第7話 時間の流れの違い
今の時代に女性とのトークだったり、絡み方を間違えると、
「セクハラ」
などと言われ、嫌われるだろう。
世間では、コンプライアンスというものを大きなものとして考えるので、話の持っていき方も難しいのだった。
ただ、ネットであれば、相手が誰かも分からない。それだけに話しやすいといえるだろう。
だが、逆に分からないからこそ、気を付けなければ、相手を傷つけてしまいかねないということを考えていた。
今までにも、大学時代にも、ゲームの関係で友達になった人がいた。いつも、学校から帰ってきて、同じ時間に、
「君が来ると思っていたから、待っていたんだよ」
ということを言いながら、待っていてくれる友達だった。
その人の名前が何だったのか。少し忘れていた。思い出そうとしてみたが、
「今はもう、友達でも何でもないんだから、思い出す必要なんかないんだ」
ともいえるが、何か気持ち悪い気がして、思い出そうとしたが、結果として、思い出すことはできなかった。
その友達もきっと、こちらの名前を覚えてることもないだろう。何と言っても、本名というわけでもなく、ハンドルネームだったのだ。
しかも、実は同じ時期にハンドルネームをいくつも持っていた。サイトによって変えていたといってもいい。
いわゆるSNSなどで、いわれる、通称、
「別垢」
正式名称で言えば、
「別アカウント」
ということである。
つまり、同じ人間であっても、ログイン、パスワードを変えることで、いくつでもアカウントを作れるのだ。
「一人、いくつまで」
といっても、本人確認をするわけではないので、いくらでも作れてしまう。
下手をすれば、
「犯罪に使われかねない」
とも言われかねないであろう。
それを思うと、いくらでも他人になりすませるし、一つのチャットや掲示板で、他人のふりをして、いくらでも、
「自作自演」
ができるのだ。
よく、
「自演乙」
などと書かれている。
昔でいう、変なやつがつくった、
「〇チャンネル」
という、丸の中に数字の入る掲示板などで、
「ネット言葉」
として言われていて、どこかおしゃれな感じがしていたものだ。
それを見た時、今の携帯電話、いわゆる、
「ガラケー」
というものが、出始める前に一時期流行った、
「ポケベル」
というものを思い出した人もいるかも知れない。
携帯電話などのように、液晶画面はあるが、画面には、数行しか出せず、相手に何かを伝える場合。定番である、決まった言葉であれば、数字の組み合わせなどで、言葉にして伝えるというものである。
いわゆる、
「語呂合わせ」
というようなもので、たとえはポケベルの場合と異なるであろうが、
「5963」
などという言葉であれば、
「ごくろうさん」
と読ませるなどというものである。
ポケベルというものは、あくまでも数字の組み合わせなので、数字で相手に伝える。下手をすれば、
「乱数表のようなものを持っていないと、解読できなかったかも知れない」
といえるだろう。
そうなると、みんなが、どこまで知っているか、相手を選ばなければ話も通じない。
「この人だったら、これくらいは通じるだろう」
というような感じである。
ポケベルというものは、実は、ほとんど寿命は短かった。2年くらいのものだっただろう。
元々、ポケベルの出現はセンセーショナルだった。
当時まだ。パソコンというものはあっても、インターネットの普及すらされていなかった時期であり、いわゆる、
「パソコン通信」
というものがあったくらいだ。
回線も電話回線を使ったりして、回線使用料も、今のように一律の使い放題ではなかったのだ。
つまり、
「長時間繋いでいれば、それだけ電気代も食う」
というのだった。
だから、使用しない時は、必ず回線を切っておかなければ、その間、どんどん使用料を引かれていくというわけである。
それを考えると、携帯電話という発想自体が、まだまだ、
「近未来」
の道具という世界であり、パソコンも、ワープロに毛が生えたほどという認識がぬぐえなかっただろう。
特にパソコンというと、ネットという意識よりも、
「それまで、大型コンピューターでやっていたことを、パソコンのような小さなもので代用できる」
というところが一番大きかったといえるだろう。
会社の中でも、例えば、仕入売上などの計算など、手でやっていたり、大型コンピュータを使っていたものを、パソコンでできるのだ。
昔のいわゆる、
「汎用機」
と呼ばれるものは大きく、大容量だった。大きな会社であったり、銀行などの大量の顧客データや売上などを瞬時に計算したり、管理しなければいけなかったのだ。
さすがに当時のパソコンは、本当に容量の小さなもので。とても、汎用機に追いつけるものではなかったが、2000年を超えた頃から、急激に発達してきた。それが、
「インターネットの普及」
というものと、大容量を格納できるようになったということだろう。
ケイタイの世界は、その少し前から、従来の電話を掛けるだけではなく、メール機能がついたことで、一気に役立つようになった。
その頃から、電車に乗れば誰もが、ケイタイを開いて、器用に指でボタンを押している。人とメールのやり取りがほとんどだったのだろうが、しょせん、ガラケーの性能は、その足りまでだろうか? しょせんパソコンにかなうものではなかった。
しかし、スマホが出てくると、
「スマホでパソコンの機能ができるようになった」
ということで、今までのパソコンしかしてこなかった人が、
「仕事はパソコン、プライベートはスマホ」
というように使い分けるようになってきた。
スマホでも、結構な兵糧も入るし、ネットもパソコンに劣ることはない。何よりもゲームの機能がすごいようで、昔、メールをガラケーでやっていたように、電車の中などでスマホをいじっている人は、SNSを確認しているか、ゲームをしている人だといっても過言ではないだろう。
それを思うと、ケイタイからスマホ、昔のパソコンが飛躍的に普及したのと同じようなものだろう。だから、今では自分の部屋にテレビもパソコンもない人が多い、もちろん、固定電話などもない。つまりは、
「スマホ一つあれば、それでいい」
ということになるのだろう。
そんな時代になると、今はスマホだけの機能で、過ごせる人が多いだろう。特に若い世代はそうで、マサツネはパソコンを持っていたが、生活の主流派スマホだった。
マサツネは、ゲームをかつてはしていたが、最近ではゲームをしなくなった。
「卒業した」
といってもいいだろう。
ただ、面白くなくなったというのが、本音で、それよりも、今はSNS系が多くなったといってもいいだろう。
ツイッターにインスタグラム、ユーチューブなどがその代表だろうが、基本的にはツイッターが主だった。
別に動画を載せたり、
「インスタ映えするような写真を撮ったりしているわけでも、いつもおいしそうな外食をしているわけでもないので、ツイッターで十分だ」
というところであろう。
「あくまでも、コミュニケーションが中心」
ということなので、必要以上に、何かをしようという意識はなかった。
ツイッターの機能の、ダイレクトメールであったり、音声でチャットのようなものができる機能であったりが、結構楽しく、嵌ってしまったというところであろうか?
そんな音声チャットで、最近の話題は、SF的な、そこに、少しホラーチックな話で盛り上がることが多くなった。
マサツネもそういう話は嫌いではないが、参加者が皆結構詳しいことにビックリさせられた。
考えてみれば、なるほど、確かにそんな話が嫌いだったら、すぐに会話に参加することもないだろう。それでも参加し、負けじと論議を重ねるのだから、そちらもつわものだといってもいいだろう。
ただ、会話をしていると、そんな中でも、
「違憲の合う人、会わない人」
様々である。
そんな中で話が合うのが、ずっと前から会話をしてきた、アツシだったのだ。
最初こそ、
「近いうちに遭いたいな」
と思っていたのだが、途中から、
「別に会う必要もないかな?」
と思うようになってきたのだった。
というのは、
「もし、会ってしまうと、せっかく仲が良かったのに、どこかで、せっかくの仲が壊れてしまうか、壊れないまでも、今までのような付き合いがうまくできなくなるかも知れないな」
と感じることであった。
それを考えると、
「ネットのコミュニケーションというのは、面白いな」
と思うようになっていた。
そもそも、普通に友達というものができないから、ネットのSNSに嵌ったのだ。
というのも、自分の話題が、シュールであったり、会話がガチになってしまったりすることで、気が付けば、まわりの視線が怖くなり、四面楚歌の状況を、自らで味わわなければいけなくなるからだった。
どうしても、リアルで、自分に対しての冷たい視線を感じると、委縮してしまって、二度とその場に戻ることができなくなる、
だったら、最初から、つかず離れずで、変に会話の中心にならないようにすればいいだけだったが、マサツネというのは、性格的に、どこか、
「自分は人とは違う」
というのを、皆に教えたくてたまらなくなるのだった。
だが、リアルな仲だと、拗れてしまうと、なかなか修復は難しい。
だからこその、SNSの発達なのかも知れない。
「趣味の合う人間だけで、会話をしたり、話題を盛り上げたりできるというのも、SNSの醍醐味であり、魅力だ」
といえるのではないだろうか?
ツイッターをやっていると、自分が選んだカテゴリーのツイートしか出てこなかったりするので、会話もスムーズだ。フォローをすれば、その人の記事が中心に出てくる。
人によっては、フォロワー数を増やすことだけを中心にしている人もいるようだ。
もちろん、それも立派な運営方法なのだろうが、実際にコミュニケーションをしようと思うと大変ではないだろうか? たくさんの人のツイートが出てくるので、本当に会話をしたい人のが一目で見るのも、難しくなる、
当然、それらを一括りにしてみることもできるのだろうが、それも増えてくれと、結局、また混乱が生じる。そういう意味で、マサツネは、
「あまりフォロワーをむやみに増やすのは、得策ではないかな?」
ということで、一定のフォロワーをキープしていた。
そもそもが、
「コミュニケーションが目的だ」
と思っていたので、フォロワー数を増やしまくるのは、趣旨に反するといってもいいのではないだろうか?
そんな中で、アツシとの会話は楽しかった。たまにDMで話をしたり、音声チャットでは、お互いに、まわりの人の意見と、ガチでぶつかる時でも、ガチで会話をしているのはどちらかだけで、片方は、もう一人が窮地に立たされた時、一緒に煽るのではなく、逃げ道の一つとなって受け入れるような形を取っていた。
それも自然に受け入れる形なので、安心して、ガチな会話ができるのだった。
受け入れた方も、
「いつものことだね」
といって、笑っているが、受け入れられた方も、見えないとはいえ、声だけで、相手が苦笑いをしていることを理解していた。
最初の頃は、お互いに少し違った意見を持っていて、意見が衝突しているのだろうと思っていたが、
「実は、考え方が似かより過ぎていることが、却ってそのことを分からないようにしているのではないか?」
ということに気づいて、口にしたのは、アツシの方だった。
マサツネも、二人の関係を、
「いい関係だ」
と思っていたが、それよりも、衝突する内容に違和感を感じていて、
「嫌ではないんだけど、たまに、とげのようなものを感じることがある」
と思っていたのだ。
「そうか、似かより過ぎているということまでは、考えなかったな」
というと、
「俺もやっと最近気づいてきたんだよな。お互いに惹き合っているのに、どこか、相いれない考えがあるんだってね。譲れないところが同じだから、お互いに、違いが微妙であればあるほど、見えているものが見えなくなっているような感じといってもいいかな? まるで遠視のような感じかな?」
とアツシは言った。
適度な距離は一番よく見えるが、今度は近づきすぎると、焦点がぼやけてしまって、見えているはずのものが見えないという感覚である、
まさに、今感じていることではないかと思うと、
「実にうまい表現をする」
とばかりに、感じるのだった。
そういう意味で、
「お互いに近づきすぎないようにしないといけないな」
という気持ちは無理もないことであり、
その時に感じたのは、普段からお互いに考えている、
「時系列のずれ」
というものだった。
「時って、皆、規則的に刻んでいるものだと思っているようだけど、本当にそうなんだろうか?」
と、音声チャットでアツシが口にしたことがあった。
「また、変なこと言い出したぞ」
と、周りが感じるのではないかと思い、空気を読もうとしたが、しょせん、声だけの世界、そんなに簡単に分かるもののはずはないだろう。
マサツネは、そう思いながら、とりあえず、アツシの会話を黙って見守ることにした。
「時間というのは、誰が考えたのか分からないけど、実際に規則的に刻んでいるでしょう? 今のように時計がある時代はいいけど、機械的な時計のない時というのは、日時計などのように、自然の力に頼ることになる」
とアツシは言った。
アツシが何を言いたいのかということまで、正直すべて分かっているわけではない。だが、少なくとも考え方が同じであることに変わりはないのだった。
「確かにそうだな」
と、会話の中で誰かが相槌を打った。
誰かが打たないと、ガチな会話が、固まってしまうように感じたからだろう。
ガチな会話は固まってしまうと、本当に、そこで誰も口を出せなくなってしまい、その場が壊れてしまうだけではなく、それぞれに小さなトラウマを植え付け、今度から、誰も何も言えなくなるんじゃないかという感じで、結局、喋ることができなくなるのはおろか、このメンバーで集まることが怖くなってしまうのではないかと思えた。
マサツネは、そうなったらそうなったで、
「別にかまわない」
と思っていた。
しかし、アツシの考え方は、そうではないように思えた。ただ、メンバーの執着しているわけではないのだが、どこか、彼は、会話ができる相手でないと、どうしようもないと思っているに違いない。
アツシは続けた。
「確かに、機械時計のない時代は、時間が分かる時、つまり、1時間おきか、2時間おきか? それとも、一日の中のターニングポイントである、朝昼晩の入り口か出口を考えているのかも知れないな」
というと、その言葉に反応した人がいて、
「今、入り口か、出口と言ったけど、出口のすぐ次が入り口じゃないかのように聞こえたんだけど?」
というではないか?
「そうなんですよね。入り口と出口が、すぐそばにあるという考え方は、果たして正しいものだといえるんでしょうか?」
という。
「どういうことですか?」
と聞かれて、
「朝日だって、地平線に、一瞬でも顔を出した時が、朝日なのか、すべてが出切ってしまったからが朝日なのか、多分厳密に決まっているんでしょうね。それに夕方だって、あたりが暗くなってから、日が沈むまでが、どっちなんでしょうね。昼なのか夕方なのかですね? そこには、いくつかの細かい時間が存在しているわけですよね? たとえば、風がまったく無風になる夕凪という時間であったり、魔物と遭うと呼ばれる、ものが見えにくいという、逢魔が時と呼ばれる時間帯ですね? 同じなのかも知れないけど、言葉が違っていることで、違う時間だと思うのも。無理もないことなのかも知れないですね」
という。
少し理屈っぽくて、
「これじゃあ、会話に参加できずに離れていく人がいてもしょうがないか?」
と感じるのだった。
だが、マサツネは。その考えに限りなく近いところがあると思っているが、実際に考えて、
「思った以上に距離があるような気がする」
と考えるのだ。
となると、考えているその時間というのは、どれだけの広さだというのか、想像もつかないほどだといえるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、以前、他の人から言われたことを思い出した。
その時、マサツネもアツシが会話をしているところに割って入るような感じで、全面的にアツシの意見を擁護していた。
しかし、まわりが聞いていて、
「二人とも、似ても似つかぬような話題で、よくあれだけの話ができるな」
と言われたのだ。
また逆に、アツシの意見に反対意見を言っていたのに、まわりから、
「結局二人の言っていることは、根底で同じなのに、よくあれだけ、議論を白熱させて、無理にでも反対意見を押し出そうとしているのを見ると、これほどぎこちなく見えるものはない」
という感じに見えたようだ。
それを考えると、マサツネもアツシも、示し合わせたわけでもないのに、お互いに、どちらかが話している時は、出張ってくることのないようになったのだった。
「本当に二人の間に、おかしな距離が存在しているのではないか?」
と感じたのだ。
会話の中心になっていたこととしては、
「一人の人が、場所が変われば、時間の進み方が違うという場合と、人によって、時間の進み方が違うので、場所は関係ない」
という考え方であった。
どちらの発想も、
「時間の進み方が違うというところから発想が出てきているんだけど、その根底で同じなのか、違っているのかということを、話しているように、たぶん、他人としては思っていたに違いない
と思えたのだ。
一度、変わった小説を読んだことがあった、
「この店では、時間の進み方が他とは違う」
という発想の話だった。
そして、その話は、ドッペルゲンガーと繋がってくる話であった。
他の小説の中にも出てきた、
「定番のようなお話」
であるが、その話としては、
「五分前の自分」
という発想がある、
これは、ネタバレというか、犯人を最初に示しておいて、
「どうして、この人を犯人だと思ったのか?」
あるいは、
「探偵や刑事が、いかにして、犯人のボロを出させるか?」
というような、やり方をするかということであった。
殺人事件のトリックには、
「最初にバレてしまうと、話が続かないものや、逆にバレてもそこから話を膨らませるトリックの2種類がある」
と言われている。
前者の、
「バレてしまうと話が続かないもの」
としては、
「一人二役トリック」
などのように、犯人が一人二役をしていたなどということが、最初に分かってしまうと、その時点で、犯人が分かったも同然になるだろう。
ただ、必ずしも最後である必要はない、
犯人が途中で分かっても、そこから先の逮捕劇までを、バイオレンスであるかのような作品と捉えれば、ある意味、ミステリーとしては、そこで終わったとしても、そこから先は、別の見方ができるという意味で、
「一粒で二度おいしい」
と思う読者もいるだろう。
しかし、あくまでも、
「謎解きを、探偵小説」
として捉える人にとっては、そこから先のバイオレンスは不要だと思うだろう。
要するに、
「この作家は、あくまでも探偵小説かだ」
ということなのか、
「謎解きの後に、バイオレンスが含まれている」
ということを分かって見ているのかによって、変わってくるのである。
また、最初から分かっていても仕方のないものとしては、
「死体に細工がしてあるもの」
というのがある。
例えば、
「顔のない死体のトリック」
と呼ばれる、いわゆる、
「死体損壊トリック」
である。
つまり、
「死体の身元が誰なのか分からないようにする」
というもので、ただ、この場合、昔から公式のようなものがあり、
「被害者と加害者が入れ替わる」
というのが、探偵小説の定義のようなものだった。
たぶんであるが、
「被害者と加害者が入れ替わる」
という発想が先にあって、
「じゃあ、そういう内容にするにはどうすればいいか?」
ということになると、
「死体を損壊させて、身元が分からなくすればいい」
と逆の発想があったのかも知れない。
だが、どちらにしても、
「絶対にこうではないといけない」
というものではない。
死体損壊トリックでも、いかに、この法則に読者を考えさせないように導くかということが作者の手腕であり、いろいろな着想があった。
ある探偵小説で、
「死体損壊と、一人二役をくっつけた
というようなそんな話があった。
被害者の顔が分からないことで、
「被害者は誰なんだ?」
ということになった。
しかし、実際に蓋を開けてみると、
「犯人が一人二役を演じていて、犯人が殺されたかのように偽装をしながら、本当は別の人を殺したいというのが、本当の動機だ」
というものであった。
ただ、一人二役という発想が挟まったことで奇抜な感じがするが、逆に、一人二役というトリックがなくとも、この発想は、
「いずれ、辿り着く通過点だ」
といえるのではないだろうか?
そういう意味では、一人二役は確かに、途中でバレてしまってはいけないものだが、そこに気づかせないようにするための
「誘導」
として、
「死体損壊トリックを使う」
という、画期的なものだった。
作者がそこまで考えてもことなのか、結果的に、
「トリックの伏線に、別のトリックを使う」
という、まるでマトリョーシカのような犯罪も、
「結構ありなのではないか?」
と思えてきたのだった。
そのことが、
「時間の違う空間」
あるいは、
「五分前の自分」
という発想に絡んでくるのではないだろうか?
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