ウェイクアップ・ロボットブラザー
探したぞ。
明りもない自宅の片隅で抜け殻のようにうずくまるあたしに、じいちゃんは叱りもせずに隣に座って相変わらず何も考えてなさそうな声を掛けた。
どうした、という問い掛けに、あたしは何もうまく言えなかった。ただ、怖かったとだけ答えた。
「怖くて、わかんなかった」
「そうか」
ゆっくりと頷いて、じいちゃんは控えめにこちらを覗き込みながら言った。
イツキ坊に、何て言えば良いかわかんなかったんだな。
思わず振り返るとじいちゃんと目が合って、その穏やかな目に全てを見透かされた気がしてあたしは呆けたように頷く。
まるで回答の体を成していなかったあたしの言葉から、じいちゃんは驚くほど正確に意図を汲み取って、それがあまりにも見事に図星で、まるで魔法のようにさえ思えたので、あたしはそのままじいちゃんが何もかもを解決してくれる魔法の一言を口にしてくれるのではないかと期待したけれど、じいちゃんはそれ以上何も言わずにただあたしの肩に優しく手を回しただけだった。
こんな風に抱き締められるのはいつ振りだろう。
事故の日の真夜中。そうだ。あのときはあたしが目覚める側で、何が起きたかを伝えなければならなかったのはじいちゃんだった。ほとんど覚えていない三年前のあの日から、あたしはずっと支えられて生きている。あたしに寄り添い導くその温かな腕に抱きすくめられて、あたしはあのとき気付かなかった傷痕の存在にようやく気付いた。
「じいちゃん、この傷……」
「ん? ああ、前に怪我して、肺半分取っちまったときの」
「じいちゃん、半分肺無いの?」
「右の肺の半分だから、四分の一だな」
二の腕から続くその酷い縫い痕はむしろ胴体の方こそが大元のようで、目を凝らせば腕だけではない、首元や胸のあちこちにも縫い傷の痕が見え隠れしている。こんだけじゃないぞ、とじいちゃんは上着を脱ぎ捨てて、大きな縫い痕の全てを服を捲り上げて見せてくれた。
うっかり死ぬとこだったってよ。当たり前に笑う祖父の晒した身体にあたしは息を飲む。健康そのもので、怪我や大病とは無縁の人間だと思っていた祖父の身体は、改めて見ると過去に刻まれた無数の傷痕で覆われていて、あたしはその壮絶な傷痕の一つ一つに目を奪われる。
「でもまあ生きてりゃみんなそんなもんだ」
じいちゃんはそう言って笑い、いつものように、何でもないことのようにあたしの頭を撫でた。
あたしはどこか、サイボーグでないじいちゃんは、これまで何も失わずに生きて来れた人間なのだとそう思い込んでいたのだと気付く。
傷も、欠落も、後悔も苦悩も、この人には届くことなどなかったと、だって、いつだって笑って、強い人なのだからと勝手に思い込んでいた。そんなはずはないのに。
目を覚ましたときのことを思い出す。
あたしが失った父だった人はこの人にとっては子供で、辛くないはずも、苦しくないはずもなくて、それでもこの人はあたしに、それが何でもないことのように寄り添っていてくれたこと。
「あたし、行かなきゃ」
立ち上がるあたしに、じいちゃんはそうか、と満足そうに頷いて笑った。
財布さえ持たずに、靴だけ履いて閉じ切らない玄関戸を背に置き去って、農道を駆け下り凸凹の舗装をひた走り、宅地の隙間を息を切らせて点き始めた街灯の光と影を突き抜けて、月はまだ満ち足りずに低い位置を漂っている。はち切れそうな心臓は少しも弱音を上げやしなくて、あたしはギアを上げて一足飛びに駆け続ける。
じいちゃんも、ばあちゃんも、ふみ子もハゲの担任だって、すれ違った道行く大人たちのきっと誰もが、あたしよりも長く生きたぶんあたしより多くを失った人たちで、他にもきっと数えきれないほどの人々が、もっともっと途方もないものを失って。誰もが。欠落を抱えて世界は回っている。
欠けたものは戻らない。どんなに精巧に模した機械で補ったところで、失う前と同じではない。それでも生きるために皆はそれを当たり前に飲み込んで、あるいは目を逸らし、そうやって世界は回ってる。
あたしにはイツキの失ったものを埋めてやることはできない。受け止め切れるかもわからない現実をどうすることもできない。ありのままを伝える他はない。けれど掛ける言葉がないからこそ、寄り添って抱き締めてやらねばならなかったのだ。
だってあたしはまだ、イツキを失っていないのだから。
病院の大きな建物はいつも通りにそこに佇んでいて、夜の暗さの中やけに白さが浮かび上がって見える。正面玄関を潜り、エントランスを抜け、一般病棟から療養病棟、病院という場所は踏み込むほどに臭いを増す。それは欠落の臭いでありあるいは喪失の臭いだ。重症心身障害児病棟へ続くエレベータは、一般病棟へ続く入り口に程近いエレベータホールとは別の、奥まった場所にしか存在しない。
その複雑な道筋を迷いなく進める程度にはこの場所はあたしにとって日常になっていて、この町も、我が家も、祖父と祖母ももうあたしにとって当たり前の居場所になっていた。
弟は違う。これからイツキが目にするのは知らない天井で、知らない医者で、窓から見えるのがたまの休みに何度か連れて来られたことのあるじいちゃんとばあちゃんの家のある町だとわかるはずもない。
あたしは、あたしがとっくに飲み込んでしまった痛みにどうやって寄り添えるだろう。不安は尽きることなく付き纏い、恐怖も怯えも、逃げ出した時と変わることはない。それでもあたしは行かねばならなかった。
弾む息と汗を整え、エレベータの階数表示が到着を告げた。扉が開いた通路の先、角を曲がり、一番端に目指す病室がある。
あたしだけだ。あたしだけが、イツキから欠けなかった日常で、だからあたしが隣に居なきゃいけない。ベッドの上、イツキはいつものようにあどけない寝顔を晒して、あたしもまたいつものようにパイプ椅子を広げて腰を下ろす。
いつも通りに笑えるだろうか。欠けたものは癒えず、痛みは消えず、それでもあたしは何てことはないさ、と隙っ歯を晒すジジイを真似た。
どうかあたしが、弟にとっての救いになれますように。
あたしは手を取り、起きなねぼすけ、と声を掛ける。
〈ウェイクアップ・ロボットブラザー 了〉
ウェイクアップ・ロボットブラザー 狂フラフープ @berserkhoop
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