あたし・カミング・アンド・ゴーイング

 イツキが目を覚ましたとき、あたしは何と声を掛ければいいのだろう。

 おはよう? 目を覚ますのは夜中かもしれない。元気だった? それも違う。良かった? おめでとう? あたしはそうだ。イツキが目を覚まして良かったし、こんなにめでたいことは他にない。そして弟は何と答えるだろう。

 何がめでたい? 何が良かった? あの日の夜に時間の止まった弟にとって、この目覚めは何ひとつ喜ばしくなどない。良いことなど何もない。

 何も。

 あたしはどう伝えればいいのだろう。

 あんたが楽しみにしていた運動会も、あんなに羨ましがっていた修学旅行も、卒業式も入学式もとうの昔に過ぎ去ってしまったこと。あんたの十一才と十二才と十三才と、いくつかの内臓とクラスで一番速かった足と父さんと母さんが永遠に失われてしまったこと。

 イツキが微かに身じろぎするのを目の端で捉えて、あたしはようやくそれがどんなに恐ろしいことか気が付いた。

 あたしは三年経った。

 傷は癒えることはないけれど、それでもそれはふとした瞬間には痛みを忘れていられるような古傷で、けれどこれから目覚める弟にとって事故の前、楽しかったあの頃と今日この日は地続きで、事故の後に一度も目を覚ましていないイツキは、まだ何も失っていない幸福な夢の中に眠っている。

 これからなのだ。

 二度と抜け出すことは出来ないと感じたあの深い深い穴の底は、いや、あたしが居たよりももっとずっと深い場所は、これからこれから弟が追い落とされる場所なのだ。

 あたしの手を握る弟の掌に力が入るのを感じた。僅かに睫毛が震えて、眠りが浅くなっているのかもしれないと気付いたその瞬間に、自分でも驚くくらい強張ったあたしの手は、それを握り返すことが出来なかった。

 ああ、

 これは恐怖だ。

 手を掴まれ、逃げ出せないまま目を覚ますかもしれない弟に、あたしは恐怖で竦んで動けなかった。

 逃げ出せないまま?

 今この瞬間自分が抱いている感情が、この場所から逃げ出したい、なのだと自覚した瞬間、その気持ちは抑えきれない程膨らんであたしの全てを押し流しそうになる。抗うことはできない。あたしをこの場に繋ぎ留めているのは、ただあたしの手がイツキの掌に握り締められているという事実だけだった。

 イツキはまだ目を覚まさない。ただの反射に過ぎなかっただろう掌から力が抜けて、あたしの手が自由になったとき、あたしの脚は竦んだまま後退り、弟を置き去りに逃げ出していた。


 *


 病院の近くの公園のトイレで、目覚めた弟に掛ける言葉を頭の中で何度も何度もやり直す。その度にあたしの口は救いのない言葉を吐き出した。

 あんた今日から特一級サイボーグだよ。

 イツキは小学生のままのメンタルで、その言葉を喜ぶだろうか。あたしと同じく休み時間と放課後永遠と続くサイボーグマウントバトルに負け続けてきた弟はきっと、あたしがそうだったのと同じようにサイボーグというものに薄ぼんやりとした憧れを持っていて、けれどそれが意味する本当のところが我が身に降りかかったとき――

 あんたサイボーグよ。

 投げ掛けられるそんな言葉の残酷さと無神経さは、どんな風に弟の心を引き裂くだろう。こんなに酷い言葉はきっとこの世界に他にない。けれどそれは現実だ。どう目を逸らしたってイツキの身体はもう、無数の欠損を無数の機械で埋め合わせた代替物の塊なのだ。

 人は誰しもが欠けたものを補って生きていて、今はそれをサイボーグと呼ぶ。

 ふみ子のゲーミング膝関節、担任のヅラ、クラスメイトの歯列矯正具、あたしの近視用眼鏡。みんなみんなサイボーグ。これぽっちもサイボーグでない人間なんてうちのジジイとばあちゃん以外見たことがない。

 この世界はあちこち何もかもが欠けていて、誰もが必死にその穴を塞いで生きている。けれどいつかはどんな機械技術でも補うことのできない大きすぎる欠落があたしたちを襲う。あの日無数の機械に繋がれても助からなかった父さんと母さんのように。

 いつかって? あたしにとってはいつかだろう。今日でもなければ明日でもない、カレンダーに書きようのないいつか。十年後よりも二十年後よりも曖昧ないつか。

 でも弟にとってはもうすぐそこだ。

 立ち上がればきっともうあたしより大きい、けれど小さなままの弟が、どうやってそれを受け止められるというのだろう。

 誰かが、何かが補ってくれたならいいのに。

 いくつもの機械が足りなくなった臓器の代わりにイツキを生かしてくれているように、あの子の頭の中に足りない真実を、あたしが伝えることのできない真実を、代わりに補ってくれる機械があったならいいのに。

 それが叶わないなら、いっそ、このままずっと、弟が目を覚まさずに、傷付く心などない機械のように――


 それは、あたしが決して抱いてはいけない想いだった。

 込み上げる耐えがたい吐き気が、口にしてはいけない言葉の代わりに胃の中身を吐き出してくれるのが嘔吐の苦しみよりずっとあたしにとって救いだった。


 *


 あたしが産まれる少し前ぐらいまでは、サイボーグという言葉はもう少し物々しい、たとえば映画や漫画の中でしか使われない言葉だったそうだ。

 それが今のような使われ方をし始めたのは人工臓器や代替四肢の普及に合わせた法整備に伴うもので、物語に追い付いた現実へ輸入されたその呼び名は、これまでサイボーグなどと呼ばなかった身近な全てに向けられるようになった。

 あたしもサイボーグ。

 でも思い切り泣くときはサイボーグを止める。義体化比率1%のあたしはその1%の近視用眼鏡を外す。夜とお風呂と止めどなく流れる涙が降り止むまでの間だけ、あたしは生身の人間に戻る。

 あの事故であたしが唯一失った肉体機能。少しの視力。この輪郭を欠いた世界を見るたび、失ったものをその隙間に幻視するような気がする。

 十一才と十二才と十三才と内臓と足と父さんと母さん。

 あの日あたしがわがままを言わなかったなら、失われることのなかったイツキの、目が覚めれば一遍に失う掛け替えのない心の一部分。


 誰もが失くしたものを補って、道具や機械で足りないものを付け足し埋め合わせサイボーグとして生きるこの世界でも。

 あたしたちは未だに、心まではサイボーグになれずにいる。

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