とあるキッチンカーで……

マサムネ

 とある青年の場合

 男は、車を走らせていた。

 彼は今日、仕事を半日で切り上げた。理由は体調不良だった。熱はないが、仮病というわけでもない。頭痛と強い倦怠感があった。上司も、何日も男が冴えない顔をしているのは気になっていたため、彼が体調不良を理由に休みたいと申し出ても、止めることはなかった。


 原因は疲れ、ストレスであることは明白だった。男には、心当たりもある。もちろん、仕事による疲労は間違いなくあるが、それ以上に子供とのストレスが辛かった。


 男は結婚しており、子供が二人いる。一人は小学生で、もう一人は保育園児。妻も働いており、家事を分担しながら日々を過ごしているのだが、今日も朝から子供と喧嘩してきた。

 早く起きろ、早くご飯を食べろ、早く準備をしろと、大きな声でまくし立ててきた。なかなかいうことを聞かない子供たちは、嫌そうな顔をしながら、時に大声で反抗もしてくるが、それでも何とか通園、通学にこぎつける毎日だ。


 毎日で、疲れた。


 それは、親になれば当たり前のことかもしれない。

 男にその覚悟がなかったわけでもない。もともと子供も好きだったし、育児も家事も夫婦で一緒にやるつもりでいたから、特に文句も異論もないのだが、強いて言えば、子供がこんなにも言うことを聞かないものだとは思っていなかったということだろう。


 家に帰って、少しの間でも、静かに部屋で昼寝でもすれば、気持ちがすっきりとするのではないだろかと、そう考えながらハンドルを握っていた。

 しかし、男はぼーっとしていて、曲がるべきところを通り過ぎてしまった。

(……なんか、うん、本当に、疲れているんだな)

 戻ることも面倒くさく感じた男は、何となくそのまま車を走らせた。


 さして都会ではない風景、田畑ばかりというわけではないが、三階以上の建物はほとんどなく、開けた青空は清々しいものであるはずなのに、何か眉間のあたりには暗雲が立ち込めているような重苦しさがあった。


 気が付くと、隣町まで来ていた。

 そこは、男の実家のある街だった。

 目の前の交差点を曲がると小学校があり、それは男が通った小学校だった。交差点には歩道橋があり、昔そこで階段を踏み外し、足を挫いたことを思い出した。その日は学芸会当日で、足を引きずって出てきた息子を見た母親は驚いていた。歩道橋を降りた先には喫茶店と、少し大きめの駐車場があったが、その喫茶店はもうなく、いまはただの広場となっていた。


(? あれは?)

 そこに、一台、車が止まっていた。いわゆるキッチンカーだ。

 COFFEE

 男が認識できたのはその文字だけだったが、その場所の懐かしさからか、コーヒーのキッチンカーが珍しいと思ったからか、何となくその広場に惹かれ、車を広場の中へと進めた。

 適当なところに車を停めると、男は車外に出た。


KANAU COFFEE


 キッチンカーには、そう書かれていた。

(KANAU……。『叶う』ということかな)

 男は、ふと自分の身を振り返った。

 大きな夢は昔から持っていなかった。ただ、それなりの企業に就職できればいいと思っていたし、人並みの恋愛をして結婚して、今は子供もいる。それは満足していた。

(きっと、夢も希望も、叶っている方なんだろうな)

 なのにいま、なぜこんなにも疲れてしまっているのか。なぜいまの自分の生活を辛く感じてしまうのか、その現実によくわかない悔しさのようなものを男は抱いていた。

 それが、重苦しい。


「いらっしゃいませ」

 男から一段高いところ、キッチンカーの店舗部分から顔をのぞかせているのは、お下げが特徴的な女性の店主であった。

 男は歩み寄ると、手作り感のある看板に張られたメニューに目を通した。

 コーヒーの商品には豆の名前が書かれており、本格的なコーヒーのお店なのだろうと、男は思った。

 もともとコーヒーは苦手なのだが、最近コンビニでカフェラテはよく飲むようになった。それでもまだブラックで飲むのは苦手なため、男は悩みながら、メニューに一通り目を通した。

(まあ、せっかくだしな)

 男はブラジルというコーヒーを注文した。

「かしこまりました」

 店主は笑顔で応えると、手際よくコーヒーを淹れる作業を始めた。

「その場で、一杯ずつ入れるんですね」

「そうなんです。少し時間がかかりますが、お待ちくださいね」

 男は、初めて見る光景を興味深く眺めた。

 そのうちに、目の前のコーヒーの香りが、男の鼻に届いた。

 ブラックは飲まなくとも、コーヒーの香りは昔から好きだった。

 ホッとする。

 店内に掲げられた時計の針は三時を指していた。

 男が何気なく空を見上げると、空一面に広がるうろこ雲が茜色に染まり、とてもきれいだった。

 それは、男が小学校からの帰りに見上げた秋の夕焼け空とそっくりだった。


「えっ?」

 男は、それがおかしなことであると気が付いた。

 季節は十一月。秋が深まってきたとはいえ、まだ空が赤く染まるには早い時間だった。雲だって、さっきまでそんなに目立っていなかった。

 どういうことだろうか、そんな疑問を持つ間もなく、男の脳裏に女性の後ろ姿のイメージが浮かんだ。

 室内。それは男の実家だった。台所に立つ女性、それは母親の後ろ姿。赤い光が空間をそめ、トントントンと、包丁がまた板をたたく音が聞こえてくる。

(母さん……)

 これは、男が子供の頃にいつも見ていた風景だった。学校が終わって、家に帰ってきて、ゲームをしたり、テレビを見たりしてゴロゴロしながら、居間から台所を見たときの風景だ。

 温かい何かが、ふと心に触れた気がした。

 この風景を見ていた時の自分の気持ちに、男はいま気が付いた。子供の頃には当たり前すぎて気が付かなかった感情に。

 それは、安心感だった。

 男の母親は、怒らない人だった。大概のことは好きにさせてくれたし、まず話を聞いてくれた。そんな優しい人だった。その人がご飯の準備をしてくれている。家が、当たり前に自分の居場所である安心感がそこにはあった。

(…ああ、そうか)

 男は、いま自分が、自分の思うようにできていないことに気が付いた。

 仕事のことではない。育児のことでだ。

(僕は、怒りたくないんだ)

 自分を育ててくれた母親のように、子供にやさしく接してやりたいと思っていたはずなのに、そのことを忘れてしまっていた。

 優しく見守ってやること、それが自分のやりたい育児ではないのか?

 自身に問いかけてみると、心が納得しているのが、男自身にも分かった。

(朝からあんなに口うるさくしたくないんだ。自分がしたくないんだからしない。それでいいんじゃないか?)

 確かに、男の母親は専業主婦であったし、彼は仕事をしている。遅刻するわけにはいかないから、せかすことはするだろう。しかし、その違いがあったところで、怒ってよいわけではない。怒る必要性などない。

 子供たちの泣き顔が見たいわけがない。見たいのは笑顔だ。


「はい、ブラジルです」

「はい?」

 店主の言葉で、男は我に返った。

 空はまだ青く、時計は三時五分を指していた。

「どうかされましたか?」

「い、いや別に……」

 夢だったのだろうか? 男には自分の身に何が起こったのか分からなかった。もの思いにふけることもあるが、いまの体験は視覚的なイメージが強く、幻覚を見たと思った方が自然に感じてしまう。

「どうぞ」

 男がコーヒーをなかなか受け取らないため、店主はもう一度優しく声を掛けた。

「え、あ、あぁ、いくらですか?」

「五百円です」

 男は慌てて代金を店主に渡すと、コーヒーを受けとった。

 一口飲むとあっさりとした口当たりで、コクがあり、苦みは少ない。

(でも、やっぱりブラックは苦手かな)

 それでも、砂糖なしで最後まで飲みたい気分だった。

「落ち着きましたか?」

「えっ?」

 店主の言葉に、男は心を見透かされた気がして、思わず店主の顔を見つめてしまったが、店主は何も分かっていなさそうなそうで、笑顔で小首をかしげているだけだった。

「あ、はい、おいしいです。ありがとうございました」

 手元から漂ってくるコーヒーの香りを、男は大きく吸い込んだ

 やはり、ホッとする。

 自分は不思議体験をしたのかもしれない。男はそう思うことにした。

 いま、彼の心の中は、優しい気持ちで満たされていた。その今の穏やかな気持ちが何より大切な気がした。

「またいらしてください」

「はい、また来ます」

 男は一礼し、その場を去っていった。

 車に乗ってコーヒーを一口飲むと、家に向かって車を走らせた。途中、スーパーによって食材の買い出しをすると心に決めたていた。今日は自分が晩御飯を作って、子供たちを喜ばせたいと。


 きっと、男はこれからも同じような悩みを抱くのだろう。そのたびに苦を感じることもあるのだろう。しかしいまは、少なくともいまは、彼の心は秋の空のように晴れやかだった。そして、コーヒーを飲めば、その味が、香りが、穏やかな気持ちを思い起こしてくれるだろう。

 少しのことだけども、大したことではないけれども、ふとしたことで、心がすっと楽になる。そんな小さな気づきに出会うには、少しの隙間と、少しの余裕が必要だ。

 そのための一杯を。

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とあるキッチンカーで…… マサムネ @masamune1982318

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