第5話 ネットで知り合った人

 ドッペルゲンガーではないのだろうが、最近になってネットで、知り合った人がいた。最初は確かゲームだったのだろう。相手はまだ少年だということで、本人曰く、

「15歳です」

 ということだった。

 まだ、会ったこともないどころか、顔も見たことはない。やっと最近、音声での通話ができるようになったくらいだった。

 マサツネとすれば、

「別にパソコンなんだから、画像チャットのようなものをしてもいい」

 と思っていた。

 最近は、スマホでもパソコンでも、ビデオ会話が普通にできるようになっているのだから、いくらでもできるというものなのだろうが、

「音声までは構わないのですが、画像を晒すのは、ちょっと」

 といって、その人は、頑なに、画像が晒されることに抵抗があったようだ。

 だからと言って、彼の音声がごまかされているという感覚はない。確かにボイスチェンジャーを使えばいくらでも音声を変えることはできるだろうが、それはわざとそうしないのか、それとも、犯罪防止の観点があるのか、ボイスチェンジャーというものを使えば、

「これはボイスチェンジャーの声だ」

 ということが、すぐに相手に分かるようになるのだ。

 つまり、声をごまかそうとはできないということである。

 だから、彼の声を聴く限りでは、確かに、まだ、

「未成年の少年以外の何者でもない」

 ということに変わりはないだろう。

 ボイスチェンジャーくらい、本当に作ろうと思えば簡単にできるだろうに、それをしないということは、本当に何かの事件が起こって、それを何ともできないからなのではないだろうか?

 二人は、お互いに、

「会いたいね」

 とも言っている。

 ただ、簡単に逢える距離でもなかった。

 マサツネは、仕事上、休みの日でも、遠くに遠征ができるような仕事をしているわけではなかった。

「いつ、トラブルがあったら呼び戻されかねない」

 という仕事なので、普通の休みくらいでは、遠征もできないのだ。

「では、夏の休暇や、正月休みなどはどうなのか?」

 ということになると、余計にどこかに行けるわけではない。

 会社は休みなのだが、何かのトラブルが発生すれば、自分がトラブル対応の陣頭指揮をとらなければいけない。

 下手をすれば、クライアントに謝罪に行かなければいけなくなった時、その長にいるのが、マサツネの役目であった。

 本来なら、格好のいい仕事なのだろうが、裏を返せば、トラブル対応の中心に首を据えられているだけで、

「貧乏くじを引いた」

 といっても過言ではない。

 そう思うと、

「誰かと会うために、ちょいと旅行」

 というわけにもいかない。

 正月といっても、酒を浴びるほど飲んで、前後不覚に陥ってはいけない立場で、本当に、

「貧乏くじ」

 という言葉が一番当て嵌まるのだが、彼の性格から、苦笑いもできない。

 下手に苦笑いをすれば、自分から、この立場を容認していることになるので、そんな、

「まんざらでもない」

 などという表情をすることは、許されないのだった。

 それが、マサツネにとっては、辛いことであった。

「自分の気持ちを顔に出せないのが、こんなにつらいなんて」

 と、分かってはいるけど、性格なので仕方のないことだった。

 その人は名前を、アツシと言った。

 ちなみに、マサツネというのは、この時に、ハンドルネームとして使ったもので、もちろん、本名ではない。ここで、アツシの名前を使うことで、最初から、主人公の名前を、

「マサツネ」

 にしておいた方がいいという考えで使ってしまったことを、この場を借りて、お話しておくことにしよう。

 アツシ君は、最初の頃こそ、

「可愛らしい少年」

 という感じで、話題もそんなに出すことはなかった。

 出したとしても、学校においてのクラスメイトの話題くらいで、いかにも、

「中学生の少年」

 というイメージを払拭できないでいた。

 だが、次第に慣れてきたのか、自分が話題を出さないと、そろそろまずいとでも思ったのか、最近、自分の話題を出すようになってきた。

 その話題というのが、時間に関しての話が多く、さすがのマサツネも、さすがに、

「ん?」

 と思うことも少なくなかった。

 その理由の一つとして、話が、ポンポンどこかに行ってしまうところがあったからだ。

 確かに、話が一定せず、自分の中で、急に話題が変わってしまったということに気づかない人もいるようだった。

 自分にも、その意識はないようで、きっと、

「話をしている時に、急に別の話題が浮かんできて、さすがに話の途中で変えることはできず、かといって、別の話をしている時に、急に別のことを思い出すと、自分でも頭の仲が混乱するだろうから、どうすることもできない」

 というわけである。

 それをどこまで自分で分かっているというのか、もちろん、別の話をしている時に思い出して、急に舵を切ることはできないのだから、話そうとしていたことが中途半端になり、今話していること、これから話そうとすること、その両方が、自分の中で整理できていないのだろう。

 それを思うと、急に話を変えた時、まわりがおかしな気分になるのは当たり前のことだ、本人でさえ、元々の話も、これから話すことも中途半端な気分になっているので、どこで収拾をつけていいのか、わかっていないに違いない。

 そんな時、マサツネは、

「アツシ君も、まだまだ子供なんだな」

 と思うことも、アツシ君の申告した年齢を、信じて疑わないということになるのだと、思うのだった。

 ただ、その時のマサツネは、他に誰か話す人はいなかった。

 会社の人とは、

「家に帰ってまで話すなんてありえない」

 と思っていた。

「どうせ、仕事関係の話にしかならないんだからな」

 という思いがあるのは、きっと、同僚も同じことだろう。

 それを思うと、会社の人とはありえなかったのだ。

 かといって、プライベイトで話す人がいるわけではない。

 そんな寂しさが頂点の時に、偶然知り合ったのが、アツシ君だった。

 彼の方も、同じように、誰かを探していた。彼も、同級生と、話をする気にはならないといっていた。その理由は、マサツネと、

「似て非なるもの」

 という感じであった。

 ニュアンスは似ているが、どこか内容が違うという意味で、外見上は同じにしか見えないことであろう。

 ただ、

「お互いに、同い年とはちょっと、という感覚であるが、共通していることとして、相手が嫌がっているよりも、明らかにこっちが嫌がっていて、そのあからさまな態度を相手が見て、それを、また嫌そうな顔になる」

 ということが、辛いというか、苛立ってしまうのが嫌だったのだ。

 それを思うと、

「お互いに、似ているんじゃないか?」

 と思うようになったことであった。

「別に他の人でもよかった」

 という思いはあるが、それでも、

「やっぱり、この人でよかった」

 としばらくしてから、お互いに感じるようになったのだから、最初から相性がよかったということになるのだろう。

 お互いに何を求めていたのか、しばらくしても、わからなかった。最初から、

「友達を作るなら、ネットの友達」

 と思っていたのだ。

 リアルでの友達を作ると、その相手の友達にも友達がいたりして、きっとそいつが、

「あいつはやめておけ」

 と言い出したり、

「あいつと付き合っているなら、お前とも縁を切る」

 などと言い出したりされるのが、嫌だったのだ。

 そうなると、友達になった相手が苦しむことになり、それを見るのが嫌だという感覚もないわけではないが、それよりも、結果自分の友達を選んだとしても、自分を選んだとしても、

「お互いにしこりが残るだろう」

 と思ったからだ。

 そんな思いをしてまで、友達をほしいとは思わないし、

「そもそも友達とは何なのか?」

 ということを考えると、

「やっぱり友達なんていらない」

 と感じるのだった。

 やはり友達というのは、わだかまりのない、お互いに気を遣わずにつき合える相手ではないかというのが定義だと思っているので、好き嫌いを考えるということ以前で、その要不要を考えるべきだと思うようになっていた。

 だから、

「リアルな友達なんかいらない」

 と思うようになり、マサツネは、友達を作らなかった」

 その思いをアツシにぶつけると、

「そうなんだよな、俺もそうなんだよ。君の話を聴いていて、まるで俺の心の声を聴いているように思えて仕方がないのさ」

 といっていたのだ。

 そして、最近、特に二人の間で、

「共通の懸念」

 というものがあった。

 というのは、

「家で作業をしていて、近所のクソガキどもがうるさい」

 ということであった。

 マサツネの仕事は、以前と比べて、時間がシフト制になり、特に最近では、早朝からの仕事が多くなった。

 元々、早朝からの目覚めは苦手ではなかったので、朝6時出勤が定時ということになっても、別に苦痛ではなかったのだ。

 電車も始発に載れば、会社が駅近くということで、余裕で出勤ができる。

 しかも、仕事が午後3時に終了するということで、まだ、冬であっても、明るいうちに帰宅することができる。

 要するに、

「朝晩の通勤ラッシュを避けることができる」

 というものだ。

 しかも、数年前から流行っている、

「世界的なパンデミック」

 という状態が、今だ続いているので、電車の中での通勤ラッシュを避けることができるというのは有難かった。

 いくら、世の中が、

「時差出勤や、テレワークの推進」

 といっても限界がある。

 どうしても会社に行かなければ仕事ができない人だっているのだ。国はそんなことも分からずに、簡単に、

「テレワーク推進」

 や、

「時差出勤推進」

 などという。

 会社に行かなければいけないのは、チームで仕事をしなければいけないという人も多いのに、時差出勤などで時間が合わなければどうにもならない人だっているので、結果、全員が時差出勤ということになり、少々時差出勤を皆がしたって、感染防止につながるようなことにはならず、

「ただの気休めでしかない」

 ということを政府は分からないのだ。

 それは当然のことだろう。自分たちは、事務所に詰めていて、現地視察など、どうせしていないのだろう。

「パンデミックのこの今の段階で、そんなことができるわけはない」

 といえば、そうなのだろうが、職員を行かせるとか、誰か一人くらい、席をはずせる人だっているだろう。

 そんな簡単なこともできずに、よくも自分のことを、

「政治家です」

 などと、ほざけたものである。

 だから、早朝勤務というのは、マサツネにとってはありがたかったのだ。

 さすがに始発電車というのは、それほど人はいない。以前であれば、前夜から夜通し飲んで、帰るという人もいただろうが、そんな店も減ってきているし、今は昔のように、駅は終電が終わると、閉め切るようにしているので、駅前で始発を待っているような、一見、ホームレスとみられてしまうような、みすぼらしい連中が少なくなったのは、いいことだろう。

 そこに持ってきての、

「世界的なパンデミック」

 最初は皆、甘く見ていたようだが、途中で、誰もが知っているような芸能人が、

「伝染病に罹って、亡くなりました」

 などというニュースが流れると、それまで甘く見ていた連中にも、一気に緊張感が高まってきた。

 政府に対して、

「一体、何をやっているんだ」

 と、そもそもの水際対策の失敗を責めると、今度は政府は、何を勘違いしたか、いきなり、

「学校の全国一斉に休校措置」

 などということをぶちまけた。

 確かに政策としてはありなのだろうが、まったくのいきなりで、水面下での調整どころか、内閣の大臣の中にも、

「知らなかった」

 という人もいるくらいの、実にお粗末なドタバタ劇だったのだ。

 そんなドタバタ劇状態における政府だったが、国民が混乱している中、今度は、

「徹底的な行動制限」

 ということで、今の我が国でできる最大の行動制限である、

「緊急事態宣言」

 を発令したのだ。

 諸外国と違って、

「強制力」

 というのはなかった。

 罰則も実刑もないので、自粛要請でしかないのだが、それでも、さすがに、相手が、

「未知のウイルス」

 ということで、ほとんどの人が自粛に応じた。

 この時とばかりは、

「日本人って、ちゃんとルールを守るんだ。意外とまともな人種なんじゃないか?」

 と少しだけではあるが見直した。

 だが、それも一瞬のことで、数か月もしないうちに、

「緊急事態宣言中に感じたことがバカだった」

 と思ったのだ。

 伝染病というのは、何度も波というものがある。

 というのも、ウイルスは、一度の波を起こして、その波を乗り越えるために、相手がその対抗策を講じて、流行らないようにするものなら、ウイルスも、

「生き残り」

 というものを掛けて、

「変異」

 を繰り返すのだ。

 つまり、違うウイルスのようになってしまい、また猛威を振るう。それがウイルスというものの正体なのだ。

 ウイルスは、ある程度まで変異を重ねることで、重い症状に至らしめることであったり、感染率が爆発的に高まったりするのだ。

 そのため、今回のウイルスも、

「第3波」

 だったか、

「第4波」

 の時にピークを迎えた。

 というのも、伝染病が蔓延した時に一番避けなければいけない、

「医療崩壊」

 というものが、起こってしまったのだ。

 というのも、

 最初は国や自治体も、その感染力を甘く見ていたのか、病院の病床に加えて、宿泊施設での患者受け入れを、元から予測していて、キープはしていたが、その見積もりをはるかに上回る患者の数だったのだ。

 そのため、自宅療養者というのが増え、その人たちが急変しても、治療が間に合わず、死に至るというのが頻繁したことだった。

「救急車を呼んでも、なかなか来ない」

 あるいは、119番にもつながらない。

「救急車が来て、患者を載せても、今度は受け入れ病院が見つからず、100か所近い病院に電話を掛けても、すべてから、受け入れ拒否をされ、その間にどんどん人が死んでいく」

 という、まるで地獄絵図であった。

 それが医療崩壊というものなのに、それでも、政府は、ほとんど何もしない。

「最初にやった緊急事態宣言をしても、一時期抑えることができたとしても、また蔓延するので、意味がない」

 とでも思っているのか、それとも、

「経済を抑えてしまうと、今まで吸ってきた甘い汁を自分たちが吸えなくなる」

 という自分本位の考えなのか、どちらにしても、政府はすでにその時からあてにならなかったのだ。

 それでも、何度かその波が、鎮静化すると、まるで、自分たちの力であるかのように思っているようなのだが、冷静に考えれば、

「感染が一番鈍る時期に来たので、自然に減っていっただけだ」

 ということに気づくはずなのだ。

 政府の人間だって、さすがにバカではないだろう。そんなことは分かり切っているくせに、何としてでも自分たちの手柄として、次期選挙の材料にしようとしか思っていないに違いない。

 だからこそ、波が沈静化していく中で、本来なら、

「次男ピークに備えなければならない」

 というのに、

「疲弊した経済を立て直す」

 ということを最優先にしてしまったことで、ほぼほぼ、政府の頭の中では、

「行動制限の抑制」

 というものは、なくなってしまったのだ。

 だから、

「表に出る時は、ノーマスクでも構わない」

 などと、バカなことを言い出したのだ。

 その後ろにいくら、

「人がいる時や、密室ではマスク着用」

 といっていても、それを聞いた国民は、誰もが、いいところしか切り取って話を聴かないという都合のいい耳しか持っていないのだ。

 それは、政府の政策であったり、マスゴミの体質と同じで、そもそも、それがこの国をここまで堕落させた戦犯であるということを誰もが分かっていないという証拠だろう。

 だから、これまで抑圧されてきたと思っている若者などが、必要以上に街に繰り出して、バカ騒ぎをするようになる。

 しかも、政府は、

「少々の蔓延くらいだったら、どうでもいい」

 と思っているのだから、始末に悪い。

「マスクしないでいいですよ」

 と政府が言っているということがどういうことなのかということを国民のほとんどは分かっていない。

「国がマスクをしないでも、大丈夫だ」

 という、

「お墨付きを与えた」

 とでも、思っているのだろうか?

 実はそうではない。国が言いたいのはこの一点であり、

「国は、何も指示しない、だから責任もない。自分たちの命、自分たちで勝手に守ってください。何かあっても、責任を転嫁しないでください」

 といって、責任を国民に丸投げしているだけなのだ。

 それを、一部(?)の不心得な、騒ぎたいだけの連中は、

「国のお墨付きが出た」

 などという思い込みから、きっと国を見直したというバカも出てくることだろう。

 そんなバカが投票する政府など、結果、

「責任のなすりつけ合い」

 と、

「責任の丸投げ」

 というスローガンに基づいた政府ができることだろう。

 いや、できるわけではなく、今までの政府が継続するだけで、すでに、今も皆が、こんな政府に毒されているということを分かっていないのだろう。

 だからこそ、

「検討に検討を重ね……」

 などという言い訳しかしない、

「けんとうし」

 などといわれる、バカソーリが生まれることになったのだ。

「最凶最悪」

 といってもいいソーリは、前ソーリの、あの悪名高き、

「安全安心」

 などと言っていた言葉のさらに輪をかけたひどいソーリが誕生していくだけ、

「この国の末路は、ほぼ見えてきた」

 と言われるようなものだったのだ。

 そんなパンデミックもいよいよ佳境を乗り越えたのか、

「ああ、そんなこともあったな」

 と、今だに感染者がそこまで減っていない状態で、国民のほとんどは、

「すでに過去のことだ」

 と思っていたり、ひどいやつは、

「歴史の1ページ」

 というくらいにしか思っていない。

「喉元過ぎれば熱さも忘れる」

 ということわざがあるが、まさにその通りなのだろう。

 今の国民は、ほぼ何も感じない。去年まで、医療崩壊をしていて、

「罹ったら、どうしよう」

 といって焦っていたのがウソのようだ。

 猫も杓子も、ワクチン接種に躍起だったのに、今では、接種率がほとんど上がらない。確かに、

「副反応のリスクを考えると」

 という意見もあるが、昨年のあの医療崩壊を忘れたというのか?

 それを思うと、実に嘆かわしいことであった。

 昨年の猫も杓子もワクチンに躍起だった時期でも、その一部では、

「俺は討たない」

 といっているやつもいた。

 それが、まるで伝染病のように、

「爆発的に蔓延した」

 というのは、実に皮肉なことだった。

 本来であれば、

「笑ってはいけない、シャレにならないこと」

 なのだろうが、もう、ここまで国民がバカの集まりのようになってしまうと、実際に笑いしかでてこないというのが、実情というものであろう。

 そんなことを考えていると、

「考えるだけ、時間と労力のムダなのだろうが、忘れてしまうと、他のバカな連中と同じだということになり、やはり忘れてはいけないことだ」

 という風にしか思えないのだった。

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