うぐいす4
「そこにいろ、そこにいろ、、、」
老人はそれ以降、そこにいろとだけしか言わなくなった。金剛力士像には最早削り取るべき余分な箇所はないように見えて、わたしはまだ困り続けていた。この老人は先刻から私を急かしている。その目が訴えかけている。すっかり乾いた額も頬も失礼を承知で言えば自認のそれであるが、その眼と、私に命令するそれらの指の腹だけに、確かにいのちがこもっている。こんな化け物じみた老人が、彼女のいう美貌の持ち主だったのだろうか。本当に? 彼女がまだ幼かった頃には、これほど老いていなかったのだろうか。しかし彼女の言う通りこの老人が110歳なら、彼女が幼いころでさえすっかり老いさらばえていたろうに。彼女の妄言だろうか?私はそれを信じることがどうしてもできなかった。彼女の最もらしい語り口、、、それは確実に実物を見たものの口ぶりであった。
わたしはそっと金剛力士像の耳の辺りにノミを当てた。老人は黙っていた。わたしは槌をふり上げた。
老人が叫ぶ。
「馬鹿者!そこはもう完成している。お前はどんな目をしているのだ。よくそのお顔を見ろ。言わずとも分かるではないか、、、、」
わたしは苛立ちを隠せずにいた。どうしてこの老人はわたしにこんな無理難題を押し付けるのか?そして、”わたしはなぜその役に選ばれたのか?” ここにくるに至って経緯のどこにも、その理由となるものがなくてわたしは困り果てた。
この像の顔に未完成があるって? 美術にくわしいわけではないが、わたしにだって判る。この像はすでに完成している。立錐の余地もないほどに調和している。それなのに、わたしの背後に寝そべったままの老人は「削れ、逃げるな、そこにいろ」と繰り返すのだ。もう、ずっと座っていてやろうかと意地悪な心が芽生えた。この老人は、さっきの咳を聞く限りもう死の床にいるらしい。長くはあるまい。死ぬまでここにすわっていてやろう。こいつの最期の望みなど知るものか。俺は若いんだ。こいつにとっての最期も、おれにとっては長い人生の一幕の価値に過ぎん。こいつが死ぬのを待とう。それまでに一削りもしてやるものか。この阿呆め、死んでいけ。望みの果たされない気分はどうだ!一生の最後の命令が実行されないもどかしさは。そのうちに生き絶えていく無念は!」
わたしがそんなことをひとり心の内にしゃべっているのを、その爛々とした眼はすっかり見抜いているようだった。わたしは身の毛のよだつ感じがした。それまで言葉で急かしてきた老人が、今度は目でもってわたしを急かしている。死に際の老人の、人生の時の蓄積の最大値そのままの光が、わたしに向かって一直線に放たれている。湿度を帯びた光、、、しかしそこには乾いた鋭さが並存している。わたしは途方もない怖さに襲われて、再び金剛力士像の方を向いた。
「なんだあの目は、、、
おそろしい目だ、完成させねばならん。おれはこの像を完成させねばならん、、、」
わたしはすっかり老人の意のままになっていた。
うぐいす(仮題) 春日直人 @hal9001
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