アリアドネ

野守水矢

アリアドネ

夜が部屋に忍び込む。私は闇の中、テーブルに頬杖をついて爪を噛む。いつからだろう、この癖が始まったのは。両手の爪は不揃いで、剥き出しになった指先は噛み跡で凹んでいる。

私は目を閉じる。もう、ため息も出ない。

右頬を、さっと光が照らした。黒い大きな影はディオニュソスの到来だ。手燭の作る巨大な影がゆらゆらと寝台に向かう。男は私の名を呼ぶ、「アリアドネ」と。

私は左手で椅子の背を握って、よろよろと立ち上がる。寝台の傍で細い紐を解く。白い衣が、音も立てずに滑り落ちる。

汗でぬめぬめとした太い指が、芋虫のように体を這う。全身の筋肉が強張る。犠牲の牛のように重い体が、ずしりとのしかかる。力を入れて瞼を閉じる。獰猛な野獣が雄叫びをあげ、鋭く尖った角を真っ直ぐに突きつける。苦悶の呻き声を誤解したのか、野獣はますます猛り狂う。汗の飛沫を飛び散らせて激しい突撃を繰り返し、巨大な角が体の芯を引き裂く。すえた羊脂のような体臭の混じった、ねっとりとした汗が体に擦り込まれる。私はただ、ことの終わるのを待つ。人生でいちばん幸せだった、あの夜の出来事を想い起こして。


 あの夜は星月夜だった。私は宮殿の外回廊で、柱の陰に潜んでいた。

  角を曲がって男が現れた。星の光が、筋肉質の体躯を描き出す。影だけでわかった。あの人だ。ギリシャ一の勇士は堂々と、まっすぐ歩いてくる。私の前を通り過ぎようとした時、小声で名を呼んだ。

「テセウス」

 テセウスは振り向いて、私を認めた。腰の剣が白く光った。私は手招きして柱の影に呼び込んだ。

「この宮殿は一度入ると出ることは叶いません。それでも行くのですか」

  テセウスは胸を張った。

「私は牛頭の怪物、ミノタウロスを斃しに行く。生還はもとより考えておらん」 テセウスは力を込めて、剣に手を置いた。

「死こそ我が誉れ。剣こそ我が墓標」

「いけません。帰ってきてください。私は帰って来てほしいのです。あなたに、必ず」

 私は提げていた籠から赤い麻糸の糸巻きを取り出した。腰に吊るせば、くるくる回って糸を繰り出す。

「どうしても行かれるのなら、この糸の端を結え付けてください。前に進めば糸巻きは糸を繰り出します。あなたの後ろに道を描きます。あなたは奥にたどり着き、勝つでしょう。その後、糸を手繰って戻ってください」

 私は、糸巻きを自分の腰に下げ、そこから出る糸の先を、テセウスの腰に結えた。

 テセウスは微笑んだ。私は包み込むように、テセウスの両手を握った。

 私は顔を上げてテセウスの目を見た。涼やかな、決意を秘めた勇士の目だった。

「初めの曲がり角は左、次は右に曲がってください。後は、わかりません」

 テセウスは軽く頷くと、迷宮の扉を開けた。

 突き当たりを左に曲がるとき、テセウスは手を振った。私も、手を振り返した。

 テセウスの闘いぶりは知る由もない。ただ、糸巻きは表情を変えて、テセウスの様子を知らせてくれる。カラカラと軽快に回るとき、テセウスは順調に進んでいる。ときには早く、ときにはゆっくりと、糸巻きは回り続ける。

 突然、糸巻きが止まった。闘っているのだろうか。激しく、また弱々しく、糸巻きが震える。糸は床に垂れると、ときには大きく、ときには小さく左右に弧を描く。糸の震えを指に感じ、私の胸にさざなみが立つ。掌に汗が滲む。目を凝らして、糸の動きを見続けた。

 糸の揺れが急に止まった。糸は緩み切って、地面に垂れている。

 勝ったのか、あるいは想像したくない結果だったのか。止まった糸巻きは何を語っているのか。もしや、まさか、いやそんなことはない。天を見上げ、神々に祈る。

 銀河の両岸でベガとアルタイルが煌めいている。この二星は東の国では恋仲だそうだ。二人は逢えるのだろうか。

 遠くで鶏が鳴いた。夜の濃い闇が、少しずつ青みを帯びてくる。ベガもアルタイルも、沈んで見えない。もう一度、鶏鳴が聞こえた。

 東の空が白み始めた頃、タンタンと軽快な足音が耳に入った。テセウスだ! 宮殿の奥に目を凝らすと、曲がり角の陰からテセウスが現れた。右手に巨大な牛頭を提げている。

「テセウス!」

 テセウスは左手の人差し指を唇の前に立て、私に駆け寄るとすばやく腰の糸を解いた。

「追っ手が来る。早く島を出るんだ」

 テセウスは糸巻きに手を置くと「追っ手の目印になる」と、抜剣して糸を切った。そして私の右手首を掴み、港に抜ける道を力いっぱい駆け出した。

 追っ手が角を曲がって駆けて来た。二人は走った。港までは一本道。追っ手は迫る。ただ真っ直ぐに走った。船の艫綱を切ったのは、追っ手が桟橋に駆け寄るのと同時だった。

船は北に針路を取った。穏やかな風が二人を包み、波は明るい日差しを浴びて金銀色に輝く。鴎の群れが船の周りに舞い、イルカは船を導いて泳ぐ。船は軽やかに進んだ。

 二人はナクソス島に船を繋いだ。

 身分を明らかにするものを持たない二人は、港の役人に拘束されて宮殿に引き出された。宮殿の奥には、でっぷりと肥えた豚のような大男が金色の椅子に姿勢を崩して座っていた。ディオニュソスだ。酔っているのか、顔が赤い。その両側に、二人の奴隷女が仕えている。右側の女は背の丈も越えるような大きさの扇で王に涼風を送り続け、反対側の女は、両手で抱え込めないほど大きな甕の前に、人の背丈ほどもある大きな柄杓を持って座っていた。

二人は床に跪かされた。

 ディオニュソスが左手の指で合図を送ると、女は柄杓を甕に浸けてから、ディオニュソスの口元に伸ばした。葡萄酒の香りが、あたりに満ちた。

 この男、何を考えているのだろうか。上目遣いでそっと覗いても、虚ろな目は何も語らない。横を見ると、テセウスの目もディオニュソスを注視している。

 不意に、ディオニュソスの射るような視線が、私の瞳に飛び込んできた。視線は何かを探るように、私の体を睨め回した。やがて、ディオニュソスは、ニヤリと不気味な笑みを唇に残し、テセウスに視線を移した。

 ディオニュソスは再び合図を送り、葡萄酒を口に運んだ。しばらく咀嚼するように口に含んだ後、喉仏を大きく動かした。

ディオニュソスはテセウスに目を向けて、穏やかな口調で話しかけた。

「テセウス。ギリシャ一の勇士にしてアテナイの王子よ。そなたは、いずれ王となる男。どうだ、わしの授ける力を受ける気はないか」

 私はテセウスに顔を向けた。テセウスの頬が少し膨らんでいる。喜びを隠すときの表情だ。ディオニュソスは満足そうに言葉を継いだ。

「やがて、そなたは慈悲深い王となろう。これまで以上に冒険を重ね、ギリシア唯一最高の英雄ともなろう」

 テセウスは恭しく頭を垂れた。

 ディオニュソスはどうして、このような甘い言葉をかけるのだろう。テセウスを味方につけて利用しようとしているのではないだろうか。私の心は穏やかではない。

「どうだ、テセウス。わしの軍隊から兵を分けてやろう。アテナイに向かう船も仕立ててやろう。どうかな」

 テセウスは、嬉しさを隠さずに頭を上げた。

「望外の幸せにございます」

 ディオニュソスは、再び頭を下げるテセウスを見て更に一杯の葡萄酒を飲むと、唇だけでニヤリと笑みを見せた。

「その代わり、アリアドネを置いてゆけ」

 えっ! この言葉は私の意表に出た。私は顔を上げて、ディオニュソスとテセウスを交互に見た。ディオニュソスはニヤニヤして葡萄酒を口に含んでいる。テセウスは一瞬の間瞠目したが、すぐに真顔に戻った。

「どうだ、テセウス。そなたはこれから様々な女と出会い、情を交わすだろう。そのとき、アリアドネはいない方がよい」

 私はテセウスが決然と拒否するものと思っていた。しかし、テセウスはそうしなかった。

ああ、なんと言うこと! テセウスは立ち上がると、ディオニュソスを正面に見て、表情を崩さずに「御意のままに」と一言答えたのだ。

 状況を理解できない私を囚われのままに置いて、テセウスは出て行った。

「テセウス!」

 私の叫びを宮殿に残して、テセウスは去った。まっすぐな道を大股で歩く後ろ姿が涙に曇る。テセウスは、曲がり角を折れて、港に向かった。

 テセウスの前には大洋が広がっているのだろう。でも、そこに私はいない。


 野獣の角が力を失って、ことの終わったのを知った。

 ディオニュソスは力を使い果たした様子で、ゆっくりと出てゆく。ねっとりとした、拭いきれないほどの汗と汚辱が体にまとわりついている。部屋には腐臭が充満している。

 私は足を引きずって窓辺に移る。

窓を開けると、涼風が頬を撫でて流れ込み、汚臭を掃き出した。私は窓枠に肘をついて、ぼんやりと外を見た。

 今夜も星月夜。ベガもアルタイルも見えない。正面には、まっすぐな道が通っている。半ばあたりに、曲がり角が見える。

             (了)

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アリアドネ 野守水矢 @Nomori

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