とろけーろ
柚木呂高
とろけーろ
東中野の駅を降りて狭い商店街を抜け、静かな住宅街まで行き着くと、セブンイレブンの横に月に三日間しか開いていない小さな沖縄料理屋があった。元々は土曜日を除いて毎日空いていたのだが、オーナーがお父さんの世話をしなくてはいけなくなったとかで、沖縄に帰ってしまい、それでもお得意さんのために月に三日間開けに来ているというわけだ。
昔の会社の同僚に連れてこられて、それまで出汁の味くらいの料理しかないと思っていた沖縄料理が急に色めいて舌の上を踊るようになったのである。それからというもの、新しい彼女ができたら連れて来る馴染の店になっていた。
ラフテー、島らっきょうの天ぷら、ソーキのバーベキュー、タコライス、豆腐よう、ヒラヤーチー、どれを食べても美味しかった。オーナーは私に目配せをすると、毎回新しい彼女へと言って
特に歴代の彼女たちみんなから好かれていた料理がとろけーろという名の料理で、インターネットで検索しても出てこない、恐らくこの店のオリジナル料理らしかった。恐らくジーマーミ豆腐をチーズのようにして、それを衣を付けて揚げたものがとろけーろだ。味付けはごま油の聞いた出汁醤油で、これが、本当に美味で、この為に店に通っていると言っても過言ではなかった。
あれから随分の年月が経った、女性関係をすっぱりと切り捨てて、孤独に耐えながら日々を生きるようになった私は、あの沖縄料理屋に行く機会がめっきりなくなってしまった。それは禁欲ではなかった、単なる不本意の禁欲主義者というやつだ。歳をとって自慢のスタイルは崩れてしまい、肌は染みが増え、ガサガサと毛穴が目立つ。こんな姿じゃあ、誰だって寄り付かない。そう思って私は自ら女性たちから身を引いた。
だがそれでも時々夢を見る。あのとき付き合っていた彼女たち、インディーロックを好んで聴くバツイチだったハーフのような見た目のあの子、美術大学に通いながら薬の快楽から逃げられなくなったきれいな切れ長の瞳のあの子、人形のように色白で海外旅行が大好きだったあの子、皮肉屋で嫌いなものの共有が何よりも好きだったアイドルのように可愛かったあの子。その他にも色々な彼女たちがいて、それが夢の中で代わる代わる現れて「最近はどう?」などと聞くのだ。私はただ、無為な日々が続いていることを苦笑いしながら答える。他愛のない話、音楽の話、服の話、芸術の話、映画の話、サッカーの話、そうしたことを話しているうちに、これが夢であることに気づく、そして「そうだ起きたら久々に彼女に連絡をしよう、どんな話でもいい、最近は何をしているかとか、家族は元気かとか、子供は怪我なく過ごしているかいとか」と思うのだが、夢の中ではいくら探してもスマートフォンが見つからない。ただ電源の入らないパカパカケータイが転がっていて、これじゃあ誰にも連絡ができないじゃないかと思うのだ。
起きてみるとスマートフォンは静かに私の枕の隣にいる。電話帳を見るともう通じるかわからない電話番号だけが静かに瞬いて、棘のように胸に刺さる。どの面下げて連絡をするっていうんだ。結婚したり死んでしまったりした恋人たちに私の入り込む隙間はない。人間の最も幸福なものは過去の思い出だけだ。
そしてとろけーろの味もおぼろげになっていることに気付く。「モッツァレラチーズみたいだね」と誰かが言った。私はそれだけを覚えていて、あの舌触り、熱々のとろけーろがどんなものだったのかもうわからなかった。「もう一度あの料理を味わえたら、過去の人間が現在に繋がってくるだろうか」などと考えて、私は独り東中野へ向かった。
外は小糠雨が降っていて、駅を降りて傘もささずに私は商店街を歩いた。店の看板や入口から漏れる白やオレンジ色の光が雨の水滴を輝かせる。そこを抜けると灯りがふっと減り、暗闇の中に点々と街頭が点いている。道路に突き当たったら左へ曲がり、中野の方面へ向かって歩いていく。暫く進んでいくと、セブンイレブンがあり、その二つとなりに沖縄料理屋が現れた。開いている。
「おやぁ、珍しいお客さんだ。今日は一人? カウンターでいい?」
「オーナー、やっていたんだね」
「それも今日で終わりさー、もう行ったり来たりするのに疲れちゃって、向こうのお店に集中するよ。だからお兄さんは最後のお客さん。ありゃ、もうお兄さんって年齢じゃなくなっちゃったね」
「オーナーは相変わらず若いね」
人が二人並んで通れないくらいのスペースを通って、カウンター席に腰を落ち着ける。
「残波のロックと海ぶどうととろけーろをお願い。島らっきょうの天ぷらはある?」
「はいよ。島らっきょうは新鮮なのが用意できてないから今日はないよ」
店内には誰もいない、長い時間をかけてこの店は少しずつ名前を忘れ去られていっているように、人々の足が遠のいていった。「月に三日間の営業じゃあね」と呟くと「へっへっへ」とオーナーが笑った。
「最後に来たのはラテン系の顔した彼女とだっけね、あの子は元気なの?」
と気さくに話しかけてくる。別れた彼女の話なのに自然でどうにも憎めない聞き方だった。
「別れたけど、そのあとすぐに結婚したみたいだよ。金を借りていたんだけれどね、返せるアテがなくて、私はうつ病だから死ぬときゃ死ぬから、そしたら保険で返すって言ったらね、印鑑付けて証明書を書けって言うんで、嫌になって連絡先を消しちまった」
泡盛の残波と海ぶどうが目の前にスッと出て来る。琉球ガラスの厚いグラスを持ってその香りを嗅ぐ。近頃は酒も飲まなくなっていたから何だが既に懐かしかった。グラス越しにゆっくりと伝わる冷たさを手のひらに感じながら一口飲む。空腹の胃に沁みるように立ち消えていく。
「お兄さんならまた可愛い彼女できるさ」
「こんな醜くなっちまって、私はもう無理だよ、ドン・ファンは引退だ」
「男は中身がありゃいいよぉ」
中身なんてありゃしない、良い服に身を包んで香水の匂いを纏っていただけの中身が空っぽの男が私だ。昔の私には根拠のない自信があったが、それがなくなった途端、道に立つのが怖くなった。人々の目に触れ、比較されて、選り分けられる。人生はそう言ったものに常に晒されていると気付いたときには恐ろしくなって、私は逃げた。恋愛からも社会からも。
やがてとろけーろが出される。香ばしいごま油の香りが鼻腔をくすぐった。私は期待に胸を膨らませて一つを半分に割り、口に運んだ。期待していたプルースト効果は得られなかったが、サクサクの衣を割って出てくる滑らかな口当たり、尾を引くような濃厚な味わい、全てが記憶以上の美味であった。そしてこの味が未来永劫、私の恋人たちの関係を過去に閉じ込めたことを知って涙した。
「イイ男は泣いても絵になるさ。ずっと辛かったんだねえ」
「辛くない。ただ寂しくなっただけだ。とろけーろが温か過ぎるせいだ」
「新しい彼女を紹介してもらえなくなるのは寂しいけれど、最後のお客さんがお兄さんで良かったよ」
美しい娘たちは、ある者は道半ばで倒れその美を永久に保存し、ある者は結婚して丸々と太って、子どもたちを相手に忙しくしている。いいさ、忘却の向こう側へ走っていけ、時間が進む限り我々の距離はどんどん遠のいていく、そしてお互いが知らないところで人生を終えるのだ。この美味い食い物もいずれ名前を忘れられて、インターネット上でも見つからなくなる。しかし愛することを忘れることはできない。過去は過去になってもそれは連綿と続き未来へと収斂する。美味いもんにノセられて私はまんまと人を希求する。人が人を求めるときに人生は動き出す。
「古酒飲むでしょ? 前祝いだよ」
「頂くよ」
「へっへっへ」
いずれこの味を思い出せなくなっても、娘たちの顔を思い出せなくなっても、切ない夢に魘されても、いずれ全てが崩れ砂となっても、この人生で持って帰れるものは全部持って帰って、死ぬときはそいつをギュッと抱きしめるんだ。
とろけーろ 柚木呂高 @yuzukiroko
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