魔族の物に作り変えられたままのようだ。

 更に。


「【嗚呼……何故、このようなことに……】」

「……やあ」


 ノイズのように脳内で響く慣れ親しんだ裏切り者の声に、気さくに挨拶してしまったのは長年の付き合いゆえだろうか。

 どうも自分は人間に戻ったわけではなく、魔族も消えていないようである。


 アウネリアは困惑するクロエを前に、ふふんと得意げに笑った。


「驚いているみたいね? …………魔人族、だっけ。貴女が目指したい魔族と人間の在り方は。……まあ生命力は強そうよね。あれだけ魔王の攻撃で蜂の巣にされたのに、まだ息が残っていたんだから」

「ぎりぎりでしたけどねぇ~。まあ、生きてさえいればわたしがわりとなんとか出来るので……」

「改めて思うが、現代に生きる人間の中で君が一番規格外じゃないか? あれほどの傷を癒せる術者は王子の俺でも見たこと無いが」

「へ!? そうなんです!? いやぁ……でへへ。照れちゃいますねぇ」

「照れちゃう、すませられる力でもないんだが……」


 のほほんと笑う修道女を、見慣れぬ金赤の髪をした男性がつっこむ。

 しかしよくよく見れば、髪色こそ違えどそれがルシオであることが知れた。


「ええと……つまり、僕は生かされたと? なんのために?」


 細かい事は置いておいて、まず一番の疑問を口にした。

 クロエは彼らを殺そうとしたし、裏切った。今さら必要とされることもないと思うのだが……。


「なんのためって、協力してもらうために決まっているじゃない」

「協力?」

「貴女が目指したことでしょ。魔族と人間の共存は」


 思わずむせた。


「!? ……!? いや、アウネリア? それは無理だと、分かっただろ? 目の前で無様に騙された僕を見たんだから」

「ええ。でも不可能を不可能のままにしておくのは、研究者として無しだと思うのよね」

「えっと……!? あの、エイリス氏? 勇者くん? いや勇者さま? 彼女、こんなこと言っているけど……」


 困惑の先で助けを求めたのは、この場で最も魔族を疎んでいるであろう勇者の生まれ変わり。

 しかし水を向けられた勇者の生まれ変わりは、困ったように笑むばかりだ。どうも役に立ちそうにない。


「どうせこんな姿になってしまったら国には帰れないんだし、だったらとことんやってやるわよ。いいサンプルも手に入った事だしね」

「【サンプルと言うのはやめたまえ。我々は対等な取引相手だろう。……お前が気を抜けば、こちらはいつでもその体を手に入れられるのだと努々忘れないことだ】」

「あら。貴方が今、主導権をやすやすと握れないことも忘れないでくださる?」

「【む……】」

「お互い様、というのよこういうのは」


 クロエはもう一度むせた。

 アウネリアの口から同じ声で、今度は魔王が喋ったからだ。


「と、取引相手……?」

「そうよ。……クロエ、私は私であるまま生きることを諦めないわ。でもそうなると、ずっと魔王の意識を押さえつけておくのは骨が折れるのよ。同じ魂だから魔王だけ消すなんて事も出来ないし。……そこで! 私は取引を持ち掛けたわ! で、貴女の案に乗ってみようってわけ」


 ずずいっと顔を寄せて来たアウネリアにクロエは後ずさるが、体内で魔族のため息が聞こえて「あ、これ観念してるやつだな……」と悟った。

 どうも自分の中に居る魔族は先に説き伏せられていたらしい。


「私は魔王の魂に芽生えたもう一つの意志。だから魔王の記憶も共有したわ。これまでまったくの未知だった魔界の様子も断片的にだけど垣間見た。……理が違いすぎて、理解はできなかったけれど。まあ、何かが生きられるような場所ではなかったわね」

「…………」

「魔族はただ生きたいだけ。なら、こちらに迷惑がかからない形を探して、穏便な移住計画を進めさせるのよ。魔人という在り方も、その一つの例としてありだと思うわ」

「いやしかし、それは……」


 クロエは言い淀む。

 魔族との共存とそれに伴う人類の進化は確かにクロエが夢見た形であるが、結局は体に魔族を受け入れた時点で主導権は魔族側に奪われる。

 魔王と魂を同じくするアウネリアですら困難とするそれを実行するのは、魅力的だが実質的には無理なように思えた。


「言ったでしょう? ……貴女は第一成功例だって」

「え」

「今回の落とし前として、実験台になってもらったわよ」

「は?」


 実験台。

 その物騒な内容に慌てて体を見回すが、魔族としての特徴が残っている以外の違和感はない。


「何も変化を感じない? ……でも、貴女は今貴女の意志で体を動かせているじゃない」

「……それは、この子に今のところ操る意思がないからじゃ? 魔王が言い含めでもしたのかな」


 その気になればいつでも乗っ取れるのではないか。

 ……そういった意味を含めて返したが、アウネリアは得意げに胸を張った。


「それはクロエ次第かしら。今の貴女と魔族の魂は接合されている。主導権は半々ってところね。私達と似たり寄ったりだわ」

「…………。接合!?」

「ええ。疑似的に私と魔王のような関係を作ってみたわけ。この魂を見通す瞳と、魔王の作り変える力と、天才的なこのアウネリア様の頭脳あってこそだけれど」


 作った。

 それはつまり、魂の接合などという転生の儀の比ではないほどの魂に関する禁忌が生まれて、成されたことを意味する。

 この事実はそんな無邪気に言うどころの話ではない、世間一般的に見ればとんでもなく忌むべき、悪逆たる行為なのだが……。


「ま、こんな荒療治……荒療治でいいのかしら? これはクロエ、貴女にだけよ。これからすることに、どうしても優秀な補佐が欲しかったから。今後は魔人族の形を探るにしても、もっと穏便な方法を探るわ。上手くいけばあなたが最初の理想としたように、魔族と人間の共生関係が成立するもの。それ以外にも魔導駆動を採用した魔族用の依り代を作ったりとか」

「……アウネリア。君は今、人類にとって破滅の未来図を描いているかもしれないって事をわかってる?」


 ピクニックの計画でも立てるような口ぶりで話しているのは、クロエが言えたことでもないが途方もない計画だ。

 これを黙認していいのかとエイリスを見るも……彼は呵々と笑った。


「もうわしは、付き合う覚悟を決めたよ」

「……まいったな。貴方がそれを言うのか」


 前世越しの怨嗟をも飲み込んだ上での言葉は、朗らかに言われたものの重かった。

 その結論を出すまでに、どれだけの葛藤があったのだろうか。


 次いで彼らの仲間……リーエとルシオを見る。

 彼らはどこまで事態を把握しているのかと思ったが、どうも訳知り顔で頷いていた。


「……俺としては絶対に看過できないことなのだが……。今までと同じことを未来永劫繰り返して結局どちらも滅びました、では笑えんからな。新しいアプローチの仕方があるならば、それを試すのもまた発展の一つだろう。それに魔族を知ることは魔族の弱点を更に追及できることも意味する。いざという時はそれを逆手にとって滅ぼすまでだ」

「ふっふっふ。結構考え方が柔軟ですよね~あなた。わたしとしても、まあ修道女としては卒倒物の案件なのですけど……ハッピーエンド主義としては、有り寄りの有りですね! やる前から諦めるより、やってから爆発するほうが気持ち良いってものですよ!」

「爆発してどうする! いいか、俺のはいざという時は俺が全責任を持って尻ぬぐいしてやるという覚悟でもっての発言でお前のふわふわした考えとは違うからな!」


 どうも一介の冒険者ではない発言にも思えたが、クロエは彼の髪色を見てなんとなくを察した。

 深くはつっこむまい。




「……ま、色々言ったけどね。要は、私の実益を兼ねた趣味と我儘に付き合いなさいってこと」

「……僕にしてみれば可愛いものだと思っていたけれど、世間が君に下した狂気的な魔科学者マッドサイエンティストの評価は正しかったみたいだね。最高に魅力的な狂気の沙汰だ」


 苦笑しながらクロエはアウネリアの手をとった。

 魔族の特徴が出た体もこれから立ち向かうべき困難も全て飲み込んで、ただただ変わらず以前と同じように趣味と言い切り笑う少女の手を。











 その様子を見ていたエイリスは思案する。



 来るのは破滅か、それとも常識を破壊しての怒涛の未来か。

 わからぬものの、成長する若木に寄り添う事を決めた老木の幹からも新たに若芽が芽吹いた。

 装い続けた勇者という責務で出来た氷の面も、炎のように輝く金赤の輝きに溶け消えた。


 今でも魔王は憎い。妻の無念を晴らしたい。

 しかし優しい妻がきっと誰よりも、自分の未来を望んでいてくれたことを知っている。

 だから途切れさせて終わるより、先につないでいく未来を選び取ってもよいのではないだろうか。


 果たせなかった友との約束を思えばそれも申し訳ないが、自分に全てを託した友は何よりも若い命の未来を望んでいた。

 ならばこれも一つの形だろう。




 これら全て、自分を正当化する言い訳なのかもしれない。




(…………いずれ逝った時……怒られたら、その時謝り倒そう)




 だからこのわがままを、今は許してほしい。




「ああ、本当に。土産話には困らなさそうじゃ」




 そう笑った一人の老人、否。青年は、この時本当の意味で新たな生を受け入れた。






 ……などと一人しみじみしていたが、「さあ!」とばかりに両手を広げてこちらを振り返った少女に目を奪われる。

 その魂の色であるかと錯覚するほど鮮やかな金赤の髪に、未来を見据えて宝石のようにきらきら輝く翡翠色の瞳。それはきっと、今後はもっと多くの人間を魅了していくだろう。

 できればその時も隣に立つのは自分でありたいなどと思いながら、エイリスはアウネリアに歩み寄った。




「行きましょう、エイリス。幸せにするわ、誰よりも!」

「これ。こちらの台詞をとるでないわい」





 こうして婚約破棄前提の付き合いから始まった奇妙な付き合いは、生涯の誓いへと納まった。

 これはそんな二人の、未来へ向かう更なる珍道中の始まりの物語。


 今度この誓いが破棄されるとすれば、それはわしが愛想をつかされた時じゃろうなと元勇者はひそかに気を引き締めたとか。




 













【婚約破棄を前提にお付き合いしてください!】

最終話▷婚約破棄の向こう側

 

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【完結】婚約破棄を前提にお付き合いしてください!~元勇者と元魔王の偽装恋愛譚~ 丸焼きどらごん @maruyakidragon

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