第8話 大団円
時間の違う空間というのは、
「初めて立ち寄った喫茶店で、一人の老人に声を掛けられ、ここは、時間の進みが極端に早いところだ」
と言われた。
その喫茶店で知り合った老人というのは、実は、本当はまだ30歳だという。この店に来る間に、いつの間にか老けていき、こんな風になったというが、店を出てから、次の日、会社に行くと、皆、少し老けた自分に一切、何も感じないのだという。
だから、昨日まで先輩だった人が、今では先輩と呼ばれる年になり、実際に先輩が今度は自分に、
「先輩」
といって、年を取ったという違和感を感じていないのだった。
「どういうことなんだ? 誰かと勘違いしているんだろうか?」
と思ったがそういうわけではない。
いろいろ考えてみると、
「ここは、パラレルワールドで、自分が存在しない、自分を中心とした世界なんだ」
と理解することで、納得がいくような気がした。
ということを考えていくと、
「パラレルワールドというのは、自分を中心として広がっている世界でしかない」
といえるのではないだろうか。
そうでなければ、その世界には、
「もう一人の自分」
というものが存在しているわけだが、その存在を見ることはできない。
だからこそ、もう一人の自分、つまり、ドッペルゲンガーを見ると、死んでしまうと言われているのかも知れない。
ただ、その、
「死ぬ」
というのも、本当お意味での、
「死」
ではなく、
「別の次元に飛び出すための世界」
だと考えると、考えられないことでもない、
ドッペルゲンガーを見ると、死ぬということは、別にネガティブなことではなく、他の世界に行くことだと考えると、死ぬということを改めて考えさせられるのだ。
「死というものの、何が怖いのか?」
ということである。
「苦しむ」
というのが怖いのか、
「今まで生きてきた世界を飛び越えて、どこの世界か分からない世界に飛び出す」
ということが怖いのか、それとも、
「まったく、存在自体がなくなってしまい。時間とともに、この世にいたということを、皆の記憶から消えていくのが怖いのか?」
といろいろ考えるが分からない。
ネットで知り合った、アツシがそんな話をしていたことがあった。実際に今、マサツネが、その時のアツシの考えをそのまま感じているのだった。
その時、
「本当にアツシなる人物っているんだろうか?」
と考えるのだ。
というのは、
「アツシという人物は、しょせん、ネットでの知り合いというだけで、ただ、考え方がここまで似ているというのも、まるでドッペルゲンガーのようではないか?」
と思うのだ。
何も、自分とまったく同じ人間だとは思っていない。
どこか、すべてにおいて、どこかが違っているという考え方だった。
逆にいえば、
「まったく同じ考えの人間などありえない。それは、限りなくゼロに近いという考えに近い」
ということであった。
「除算において、どんなに無限ともなる大きな数字で割ったとしても、ゼロになることはない。どちらかに、マイナスがあれば、マイナスにはなることがあっても、決してゼロにはならないということだ」
と考えれば、
「本当にこの世に、ゼロという概念はあるのだろうか?」
ということになり、
「ゼロだと思っているものも、すべては、限りなくゼロに近いというものであって、ゼロはありえないのだとすれば、まったく同じ人間が存在しないというのも、ありの考え方なのではないだろうか?」
つまり、
「自分から自分を減算しても、ゼロには絶対にならない」
という発想である。
それを考えると、
「ドッペルゲンガーが、もう一人の自分であり、自分そのものではないという考えから、同じ次元の同じ時間では存在できないという理屈も分からなくもない」
といえるのではないだろうか?
ネットの世界の知り合いと話をして、そのことをさらに深く感じるというのも、どこか不思議な気がするというものだった。
「五分先、あるいは前の自分の話」
というのがあったが、この話こそ、ドッペルゲンガーを意識させるものだといえるのではないだろうか?
「本人と同じ場所にしか出没しない」
ということがヒントであったとすれば、まるで、
「影のようだ」
という解釈だと、あり得ない発想ではないだろう。
ただ、これは、逆に、
「どっちが、本当の自分なのだろう?」
という発想よりも、
「どっちに戻ればいいんだ?」
と考えてしまう自分がいるような気がするのだ。
というのは、今ここで考えている自分は、まるで、
「幽体離脱」
の状態にあり、その状態で、第三者として見ているのではないか?
しかし、実際には身体を離れて見ているので、客観的に、そして冷静に見れる。そうなると、果たしてどちらが自分のいた本人だったのか分からず、戻ることができなくなるという発想である。
どちらかの自分は、まるで影武者のようであり、戻ろうとしても、戻れない存在だ。だから、戻ろうとして失敗した場合は、影とともに、魂までもが、消滅してしまうという、まるで、
「罰ゲーム」
のような形になると、シャレでなく、どちらも消滅することで、それこそ、タイムパラドックスのようなものが起こり、小宇宙単位の世界が消えてしまうといえるのではないだろうか?
それを何とか戻そうと、辻褄を合わせようとする場合に、その理屈として、パラレルワールドの理屈が考えられるのではないだろうか?
だから、元に戻る場合に、失敗したのであれば、その場合は、
「パラレルワールドの一つが消えた」
ということで、この世には何ら影響のないものだという発想である。
しかし、それこそ、
「この世至上主義」
といってもいいのか、
「すべての中心が、この世であり、それ以外に無限に存在する世界が、あの世であり、パラレルワールドであるとするならば、本当に、もう一人の自分というのが、パラレルワールドが存在するとすれば、そこにもいるのだろうか?」
ということである。
ギリシャ神話や、聖書などのように、
「神が人間を作った」
ということにして、その人間を作った神が、聖書の方では、
「手の届かない本当の神」
という存在であるのに対して、ギリシャ神話などの場合は、
「神というのは、これほど人間臭い存在はない」
ということで、
「嫉妬や妬み、さらに、自分至上主義で、人間が神に近づくなど恐れ多い」
とばかりに、平安時代の貴族であったり、封建社会の領主であったり、将軍であったりが、
「神のような存在」
ということになるのだろうが、日本の場合は、
「絶対的な神格化」
というものがあるではないか。
「そう、天皇という存在がそれで、昔からあった天皇制なので、その存在は、他の国などと違って、聖書や神話に近いことだろう」
しかし、だからと言って、神としての君臨には至らない。
「君臨すれど、統治せず」
ということで、天皇は、あくまでもお飾りで、特権階級が天皇を操っているという考えをすると、猛反発を受けた
「天皇機関説」
その慌てぶりが、何かを示しているのではないだろうか?
「神という存在が、実は別の世界の、自分なのではないだろうか?」
という発想に至るのだった。
そんな歴史の中において、
「近づきすぎるとまずい」
というものはある。
それが、
「ドッペルゲンガー」
というものではないだろうか?
ただ、近づきすぎてはまずいという考え方は、
「辻褄を合わせる」
ということに通じたりする。
それが、
「パラレルワールドというものが、タイムパラドックスの辻褄合わせ」
であったり、
「前世の記憶というものが残っているとすれば、その記憶を思い出すことの正当性として自分たちに感じさせるものが、デジャブという現象だ
といえるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、ドッペルゲンガーも、
「何かの辻褄合わせではないか?」
と考えられる。
しかし、死んでしまうというのでは、本末転倒な気がすることから、
「誰かと、入れ替わってしまう」
ということも考えられる。
「もう一人の自分」
というのは、そんな自分の存在の辻褄合わせとして、存在しているのではないだろうか?
普段は、別に何もなければ、出てこないだけで、ジキルとハイドのように、絶えず、背中合わせで、
「自分の顔を自分で見ることができない」
という発想のようではないか?
マサツネは、アツシの存在を自分の、
「ドッペルゲンガーではないか?」
と思い、自分が現れてほしいという潜在意識があった時、二人はバーチャルで出会うことができるのだ。
「こんなことは、アツシと知り合わなければ、考えたりはしないだろう」
と思うようになった。
「アツシは、そのことを分かっているのだろうか?」
と考えると、今の自分と、アツシとが、
「パラレルワールドによる存在」
であるかのように思えて、
「ひょっとすると、自分がアツシにとっての、辻褄合わせなのかも知れない」
と感じるのだった。
( 完 )
辻褄合わせ 森本 晃次 @kakku
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます