第2話 疑心暗鬼


「ただいま。」


「おかえり。」






長い髪を一纏めにする彼女は目を合わすことなく手元のお鍋を混ぜていた。今日はカレーか。スパイシーな香りが部屋中を占拠する。カレーの匂いは食欲を掻き立てる最上の料理だと思いながら、火を止めてバタバタと動く姿を横目に手を洗った。






「私、行くね。高校の後輩が相談したいことがあるらしくて。」


「そう、」


「うん、ごめんね。」






今日は後輩か、と思いつつ嗽をする。



一昨日は学生時代アルバイトしていた店の同期だった。その前は通ってる英会話教室のクラスメイト、もう一つ前はいとこ。そのもう一つ前は友達。あれ、英会話教室がいっこ前だったっけ、ん?あれ、どっちだ。お母さんとか妹、妹の彼氏ってのもあったな。次は誰辺りでくるんだろう。職場の同僚とか?まぁ誰でもいい。こんな状況でも呑気に考えられる俺は相当、麻痺している。







「今日はあなたが好きなカレーよ。ご飯も炊けてるし、好きなだけ食べて。あと、冷蔵庫にこの前作ったポテトサラダもあるから、よろしくね。」


「......、」





百貨店のような香りを身につけ、髪はくるくる綺麗に巻く。薄ピンクのブラウスは胸元が大胆に開いて、黒いタイトなミニスカートからは彼女の脚がすらりと伸びる。酷く下品な服装で後輩に会いに行くんだな。ヒールのストラップを留める彼女をボーっと見つめる。そんな高いヒール履いたら転ぶぞ。






「...なぁ、」





ヒールを履き終えた彼女の腕を掴み近付けると本能的に置かれる距離。なに?と尋ねる彼女は、少し驚いてはいるものの瞳は冷たく視線も合わせようとしない。かろうじて口角は上がっているものの無表情で。営業スマイルは職業病か、そんな彼女に苛立って力づくで唇を奪った。







「なに、もう...、」


「気をつけて、」


「...、いってきます。」










強めに振り払われた腕がだらりと行き場を失った。













彼女との距離が生まれたのは、半年前。



彼女が俺の前で笑わなくなったのも同じくらい。



+




大学のゼミが同じで付き合い始めた俺たち。

大学卒業後、俺は教員、彼女は大手メーカーの受付嬢へと就職した。


お互いに会う時間が減るからと同棲を始めて、特に喧嘩をすることもなく平凡に毎日を過ごしていた。家に帰ると暖かいご飯が待っていて、そこに大好きな彼女がいる。いつだって1人じゃないんだという安心感。同棲は想像以上に良いもんだ。



そんな矢先、彼女が急に華やかに、下品に、そしてちょっぴりよそよそしくなった。



受付嬢という職業柄、身なりに気を遣っていた彼女だけれど、それ以上に何かが変わった。それは、きっと内面から出る女性ホルモンとかそんなもん。鈍感な自分でさえ気付くほど。そしてよく出掛けるようになった。



数ヶ月前、彼女が入浴中に鳴ったスマホ。

別に見るつもりはなかったけど、自動ポップアップで表示された画面を反射的に見てしまった。その一瞬の行為が数秒後、後悔する羽目になる。



“じゃあ、また明日。愛してるよ。”



なんて陳腐で低俗なメッセージだ。



「...............、」



遠くでシャワーの音がする。



積り募った不信感は確信へ変わった瞬間だった。



+




「ないし、」




冷蔵庫にはポテトサラダなんて入っていない。



きっと例の低俗男の冷蔵庫にでも入っているんだろう。



ポテトサラダは、彼女の得意料理で何か一品足りない時にいつも作ってくれていた。多分その低俗男とやらに最近作ったんだろう。



隠すなら隠し通せよ、へたくそと舌打ちをした。






「まぁ、いっか、」




作って貰ってるだけ、有難い。



前向きに捉え、カレーライスを胃に流し込む。



味に申し分はないから、余計に空しくなる。





無音は寂しくて、適当につけたテレビからはお笑い芸人が浮気していることを冗談交じりでいじられ、ボケながら否定し、最後は自分の持ちギャグでその場を笑いに変えていた。...ちょっとタイムリーだ。笑えない。



あれはいつだったか、前に一度名前を呼び間違えられそうになったことがあった。途中で言い直したけれど、あれは明らかに違う名前を呼び掛けた。あの頃から既に俺は彼女の中から消えかけていた。







「っ、」







機嫌を取るように買ってくるお土産も、知らないうちに綺麗になっていく姿も、俺ではない誰かに触られている身体も、何もかもが嫌になる。




どうして彼女は、俺と付き合っているのだろう。



俺は、そこまで寛容な男じゃない。



嫉妬に狂うことはないけど、気分は頗る良くない。






そんな彼女が作ったカレーをかき込むように流し込んで、無心で食器を洗う。









パリーン、ッ!!








勢いあまって手から滑り落ちたお皿は大袈裟に音を立てて、無残に割れる。










ダメだ。







俺は彼女を信じられない。





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