悲しみのないお葬式

野守水矢

悲しみのないお葬式

昼休み、勤務先でお弁当を食べているとき、母から電話があった。

「良子、驚かないで聞いてね。お父さん、死んじゃった」

 今朝、玄関で転んで頭を打ったと言う。

「なんで、すぐに電話くれなかったのよ!」と、卵焼きを頬張ったまま問い詰めても

「花瓶が落ちて、水が百日紅。それで美容院の心配が警察は炎症で不孝者」と、気が動転しているのか要領を得ない。


 想像するに、玄関に飾ってある花瓶が何かの拍子に落ちて水がこぼれ、父が足を滑らせたということか。心肺停止で病院に搬送されたが、警察の現場検証で、不幸な事故だとの結論になった。まあ、こんなところだろうか

 それにしても、柔道で鍛えた父が、受け身もしないで転倒するとは驚きだ。昨夜は飲みすぎたのだろうか。

 私は「すぐ帰るから」と電話を切った。


 自宅まで車で三十分。これほど赤信号を長く感じた日はない。トントンと人差し指でハンドルを叩いて、信号が変わるのを待った。

 瓦葺きの門を車で抜けて屋敷に入り、表玄関の前で急ブレーキを踏んだ。家の中に飛び込むと、母は上り框に腰掛けていた。

「お母さん、大丈夫?」と、声をかけると、母は放心したような、それでいていくぶんほっとしたような、緩んだ表情を見せた。


 祖父が施設から、車椅子で帰ってきた。座敷に上がるなりすぐに、戒名は、祭壇は、日取りはと、葬儀の準備を差配しはじめた。

 我が家は旧家だ。格式が大切なのはわかるが、祖父は少しも動揺を見せない。悲しくないのだろうか。


 私は、悲しくなかった。わが家は旧弊に囚われた家で、今でも男尊女卑が甚だしい。例えば、弟は底辺校とはいえ東京の大学に行かせてもらったが、私は「女が大学に行ってもロクなことはない」と高卒で就職を強いられた。誕生日のお祝いにまで差をつけられた。顔には出せなかったが、子供の頃、嬉しいことは一つもなかった。


 祖父は葬儀社を呼んで、通夜は今夜、告別式は明日の午前、場所は自宅、と決めた。

 銀行員が来て、レンガほどの大きさの段ボール箱を、一つ置いていった。当座の現金だそうだ。段ボール箱は、祖父が預かった。


 弟は母との電話で、葬式には出ないし家にも帰らない、と「喪主をやれ」という祖父の命令を一蹴したらしい。弟も、父の死を悲しんでいないのだろうか。

 祖父は激怒して「長男が喪主をしないとは、何ごとか!」と、母を一喝した。母は小さな声で「申し訳ありません」と頭を下げた。


 結局、弟に電話する役目は私に回ってきた。貧乏くじを引くのは、いつも私だ。

 私は弟相手に、祖父の考えを伝えた。

「長男が喪主をするのは、当たり前だって」

弟は「バチが当たったんだろ、ザマアミロだ」と、吐き捨てた。「喪主なんて、誰がしてやるか。それに、うかつに出歩いて、奴らに見つかりたくねえしな」


 なんだ、この弟らしくない言葉は。滑り落ちそうになったスマホを、汗まみれの手で、かろうじて握りしめた。

「奴らって誰? 見つかりたくねえって何? 何か悪いことしてるの。ちゃんと大学行ってる? 毎月、仕送り貰ってるんでしょ」

「うっせえな。大学は辞めたよ。仕送り? ケチくさいこと言うなよ、大金持ちなんだから。金はな、いくらあっても足りねえモンなんだよ」

 これだけ言って、弟は電話を切った。


 それから十分ほどして、弟から電話があった。

「やっぱ行くわ。香典集まるんだろ」

 うって変わって落ち着いた声だった。

 香典を盗みに来ようというのか。今の弟は、私の知っている弟ではない。


 旧家の体面を重んじると、葬儀は豪華になる。お布施と戒名料だけでそれぞれ数百万円。葬儀社への支払いや精進落としの酒肴も百万円単位だ。参列者は多いだろうし、香典も高額だろう。一日に動く現金は、低めに見積もっても一千万円を超えるだろう。

 弟には、絶対に盗ませてはならない。私は段ボール箱を紙の手提げ袋に入れて金庫に移し、鍵を座敷の文箱に隠した。明日は、香典も金庫で保管する。


 深夜、通夜も終わったころ、弟が裏木戸から帰ってきた。目立たない黒灰色のシャツ姿で、何かに怯えている様子だった。

 翌日、葬儀は順調に始まった。ところが終盤、いよいよ次は喪主挨拶という段になって、弟がいないことがわかった。参列者の一人が、荷物を持って出ていくのを見た、という。


 両脇に、冷たい染みが広がった。祖父の車椅子を押して金庫を確かめに行った。空っぽだった。祖父は「家の恥は外に出すな」と、口止めした。私は何も言わずに従った。


 暗くなってから、私は自分の車を確かめに行った。トランクの奥に、現金を詰めた大きな紙袋が確認できた。

これぐらい許されるわよね。さんざん差別されてきたんだから。私は無言でほくそ笑み、静かにトランクを閉めた。さて、これからどうしよう。後の計画は考えていなかった。まずは、車を移動させないといけない。


 それにしても、不思議なほど悲しむ者のいない家族だった。悲しんだのは母だけだったのか。

 このとき、一つの疑問が頭に取り憑いた。母も、ほんとうは悲しんでいなかったのではないだろうか。もしかすると、父を転倒させたかもしれない。母もまた、この家の女だ。ずっと感情を殺して耐えてきたはず。動機もあったし、機会もあった。

 証拠はない。まさかとは思う。でも、ひょっとしたら、とも思う。

                           (了)

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悲しみのないお葬式 野守水矢 @Nomori

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