三人の司令官[後編]
『失礼、レディ。ハンカチを落とされましたよ』
『――.――,――』
おそらく言葉は通じないだろうという予想は当たっていたが、女性はしなやかな指でハンカチを受け取る。淑やかなカーテシーのあとに上げられた顔には、温かな微笑みが湛えられていた。
言葉が通じずとも、心の美しさが表れているようだった。
……――
星が目を覚ますと、すでに窓の外は夕暮れだったが、体を起こせるまで回復していた。頭はまだ少々重い。明日の朝まで寝ていれば、出社できるまで回復できるかもしれない。
控えめなノックのあと、ドアの隙間からレディが顔を覗かせる。星が起きた気配を感じたようだ。
「お加減いかがですか?」
「もう少し寝ていれば回復できそうです」
「それは何よりです。食欲はおありですか?」
「あんまり……。今日は何も食べないでおきます」
「承知しました。先ほど、惣田さんと青山さんからお見舞いのお申し出がありました。ビョーニンショクをお持ちくださるそうです」
「病人食か……」
確かにレディさんの手料理は刺激が強い。惣田と青山が来れば賑やかなことになりそうだが、栄養のあるゼリーでも持って来てくれればありがたい。食欲はなくても、そういった物なら摂取できる。惣田は怪しいところだが、きっと青山はそういった気遣いができる人種だろう。見舞いを断る理由も特にない。そのうち、惣田の賑やかな声が聞こえてくるはずだ。
「惣田さんと青山さんがご到着されたら、また起こしに来ます。それまで、もう少しお休みになっていてください」
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせてもらいます」
再びベッドに横になると、美しい夢の光景が瞼の裏に浮かぶ。あの女性がレディで、話しかけているのが曾祖父だろう。レディの姿はぼんやりとしか見えなかったが、きっといまと変わらず美しい女性だったのだろう。
* * *
鷹野宅は最寄り駅からさほど遠くない。途中でコンビニに寄れば、レディがそろそろ星を起こしているかもしれない。連絡もなしに見舞いに行くほど、惣田も青山も礼儀知らずではなかった。
「……惣田はいつから鷹野くんと知り合いだったんだ?」
青山の頭に、凛子の言葉が引っ掛かり続けている。凛子とそういったやり取りをしたことを知らない惣田は、不思議そうな表情で青山を振り向いた。
「大学のゼミが同じだったが、鷹野はいつもひとりでいたな」
「その頃も他人に対して警戒していたのかな」
「いまはだいぶマシになったほうだな。あの頃の鷹野だったら、お前に話しかけられても無視してたと思うぜ」
「社会人になったことである程度のコミュニケーション能力は身に付けたってことか」
「そうだな。あとは、まあ……」
そこで、惣田は言葉を選ぶように口を噤む。惣田にしては珍しく、深く思考を巡らせているようだった。
凛子が青山に打ち明けた勘が合っているなら、さすがの惣田でも口を軽くするわけにはいかないだろう。凛子の話は推測でしかないが、星の心の壁は高すぎる。学生時代の星に何かが隠されていることは間違いないだろう。
「……まあ、鷹野はお前みたいなタイプが最も苦手だからな」
「それは……僕が思っている意味で?」
「概ねその通りだろうな」
惣田は声を立てて笑う。青山の真意をわかっているのか、わかっていないのか。惣田はそういった点を隠すのが妙に上手かった。
「だから、鷹野がお前に心を開くとは思わなかったぜ」
「開いてはいないんじゃ……」
「心を開いてなくちゃ、大事な少女たちと俺らを会わせることはなかったと思うぞ」
「それはまあ、そうかもしれないけど……」
惣田がそう考えるならその通りなのかもしれないが、青山には、星が自分に心を開いているという実感はない。いまだに敬語が取れていないからだ。利用できるだけしようという意図ではないだろうが、それとこれとは話が別のように思えた。
「まあとにかく、鷹野が回復していることを祈ろうぜ」
「そうだね。少女たちも心配しているだろうね」
「俺たち以上だろうな」
レディのメッセージでは、少女たちはいつも通りに過ごしているとあった。過剰に心配することは星も望んでいないだろう。いつも通りに過ごしていたほうが安心できるというものだ。
* * *
控えめなノックでまた目を覚ます。外はすっかり暗く、スマートフォンに触れると「19:32」と表示された。体を起こすと、レディがドアの隙間から顔を覗かせる。ドアの向こうから話し声が聞こえた。
「お加減いかがですか?」
「もうだいぶいいです」
「それは何よりです。惣田さんと青山さんがお越しですよ」
「はい」
寝間着は汗で湿っている。時折、少しだけ目を覚ましている時間があった。そのときは発熱している自覚があり、随分と汗をかいたようだ。いまは熱が下がっている感覚がある。体調も良くなっているのを感じた。
星がリビングに出て行くと、おっ、と惣田が軽く手を挙げる。
「鷹野。元気そうではないが、顔色はだいぶ良くなったな」
「ああ。今日はずっと寝ていたから」
「回復してよかったよ」
『司令官!』
耳を突き抜けるような声にホーム画面を振り向くと、ポニーが興奮した様子で笑顔を浮かべていた。
「やあ、ポニー。どうかしたか?」
『司令官がそろそろ起きられる頃だとレディ様から伺っていたので、寝起きドッキリを仕掛けてみました!』
「寝起きドッキリだったか……。まあ、寝起きではあるが……」
『回復されたようで何よりです。みんなも待っていたんですよ』
「心配をかけてしまったかな」
『それは当然ですね!』
ポニーはあっけらかんと笑う。「そんなに」と言われるよりはるかに気が楽だった。
『けど、病み上がりですので、私はこれくらいで下がらせていただきます。みんなにも司令官のお目覚めを伝えておきますね』
「うん、ありがとう」
『では、また明日! 失礼します!』
深々と辞儀をしてポニーは去って行く。基地との通信が切れると、レディが三人の前に湯呑を並べた。頬杖をつく惣田と、背筋を伸ばす青山を見ていると、テーブルはもう少し大きい物のほうがよかったかもしれない、と星はそんなことを考えた。星は自分に合ったサイズの物を選んだだけなのだが。
「ポニーちゃんは鷹野くんにとって回復薬みたいなもののようだね」
「元気のお裾分けだな!」
「あの声で元気にならないほうが不思議なんじゃないかな」
「ポニーは一番に心配していましたから。ずっとそわそわして待っていたのですよ」
「そうですか……。明日はみんなに会えるといいんですけど」
「きっと会えますよ」
「そうだ、鷹野くん。これ」
青山がおもむろにお菓子の箱を差し出した。レディが雑談配信のときに気に入っていたアイシングクッキーの「ピッケ」だ。
「これは?」
「若林さんから。昨日の配信を見てたみたいで、心配してたよ」
「そうですか。あとでお礼を言っておきます」
凛子とはいまは班が違うが、いまだに何かと気にかけられている。いまでも星を「小動物っぽい」と思っているのだろうか。ピッケを差し入れたということは、雑談回の頃にはすでに配信を見ていたらしい。教えたことはないが、星は以前から顔出しをしている。ワンガル配信より以前から見ていたのかもしれない。
「なんにしても、鷹野が回復してよかったよ」
「鷹野くんの電話にレディさんが出たことで、部署内がなんとなくざわついてたよ」
「そうですか。レディさんが連絡してくれたんですね」
「ずっと電話が鳴っていましたし、星さんは動けそうにありませんでしたから」
「ありがとうございます」
配信のことを知っていたとしても、実際にレディが星の家にいることまで想像が及んでいない社員もいるだろう。異世界の女神が部屋にいるなど、信憑性の薄い話だ。レディとの関係を邪推する者もいるかもしれない。そうだとしても、星はまったく気にならないのだが。
「次のダンジョンは『月影の魔宮』だな」惣田が言う。「俺と青山である程度の作戦を練ってある」
「ああ、ありがとう」
「明日は配信をするのかな」
「どうでしょう。体調が万全になっていたらやると思います」
レディとの作戦会議はまだできていないが、次に攻略に向かう「月影の魔宮」についての情報はなんとなく頭に入れてある。月影の魔宮は最後の低級ダンジョンだとレディが言っていた。それ以降のダンジョンは中級以上になるのだ。上級まであると考えると、より精度の高い戦略が必要になって来るだろう。
三人が星のために用意した資料を取り出したとき、ピンポーン、と軽やかにインターホンが鳴った。さすがに家主が出るべきだろう、と星は立ち上がる。カメラに映し出された人物に、星は警戒することなくドアを開けに向かった。
「よう、星。顔色が悪いな」
それは星の兄――
「どうしたの、兄ちゃん」
「近くに来たんで寄ってみた。ばあちゃんが心配してたしな」
祖母は配信を見ていたのだろうか、と星は考える。しかし、実家を出て以来、祖母はよく星の心配をしている。空が星の様子を見に来るのはよくあることだ。一人暮らしをするには、星は頼りないのだろう。祖父母は星の父、兄と兄の嫁と暮らしている。母は若い頃に病気で亡くなったが、父はいまだ溌剌としている。心配する祖母とは対照的に「これも経験だ。駄目だったら戻って来い」と豪快に笑っていた。
「恵那さんは?」
「まだ仕事してるんじゃないか? プレゼンの資料が終わらないって嘆いてたからな」
空は遠慮なくリビングに上がって行く。いつものことであるため咎めることはできないが、いまのリビングはいつも通りではない。惣田や青山はともかく、レディがいるのだ。空が配信を見ているとは限らないが、見慣れない女性が部屋にいるということに空が触れないはずはない。
「お、惣田。久しぶりだな」
「どうも」
「きみは星の部屋では初めて見る顔だな」
「同期入社の青山です。鷹野くんにはお世話になっています」
「星の友達にしては珍しいタイプだな」
さすが星のことをよくわかっている兄は、青山の人間性を一目で見抜いたらしい。青山は困ったように笑っている。
「で? いつも一緒に配信してるレディさんはどこにいるんだ?」
空が室内を見回す。やはり配信は見ていたようだ。しかし、レディはテーブルの惣田の向かいに着いている。空の視界にも入っているはずだ。
星がレディを見遣ると、レディは両手で頬杖をついてにこにこと微笑んでいる。どうやら、空にレディは見えていないらしい。
「いまは少し出てるんだ。いつ戻るかはわからないけど」
「ふうん。会ってみたいが、俺ももう帰らないといけない。恵那も仕事をしているなら、そろそろ帰って来るだろうしな」
「そう。じゃあ、恵那さんによろしく」
「ああ。お前も回復したならSNSで報告したほうがいいぞ」
昔から変わらない、少し胡散臭さをはらんだ爽やかな笑みで空は去って行く。青山に苦手意識を持っているのは、きっと兄の影響なのだろう。
「相変わらず嵐みたいな人だな」
惣田が感心したように言う。こうして空が星のもとに顔を出すのはよくあることだが、いつもお茶を出す前に帰って行く。おそらく祖母が心配するので顔を見に来るのだろうが、兄も忙しい。実家からこのアパートは少し離れている上に、下りの方面だ。のんびりしていれば、本数の少ない下り電車を逃すのは簡単なことだ。
「兄にはレディさんが見えていなかったんですね」
「はい。私は、私の存在を認識する人にしか見えません」
「じゃあ、見えていない視聴者がいる可能性があるんですか?」
「いえ。配信では星さんが私をその場にいるものとして扱っていますので、すべての視聴者に見えていると思いますよ。お兄様は配信では私の存在を認識していますが、実在すると思っておられないのでしょう」
「なるほど……。じゃあ、惣田と青山さんがレディさんを実在すると思っていなければ、ふたりにも見えなかったんですね」
「はい。女神とはそういうものです」
星はテーブルに戻りながら、なぜ自分は初めからレディが見えていたのだろう、と考える。おそらく、曾祖父との縁があるからなのだろう。レディはもともと星と同じ世界の人間の女性として存在していた。それも、百年内だ。それが異世界で信仰を集める女神となったのだから、世界にはいまだ解明しない不思議も存在しているようだ。
「惣田はともかく、青山さんもレディさんが実在すると思っていたんですね」
「そうだね。鷹野くんが作り話をするとは思えなかったからね」
「……いい加減、俺が貸しにしてることを返してもらっていいですかね」
「うーん。すべてのダンジョンをクリアしたら返すよ」
「じゃあダンジョン攻略の功績でチャラですね」
「そう来たかー」
自分の何が貸しになっているのか星は覚えていないが、貸しっぱなしというのは妙に落ち着かない。内容を知っていれば「そんなものは貸しではない」と切り捨てることもできただろう。内容を知らないのは口惜しいことだった。それが青山の狙いなのかもしれないが。
「まあとにかく、次の出撃の準備をしようぜ。少女たちも待ち侘びてるだろ」
「そうだね。まだダンジョンは三十八個も残っているんだから」
数字を聞くと途方もなく、気が遠くなる話だ。それでも、星に投げ出すことは許されない。三人は司令官だ。最後まで戦闘少女を導く責任がある。通信を介して攻撃を受けようとも、手を引くわけにはいかないのだ。
自宅がソシャゲ世界のホームになっていたので、実況配信で世界を救済しようと思います〜案内女神の解説付き〜 加賀谷 依胡 @icokagaya
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