揺れる水には映らない

おくとりょう

何でもない夜

 部活帰り。日はとっくに落ちた夜の住宅街。お昼過ぎに降った雨で路面はまだ濡れていた。

 最近変質者が出る噂もある薄暗い脇道。その前で彼はぴたっと立ち止まった。つい「僕もそっちから帰ろっかな?」と声をかけると、ニヤッと笑って僕を見上げた。

「ホンマに?お前、優しいな」

 フードの下ですっと細まる黒い瞳。夜空の星が映った気がした。


 ――――――――――――――――――――――――――――――


「――それで隣の女子に『教えて』って言われたんやけど、僕が説明するより教科書読んだ方が分かりやすいと思って」

「『黙って教科書読んでろ』って言ったん?」

「『黙って読んでろ』とまでは言ってへんけど。授業中やったし。……でも、まぁ、そう」

 チカチカ瞬く電灯の下でクスクス笑う彼。フードの陰で表情はハッキリ見えないけれど、楽しんでいるのが声から分かる。

「もう。笑うんやったら、どうすんのが正解なんか教えてよ」


「ええの?」


 ぴたっと辺りが静まり返った。まるで時間が止まったみたい。僕は少しびっくりしたけど、黙って小さくうなずいた。

 彼はチラッと白い歯を見せると、僕の耳元にそっと口を近づける。

「簡単にパパッと説明して、『分からんトコはまたあとで』って」

 囁く彼から何だか甘い香りがして、自分の頬がポッと紅く染まるのがわかった。思わずパッと彼から離れる。

「あとは二人きりになるチャンスやん。その子のこと、ちょっとは気になってるんやろ」

 彼はちっとも気づいてないみたいで、薄暗いことにホッとした。

「いや、気になっているというか……。そもそも、僕は女の子と話すんの下手やし」

「そんなん、話すんのに男も女も関係ないって」

 彼はガバッとフードをぬいだ。さらさらの黒髪がフワッと揺れて、月の明かりを反射する。長いまつ毛の奥の目はやっぱり星が映ってるみたい。

「ほら、な」

 じっと見つめる黒い瞳。淡いまつ毛は濡れてるみたいだ。薄く微笑む彼の方へ引き寄せられるように近づいた。長く冷えた指が僕の指へと絡みつく。甘い香りが頭を満たし、血液の音がトクトク響いた。


「ばーか」

 冷めた声とともに、冷たい息を吹きかけられた。びっくりしてバッと身体を持ち上げると、「ぎゃーっ!」と後ろから野太い声が上がった。


 何故か僕は水たまりの前で四つん這い。後ろには下半身丸だしの大人の男性。きっと近頃、噂の変質者だ。

 だけど、男は僕に何もせず、わめきながらへっぴり腰で逃げて行った。まるでお化けでも見たみたいに。

 何が何やら分からないまま立ちあがると、いつの間にか、僕は一人きりだった。一緒にいたはずの彼はどこにもいないし、そもそも名前も思い出せなかった。

「やっぱりお前は優しいな」

 夜風に紛れて聴こえた声に振り向くと、さっきの水たまりに月が映って揺れていた。

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