第6話 警察というもの

 そんなパンデミックの時代が、どれだけ続いたというのか?

 いや、実際にはまだ終わっていない。終わったと思うのは、他のバカな国民どもと同じ発想ではないか。それだけは、絶対に避けなければいけない。

 そんなことを考えているうちに、今までと違って、まわりの連中が、

「すべて敵なんだ」

 という発想になってきた。

 そこまで思い込むのは、正直危険であることは分かっているが、どうしても、あの医療崩壊があったことを、まったく忘れてしまったかのように見える連中を、許すことができないのだ。

「あんな連中のために、こっちが医療を受けられずに死ぬなんて、死んでも死にきれないことだろう」

 としかいえない。

「騒いだり、感染防止を怠った連中が治療を受けているので、自分が治療を受けられないなどと想像しただけで、許せない」

 と思う。

 確かにそうなのだ。

「あいつらは、自分は病気に罹らない。蔓延はしないと思っているから騒いだのであって、そんな連中の治療を最優先しているなど、許されることではない」

 といえる。

 確かに、医者の立場からすれば、

「病人は平等だ」

 というだろうが、果たしてそうだろうか?

 少し放っておいても、死なない人のそばで、今手術をしないと、死んでしまうというのが明らかな人がいれば、普通であれば、緊急手術という形でそっちを優先することになるだろう。

 しかも、もっといえば、

「ここで手術をしないといけない」

 という病人がいるのに、有名政治家などの権力と金を持った人が手術を要するといって回ってくれば、病院側は、今手術をしないといけない人を放っておいてでも、有名人というだけで、贔屓するに違いない。

「本当はそんなに医者はいらない」

 という状態でも、病院のメンツをかけてでも、その体制を、病院の理事長の権限で行うに違いない。

 結果、どうでもいい手術に有名人は成功するが、その代わり、本当に手術が必要だった人が亡くなるということになることだろう。

 病院側は、どうせ、一人誰かを人身御供にして、責任逃れ、その人身御供にされた医者は、

「医療ミスをした」

 と、誹謗中傷を受け、医学会から追放されるというような末路を描くことになるだろう。

 確かに、ドラマではよく見る設定で、ミステリーや、医療ドラマでよく扱われる設定だ。

 しかし、これだって

「火のないところに煙が立つというわけもない」

 ということで、日常的に行われていることだろう。

 マニュアル化されていることなのかも知れない。

 それを考えると、

「政府だけでなく、医者や病院すら信用できない」

 ということになり、その証明が、

「今回の世界的なパンデミックだ」

 ということになるのだろう。

 それを思うと、世の中というものが、

「どれほど私利私欲や、利権にまみれた世界であるか」

 ということと、

「権力を持ったものが強い」

 ということなのかの証明だといえるだろう。

 また一つこれも気になることであるが、喫煙マナーの問題である。

 重要文化財や、国宝に、

「落書きをするバカ者がいる」

 という話はよく聞く。

 実はその裏で、

「喫煙をしているというバカ者」

 がいるということも、重要だった。

 昔は、そういうバカ者を糾弾することはできなかったが、最近では、防犯カメラや、車のドライブレコーダーなどが発達していて、

「壁に耳あり障子に目あり」

 という言葉が、リアルになってきた。

 ただ、防犯カメラやドライブレコーダーなどがあっても、今の世の中は、それを証拠に相手を糾弾できるまでのものはない。

 下手をすれば、肖像権というものを盾に、言い訳をするやつもいるかも知れない。

 本当はそんなものは言い訳になどなるわけはないが、そういうイメージがあるので、せっかくの証拠があっても、それを警察に提示できないとか、下手をすれば、

「逆恨みされる」

 という懸念を抱いている人もいるだろう。

「マナーを守れないようなやつなんだから、何をするか分からない。下手をすると、平気で人を殺す輩かも知れない」

 と言えないだろうか?

「そんなバカなやつはいないだろう」

 と、果たして言えるだろうか?

 というのも、今の時代の犯罪の中には、

「誰でもいいから」

 という通り魔的な犯罪も多い。

 その理由として、

「警察に捕まりたかった」

 であったり、ひどいのになれば、

「死刑になりたい」

 という理由で、人を不特定多数で襲ったりするのだ。

「死刑になりたいのなら、誰も知らないところで、自殺でもすればいいじゃないか」

 と思うのだが、そいつの頭の中にはそんな理屈はないのだろう?

 警察は、まず、

「頭がおかしくなっていないか?」

 ということを調べるだろう。

 精神異常であれば、罪に問われないという理不尽な可能性があるからだ。

 だが、たいていこういう輩は、たいていの場合、責任能力を十部に問える。つまり、精神的に正常だということだ。

 となると、精神が悪いのではなく、思考能力が、あらぬ方向にいってしまっているのだろう。

 その男は、生まれつきなのか、それとも、まわりの環境で、そんな風になってしまったのか、それも、

「ある日突然、事件を起こす」

 というのである。

 そもそも鬱積したものがあったのだろうが、まさかこんなことになるなど、誰も思わないに違いない。それを思うと、

「人が人を殺すなどというのは、本当に一瞬のことであり、一瞬の判断の積み重ねなんだな」

 と思えてならなかった。

 だから、何かモラル違反であっても、許せないことであっても、迂闊に通報や、連絡はできないと思うのだろう。

 何といっても、日本の場合は、

「疑わしきは罰せず」

 という世界であり、よほどの動かぬ証拠があり、よほどの重大事件でもない限り、警察は何もしてくれない。

 それがよく分かるのは、ストーカーや、幼児虐待、苛めなどの問題であった。

 警察は、殺人事件などの、

「結果が出た」

 ことに対しては、捜査を行い、検挙に全力を注ぐが、事件が起こらなければ何もしてくれない。

 つまり、

「事件になりそうなことを、未然に防ぐ」

 ということに関しては、まったく動いてくれないのであった。

「検挙率を上げる」

 ということで、分子を上げることはするが、分母を減らさないというのが警察、

 実際に、殺人事件が起こってから、

「警察に何度も相談したのに、警察は何もしてくれなかった」

 などという話は、山のようにあるではないか、

 しかも、そのことは、それほどニュースにならない。どこかで大きな力が働いているとしか思えない。

 つまり警察というところは、

「確率でしか動かない」

 ということだ。

 自分たちが、捜査することで、市民から、

「まだ、何も起こっていないじゃないか? 警察は、何もしていない人を尋問したりするのか?」

 と言われるのと、事件が起こって、

「警察に何度も言っているのに」

 と言われるのと確率から考えると、前者の方が、圧倒的に多い。

 そうなると、

「警察は迂闊には動けない」

 ということになり、民間のトラブルは、まだ何も起こっていかねれば、

「介入してはいけない」

 ということになるのだろう。

 それを思うと、

「なるほど、警察は、何かが起こらないと、何もしないんだ」

 ということが、定着することがよく分かる。

 ただ、普段から、

「警察に介入されて、鬱陶しい」

 と言われることもあるだろう。

 しかし、問題は、

「人はウソをつく」

 ということだ。

 相談者の話を真に受けて、すべてを信じ、捜査に及ぶと、

「実は、逆だった」

 ということになりかねない。

 そうなってしまうと、警察は次第に民間人のいうことをまともに聞かなくなり、結果、

「オオカミ少年」

 のようになってしまうかも知れないと思うと、迂闊に手を出せないともいえるだろう。

 そうなると、

「誰もかれもが信用できず、警察すら信じられない」

 という無法地帯になりかねない。

 そういう意味で、警察の、

「民事不介入」

 あるいは、

「何かが起こらなければ警察は動かない」

 というのも、仕方のないところなのかも知れないが、

「こんな世の中にしてしまったのは、一体何が問題だったのか?」

 ということを、真剣に議論しないといけないということになるのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、

「なるほど、ドラマで、刑事ものが、なくならないわけだ」

 ということだ。

 ドラマの話題にするような事件は、今のノンフィクションでも、十分にあるということであり、

「事実は小説よりも奇なり」

 とは、まさしくその通りであろう。

 そういうことからいけば、

「タバコの不始末」

 など、大したことはない。

 という人がいるかも知れないが、それは大間違いである。

 というのも、

「放火という罪は、殺人よりも重い」

 と言われていて、放火だけで、十分に殺人に匹敵するくらいのものであろう、

 砲火をして、誰かが死んだりすれば、

「よくても無期懲役」

 とも言われるくらいの非常に重い罪である。

 それはそうであろう。

 殺人であれば、愉快犯でもない限り、

「殺さなければいけない」

 というだけの理由があるのだ。

 しかし、放火の場合は、どんな理由があるというのか、下手をすれば、いや、下手をしなくとも、

「むしゃくしゃしたから、火をつけた」

 などという、

「理由にならない理由」

 で、簡単に火をつけるのだ。

 昔。ローマ帝国の皇帝ネロが、

「キレイだから」

 というような理由で、街に火をつけたというが、放火をする人間の精神状態は、それほど、皇帝ネロと違ったりはしないだろう。

 そんなことを考えていると、

「モラル違反にも、軽度のモノと重度のモノとの差がはげしい。許せるものと許せないものの判別をしっかりしていかなければいけない」

 ということを感じさせられるのだ。

 前述の医療ミスであったり、警察の立ち位置であったり、そんなことを考えていると、

「政府も、警察も、病院も、何も信じられないではないか?」

 といえるのではないだろうか?

 そういう意味で、

「何が社会に対して必要で、不要なものなのか?」

 ということの選別が、実に難しいということが分かる。

 そういえば、昔、ほんの少しであったが、今の政権が、野党に政権交代したことがあった。

 その時に、

「事業仕分け」

 などといって、いろいろな役所や政治体制の中で、

「経費の無駄遣い」

 というだけの基準で、その選別を行っていた。

「いやいや、その重要性を考慮に入れたうえで、検討に検討を重ねて」

 と、まるで、今の、バカソーリのような、

「けんとうし」

 と呼ばれる言い訳を並べていたが、結果はどうなったか?

 その時不要とされたものが、今の時代になって、

「どうして、そういう施設がないんだ?」

 と言われたのも多かった。

「未来で何が起こるか、分からない」

 ということ言い訳にするだろう。

 しかし、少なくとも、野党が政権を持っていた時代、世界的にも大きな災害が、この日本で起こったではないか。しかも、その対応に明らかに失敗し、それが原因で、またしても政権を戻すことになったということを忘れているのだろうか?

 今の政府は言い訳として、

「あれは、前の政府がやったこと」

 といって、まるで断捨離のように、必要な部署を、経費節減というだけの理由で、しかもその理由が、

「票を集めたい」

 という理由が表に出ているだけに、その露骨なあからさまに、国民もいい加減目を覚ましてほしいと思うのだが、かつての災害の時の野党の対応。さらに、今の、

「批判ばかりで、新しい政策を一切打ち出そうとしない」

 という野党に、結局何もできないとして、期待もできないので、

「しょうがないから」

 というだけの理由で、亡国の一途をたどる今の与党に票を入れるしかないことになるのだった。

「もうこの国は終わりだ」

 と、ずっと前から言っている人がいるが、本当に終わってしまうまでに、どれだけの国民が、そのことに気づくだろう。

 下手をすると、核ミサイルが発射されても、何も感じず、まわりが逃げているのを見て、

「どうしたんですか?」

 などというとち狂った人も、結構いるのではないだろうか?

 ただ、そんな人の方がある意味幸せなのかも知れない。

「どうせ、一人では、世界情勢を動かすことができないんだ」

 ということが分かれば、滅亡に瀕しているこの地球上で、全員といっていいほどの人間が死んでしまうのであれば、正直、じたばたしても、しょうがないというものだ。

「俺が、慌てたって、どうなるものでもない」

 というのも当たり前のことで、

 それだったら、滅亡することを知らずに、飛んできたミサイルを見上げているうちに、即死する方がいいだろう。

 それによく、核シェルターに潜って生き残りをかけるというのがあるが、日本にはそんなものは特殊な施設にでもない限り、ないのだ。ハッキリと核ミサイルが飛んでくれば、それで生き残る人は、政治家だったり、一部の金持ち、後は天皇とかだろうか?

 支配階級だけが生き残る世界で、後に何があるというのだろう?

 そう思うと、

「苦しまずに即死の方がまだマシだ」

 といえるのではないだろうか?

 昔から、

「核戦争の末の新たな世界で、逞しく生きる男の物語」

 などというのが、マンガや小説であるが、そんなものは、しょせん夢物語である。

 しかも、日本人にはできっこないことであろう。だから、そういう話の主人公は、ほとんどが、外人の名前だったりするではないか?

 日本人ぽくても、基本は外人ではないだろうか?

 そんなことを考えてみると、

「日本がどれほど平和ボケをしている国なのか?」

 ということである。

「○○の拳」

 などというアニメが、今でも人気であり、パチンコ屋パチスロでも、いまだに人気だというのは、あれがあくまでも、

「フィクションだ」

 ということだからこそではないだろうか?

 あれを、

「必ず起こるであろう、わが国、いや地球の未来だ」

 ということになれば、どうなるというのか?

 今の人気どころか、下手をすれば、発刊禁止になったり、放映中止になったりするだろう。

 昔の日本であれば、

「作者の逮捕」

 ともありかねない。

 罪状は、世情を惑わした罪ということで、それこそ、

「後付けの犯罪をでっち上げることになるかも知れない」

 それが、裁判で有罪になれば、そのまま判例として残り、

「法律がない以上、判例が法規に勝るものだ」

 ということになるのではないだろうか?

 そんなことを考えると、

「日本という国が、どれほどのぬるま湯なのかということが分かってくる」

 というものだ。

「そんな極端な考えを持っているこの俺と友達になるようなやつは、さすがにいないだろう」

 と思っていたが、ネットで知り合ったとはいえ、アツシも、似たような発想を持っているようだ。

「何度徹夜でこういう話を語り合ったことだろう」

 と、二人とも、

「三度の飯より、こういう話が好きだ」

 といっている二人だったのだ。

 そんな、

「夜を徹した話をするのが、好きだったのが、大学時代だった」

 その頃、大学時代の話を彷彿させるのが、アツシとの話だった。

 アツシという男と話をしていると、結構楽しいものだった。

 というのも、彼の話は、多岐にわたっていた。

 しかも、最初は歴史の話をしていたかと思うと、今度はSFの話になっていて、いつの間にか宇宙の話になっているのだ。

 そして、話が二転三転している間にいつの間にか最初の話に戻ってきている。それも違和感などなくである。

 それを思うと、

「話の根幹さえ、違わずに、一本線さえ入っていれば、そこから伸びたものなので、きれいに元の場所に戻ってくるものだ。

 ということであった。

 そんな話をいつも一緒にしていたのだが、アツシだったのだ。

 そんなアツシとは、スマホやパソコン、両方のソフトである、

「さじきトーク」

 と、呼ばれるものであった。

 きっと、

「気軽に、座ってからの井戸端会議的なところから、さじきトークという名がついたのだろう」

 と言われているのだった。

 そんなアツシ君と、知り合ってから、ここ半年くらい、毎日のように話をしていた。

 仕事が終わってから帰宅して、ずっと会話に興じていたのである。

 会話をしながら、

「いつかは、会って、実際に話をしてみたいな」

 と思うようになっていたが、ただ、あくまでも、

「そのうちに」

 なのであった。

 というのも、

「今はあくまでも、気持ちを盛り上げる時期だ」

 という意識があるのと、

「実際に遭ってしまうと、急に冷めてきた時に、どうすればいいのか?」

 ということが分かっていないことが、怖かったのだ。

 今の気持ちとしては、会いたいという感覚よりも、

「せっかくの会話の相手を失いたくない」

 という思いが強いのだった。

 何と言っても、

「今のところ、話の内容が合っているからいいのだが、これが合わなくなったらどうしようというのが確かにある」

 といえるだろう。

 そして考えられることとして、

「一度会ってしまうと、相手を知っているだけに、会話に膨らみが出てこない気がするのだ。相手のすべてを知らないから、知りたいと思う。だからこそ、自分を知ってもらいたいと思う」

 ということが、会話の醍醐味であり、楽しみでもあるのだ。

 だから、

「近づきすぎると、ぎこちなくなる」

 というではないか。

 何かをするにも、人に知られていないから、自分を表に出すことができる。だから、

「下手に、意識すると、普段はできていたことができなくなる」

 ということになるのだ。

「気持ちを盛り上げるのは簡単だが、一度盛り上がった感情が、気の散り方によっては、元に戻らなくなることがあり、その間、瞬間的な記憶喪失になってしまうことだってあるのではないか?」

 ということも言えるのではないだろうか?

 だから、会いたいという気持ちをグッと堪えて、お互いにその話には触れないようにしていた。

「これが相手が女性だったら、どう思うのだろう?」

 と考えてしまうことだろう。

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