第20話 番外編

「アンナ、新作のお菓子を買って来たよ。一緒に食べよう」

「シオン、本当に気にしなくていいのよ?ルフィナ様と一緒に食べたらいいわ」

「じゃあ3人で食べようか」


そう言うとシオンは侍女に命じて、中庭にお茶を準備するよう指示を出す。居候の杏奈にそれを止める権利はない。

ファルケ伯爵家に身を寄せてから、シオンは隙あらばアンナを甘やかそうとする。


クロードへの嫌がらせが終わればシオンの興味はなくなり、放置されるものだと思っていた。その間に働き先を探すつもりだったのだが、まだ心身共に万全ではないと反対され甲斐甲斐しく世話を焼かれることになるなんて、どうして想像できるだろう。


(あの日、シオンの前で号泣してしまったせいかしら……)


もしかしたらあの時の子供のような振る舞いのせいで、妹のように庇護する存在だと認識されてしまったのかもしれない。


「アンナ、おいで」


複雑な気持ちで差し出された手の上に指先を載せて、杏奈はシオンとともに中庭へと向かった。


「お兄様は本当にアンナ様のことが大好きですわね」


うっとりしたような眼差しのルフィナは現在15歳、恋愛に憧れを抱く年齢である。ルフィナを溺愛しているシオンから、この婚約が期限付きの物だと知らせないようにと言われていた。純粋なルフィナに伝えたくないという気持ちは理解できたので同意した手前、否定しづらい。


「ああ、アンナのように愛らしくて賢く優しい令嬢と婚約できた俺は幸せ者だよ。それにこうして天使と妖精に囲まれてお茶を飲むと仕事の疲れも吹き飛ぶぐらい、何にも代えがたい至福の時間だ」


さらりと美辞麗句を並べるシオンに、杏奈は顔が赤くならないよう必死に今日の授業の内容を頭の中で復唱する。社交辞令をまともに受ければ恥を掻くのは自分なのだ。


「ふふ、何て素敵なんでしょう。私もそんな風に愛してくれる婚約者の方が――」

「ルフィナに相応しい婚約者は俺と父上が探し出すから心配しないでいい。しっかり見極めるのに少し時間がかかるかもしれないが、ルフィナを心から愛し護り抜く相手じゃないと安心できないからね。アンナ、このお菓子はあまり好みじゃなかった?」


兄弟のやり取りを微笑ましく――というには兄側がどことなくひんやりとした気配を漂わせていたが――見つめていると、急にこちらに話が振られて杏奈は少し動揺した。


「……いえ、美味しくいただいておりますわ」

「そう?じゃあこっちも食べてみて」


一口大のブッセを口元に差し出されて、小さく息を呑む。このまま食べるのははしたないが、手で受け取ってしまうのは拒絶のようでルフィナの手前よろしくないだろう。

困った挙句シオンに目で訴えてみるが、楽しそうな表情を浮かべたまま動こうとしない。


期待に満ちたルフィナの表情が視界の隅に映り、小さく口を開けると良く出来ましたというようにブッセを口に押し込まれる。

恥ずかしさに俯きながら咀嚼していた杏奈は、愛しそうにその様子を見つめるシオンと、そんな二人にきらきらとした眼差しを向けながら頬を押さえるルフィナに気づくことはなかった。


「待遇改善を求めます。シオンは私を甘やかし過ぎです」

「婚約者なんだから、これぐらい普通だよ。むしろもっと構い倒したいのに我慢していることを褒めてほしいね」


お茶会が終わり部屋まで送ってもらった際に、杏奈はこれまでに言い出せなかったことを切りだすが、さらりと流される。

いや、それどころか平然と我慢しているなんて口にするので、より悪質ではないだろうか。


「あくまでも期間限定の婚約者でしょ。あまり親密だと婚約解消した時にルフィナ様がショックを受けないか心配だわ」


突如と現れた兄の婚約者に驚きつつも歓迎してくれたルフィナは、シオンの態度を見て恋愛への期待と憧れを急上昇させている。理想の婚約者同士だと思っていた二人の破局に胸を痛めるのは容易に想像できた。

恐らくシオンはそうならないように上手くルフィナを誘導するのだろうが、それならば最初から一定の距離を保っておくほうが良い気がする。


「俺は1年と言わず、ずっとそのままでもいいと思っている。アンナが望んでくれるならね」


そんなことを軽はずみに言うものじゃないと窘めようと顔を上げると、口元は微笑んでいるのに瑠璃色の瞳が射貫くようにじっと杏奈を見つめていた。


反射的に後ろに下がりかけて、ぎりぎりのところで立ち止まる。それは流石に失礼だ。とはいえ、シオンには身体の動きで行動を読まれたらしく、ふっと口角を上げると同時に空気が緩む。


「もう少し時間を置いてからと思っていたけど、俺はアンナが好きだよ。だけどあの男のように君の自由を奪うことはしないし、君の意思を尊重すると約束しよう。残り10ヶ月で俺のことを好きになってもらえるよう全力で口説くから、よろしくね」


瑠璃色の瞳がきらりと光り、優雅に一礼してシオンは部屋から出て行く。


「……え、何で?」


残された杏奈は呆然とした後に、床に座り込む。シオンの言葉を思い出して、じわじわと熱を帯びていく頬を両手で押さえたが、なかなか収まる気配はなかった。



それから一月半、シオンは杏奈をお茶に誘ったり食事を共にすることはあったが、これまでと変わった様子はない。ただの軽口、悪戯の一種だったのだろうかと思いかけた矢先のことだった。


「アンナ、俺と一緒に夜会に参加してくれないか?」


困ったように眉を下げながらも、その瞳は愉快げに輝いている。可能ならば断わりたいが、杏奈が貴族との交流を持たないようにしていることを承知の上での誘いだ。婚約期間が終われば平民として働く予定のため貴族との関わりは却って邪魔になる。無駄だろうなと思いつつも、杏奈は抵抗を試みた。


「出なきゃ駄目?」

「アンナが嫌なら無理強いはしないよ。ただ、アンナは自分の価値を分かっていないようだから知っておくべきかなと。まあ、俺がアンナとダンスを踊りたいというのもある」


笑みを深めて告げるシオンだが、杏奈は警戒レベルを引き上げた。普段は優しくともシオンは聡明で策略家でもある。

きっと杏奈に告げた理由が全てではないのだろう。


「今回限りなら……」

「アンナが望まないことをさせるつもりはないよ。一度きりなら気合を入れて準備しないとね」


表情を綻ばせるシオンに杏奈は複雑な想いで頷いた。


当日用意されたドレスは当然のようにシオンの色だ。瑠璃色の上品なドレスにサファイアのネックレスや宝石の数々に一体どれだけお金をつぎ込んだのかと思うとぞっとする。

期間限定の婚約者なのに、と考えた途端にあの日のシオンのセリフが脳裏によみがえる。


『俺は1年と言わず、ずっとそのままでもいいと思っている』


顔が赤くなった杏奈を不思議そうに見つめる侍女に適当な言い訳をして誤魔化した。


(確かにシオンは素敵だし親切にしてくれるけど、それでも私、ちょろすぎない?)


第一印象は油断ならない人物に尽きる。だけど味方になればこちらが驚くほど力を貸してくれたし、何よりクロードと決別した夜、杏奈の気持ちを理解し寄り添ってくれたのだ。


(でも、私はシオンに返せるものがないわ)


貴族の婚姻は家同士の利益に繋がらなければ意味がない。ヴェルス伯爵家から離れた今、杏奈の身分は平民と同等だろう。


「アンナ、今夜の君は夜の女神のように美しいね。目を離した途端に消えてしまいそうだ」


聞いているだけで恥ずかしくなるのに、シオンは手の甲に恭しく口づけを落とす。


「俺の側から離れては駄目だよ。多くの貴族令息は君に魅了されてしまうだろうからね」

「シオン、もうそれ以上言わないで。お世辞だと分かっていても恥ずかしくなるわ」


お世辞なんかじゃないのにと呟くシオンを放って馬車に向かおうとすると、シオンはそれ以上何も言わずにエスコートしてくれた。


二度目の夜会だが、まったく慣れそうにない。前回に比べて周囲を見渡す余裕は出来たが、やたらと人と目が合うので大人しく進行方向にだけ視線を固定する。


主催者への挨拶も滞りなく終わると、すぐにシオンからダンスに誘われた。予め告げられていたため戸惑いはないが、緊張してしまうのは仕方がない。

こうしてダンスホールに立っているとこちらに視線が集中しているのが分かる。社交界にほとんど出ない杏奈は珍獣のようなものなのだろう。


「アンナ、俺だけを見て。ちゃんとリードするから」


柔らかな微笑みに優しい眼差しはルフィナに向けられていたものと同じで、心臓がおかしな音を立てる。それでも頑張ってなるべく目を逸らさないように踊ったダンスは、いつもより踊りやすく、アンナは自然と笑顔を浮かべていた。



「アンナ」


懐かしいその声に思わず肩が震えた。無視するわけにもいかず振り返ると、クロードの姿がありその表情はどこか固い。


「……ご無沙汰しております、クロードお兄様」

「ああ、お前は……元気で暮らしているか?」

「はい」


ぎこちない会話と空気に、早くシオンの元に戻りたいと思ってしまった。心の準備もなくクロードに会ってしまうのなら、化粧室だろうとシオンに付き添ってもらうのだったと考えて、それは違うと思いなおす。

これは杏奈が対応すべきことだ。


「クロードお兄様、私は今幸せです。お兄様もどうかお幸せに」


アンナはクロードを恨んでいなかった。ただ寂しくて怖くて堪らなかったのだ。擦れ違ってしまった過去はもう元には戻らない。自分の選択を後悔していないが、幸せになって欲しいという想いもまた本心だ。


「……お前がいないのにどうして幸せになどなれるだろう。いや、詮無いことを言った。俺にそんな資格はないな」


疲労感が滲むその声に手を伸ばしたくなるが、杏奈の同情などクロードは求めていないだろう。


「もしもお兄様がご自身の行動を反省しているとおっしゃるのなら、幸せになってください。それが私の願いですから」


クロードの返事を待たずに、杏奈は一礼してその場を後にした。


「アンナ」

「シオン……今日夜会に連れてきたのはこのためなの?」


シオンが先ほどまでのやり取りを見ていたことを察して杏奈はシオンの言葉を待たずに訊ねた。

シオンは小さく首を横に振るものの、完全に否定はしない。


「アンナの価値を知ってもらうためだったのだけどね。会場に入ってからずっと多くの男性の視線を奪っていたのに、本人がそれに気づかないんだから」

「単純に珍獣扱いされていただけでしょう。それよりシオンに見惚れるご令嬢方のほうが多かったと思うわ」


そう告げれば「何言ってんの、こいつ」というような目で見られたが、それはこっちの台詞である。


「まあ今日のところはいいよ。アンナと一緒に踊れたし、君の美しさも魅力も俺だけが知っていればいいからね」

「もう、揶揄わないでよ。そもそも客観的に見たら私よりシオンのほうが美しくて魅力的じゃない。その上で聡明でちょっと腹黒いところもあるけど思いやりがあって愛情深い素敵な人だって――」


思わず言葉が途切れる。普段は表情を変えないシオンが口元を覆い、表情を隠すように顔を逸らしており、髪の隙間からのぞく耳が真っ赤なのは気のせいではないだろう。


「シオン、もしかして照れ――」

「アンナ、それ以上言ったら倍にして返すよ。まったく俺の愛しい婚約者は無自覚な分、性質が悪い」


動揺を隠すように告げた言葉に、今度は杏奈が顔を真っ赤にする番だった。

『俺の愛しい婚約者』、なんて破壊力のある言葉なんだろう。


お互いが落ち着いたところで、自然と手を重ねて出口へと向かう。鼓動はまだいつもより早いけれど、手のひらから伝わる温もりに杏奈は心が満たされていくのを感じていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

彼の過ちと彼女の選択 浅海 景 @k_asami

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ