如月駅 Ep.10

見慣れて、飽き始めた白い天井。経年劣化のせいでひび割れが何本にも入り、亀の甲羅みたいになっている。枕元に寝転がる目覚まし時計に目をやる。ベルが鳴るまで、あと10分。俺は、重たい体を起こし、寝ぼけたぼやけた目で、二週間ぶりの(体感では一日ぶりだが)六畳一間を見渡す。改めて見ると、男一人暮らしであることを差し引いたとしても、ひどい部屋だった。花粉症のせいでゴミ箱はちり紙で溢れており、畳に転がるペットボトルには、僅かに飲み物が残っている。実家から持って来た丸机には100均で買った造花と花瓶。どちらも埃を被っている。その半透明なガラスと机の間に、見慣れぬ紙が一枚、挟まっていた。花瓶をどかして、二つに折られた紙を広げる。


『車両の中で吐きやがって。掃除、大変だったんだからな。明日は休みだ。しっかり体をメンテしとけ。あと部屋、汚すぎるぞ。親愛なる先輩より』と綺麗な文字で書かれていた。細い記憶の糸を辿っていく、が途中で『プチッ』と間抜けな音を立てて千切れる。代わりに大学時代、空手部の先輩に無理やり酒を飲まされたこと、その度に吐き、同級生どころか後輩にさえ嗤われたこといたことを思い出す。部長にぶっかけてから、飲み会に呼ばれなくなったっけ。 


がさつに見えて文字は綺麗なんだな、というどうでもいい感想とともに、紙を折る。


「お礼、言っておかなきゃ」壁際に佇む充電器に目を向ける。うねったコードの先っぽには、TypeーCの平べったい口があるだけで、どこにも接続されていない。『ああ、そうだ』とポケットの中をまさぐる。硬くて冷たい、四角い感触に安堵を覚えた。それを取り出し、電源ボタンを押したところで、彼女の機嫌のバラメーターであるLEDが白く点滅していることに気付く。着信かメールがあったことを示す色。自分の誕生日を打って、ロックを解除する。着信履歴24件、メール36件。なんだ、この狂気染みた数は。『返信、大変そうだな』と思ってメールを開く。二週間分のスパムメールだった。


心配されたいとは思っていないが、変な期待していた自分が情けなくなる。次は、電話の着信履歴。どうせ迷惑電話だろうなと諦めていたが、違った。全て、母からだった。そういや、怪異対策庁に移動になったと報告したとき、えらく心配してくれたっけ、と思い出す。自分がいなくなっても、気付いてくれる人がいるのだと知れて、少し嬉しくなる。


4時間程しか寝られてないせいで、頭が重い。今日は休みのようだし、もう一度眠ろう。先輩へのお礼メールと母への連絡はつぎ起きたときでいいと、まどろみに身を預けようとしたとき、瞼まぶたの裏にスマホのロック画面が浮かんだ。今日は11月29日。転車台に戻って来たのは11月28日。 


あれ?


計算が合わない。


目覚まし時計のヒステリックに高い声が、鳴り響く。俺はベットから跳ね起きた。


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怪異対策庁の車庫では、相変わらず、馬場先輩が車をいじくり回していた。今日のお相手は73式小型トラック。先輩のせいで、無駄にミリタリー系の知識が増えていき、今では機動戦闘車と戦車の見分けがつくにまでなった。トラックの低いエンジンの駆動音は心臓の鼓動みたいで、開いたボンネットから覗くパイプは絡まり合った血管のように見える。先輩が彼女の滑らかな肢体を愛撫し、愛を囁くのを眺めていると、この複雑な無機物の塊に命があるのではないかと思えてくるから不思議だ。エンジンオイルを天然由来のものに変えたら、喜んだりするのだろうか。二人の世界に割り込むのは気が進まないが、こっちも仕事だ。仕方が無い。




「先輩、課長から伝言です。早く書類を提出しろと」先輩は車体を磨く手を止めるが、それは一瞬のことで、再びワックスがけを再開させる。


「整備が終わったら書き始めると伝えてくれ」


「いつ終わるんですか」


「さぁな。二週間もほったらかしにしたせいで、ご機嫌斜めなんだ」先輩は『困ったものだ』とボディーを弾く。『キーン』と鈍い金属音が響く。


「そういや一昨日おとといは大丈夫だったか」それを引き合いにだされると、この話題について沈黙せざるを得なくなる。


「列車の中で吐いた上、掃除までさせて、すみませんでした」


「別にいいよ。頭を上げろ。電話を掛けても連絡つかねぇし、今日も朝いなかったし、心配したんだぞ」


「ありがとうございます」


「午前は半休取ったのか」


「いえ、普通に遅刻です」トタンの壁に掛かった時計を一瞥いちべつする。時計の短針は真っ直ぐ天井を指している。


「寝坊か?」


「いえ……。駅までは行ったんですけど、先日の事件がトラウマになってるみたいでして……。三本見送って、俺はもう電車に乗れないと分かったんです」蛍光灯は点いているのに、薄暗い地下鉄のトンネル。反響する到着メロディー。淡々と流れる人身事故のアナウンス。思い出しただけで、背筋が寒くなる。


「で、重役出勤をかましたわけか」お前もやるな、と先輩は俺の肩を叩く。割と痛い。


「タクシー代って、経費で落ちませんよね……」わずかな望みを託した言葉を、先輩に飛ばす。


「無理だろうな」そいては容赦なく叩き落とされる。


「うちの予算は、かつかつだ。このボロい庁舎を見たらわかるだろ」


「ですよね」出勤するために、六千円使った。退勤するのにも同じ額がかかるだろう。一ヶ月の出勤日が二十日とすれば、一ヶ月、二十四万円。給料のほとんどがタクシー代で消える。


「俺ってなんのために働いているんでしょう」


「哲学的だな」


「そういう意味じゃなくて……」先輩は、納得した、とばかりに手を打つ。


「そういや、お前が入庁する少し前、タクシーに関する怪異がいてな」


「やめてください!」


「タクシーが使えなくなったら、金は減らんだろ」


「俺を引きこもりにする気ですか?」先輩は意地悪そうに笑う。彼にとっては冗談のつもりだろうが、俺にとっては今後の日常生活に影響が出る重大なことだった。


「お前の脚は、何のために付いているんだ」


「マジすか」家から職場まで10kmキロくらい。体力的にきつそうだが、恐怖心を押し殺して電車に乗るよりかは、まだましだろう。


庁舎全体に、正午のチャイムが鳴り渡る。掛けっぱなしのラジオが、エキゾチックな音楽を止めて、『ポーン』と時報を響かせる。そして唐突にニュースが始まった。衆議院の補欠選挙で社会派を気取った後、ゴシップニュースが3つも続く。そこに次の番組まで時間を稼ぐみたいに、ジャンルの違う情報が差し込まれる。


『静岡県、竜爪山の山中に産業廃棄物の不法投棄を行ったとして、廃品処理会社の役員である男二人が逮捕されました。投棄されたのは、遠州鉄道株式会社から処理委託された自動改札機十八台であり、静岡県警は余罪について捜査を行っています』


遠州鉄道……。どこかで聞いたことのある名前だ、と思い巡らせて、その鉄道駅を爆散させたことを思い出す。やはり、あの自動改札機達は棄てられたのか。


「ゲートがないから、不正乗車が横行して、廃棄処分になったらしい」


「詳しいですね」


「昨日はテレビもラジオもSNSも、この話題で持ちきりだったからな」何十人もの人間が死ぬ大事件でも、一日で風化してしまうことに、恐ろしさを感じる。


『続いて、静岡連続行方不明事件の続報です。行方不明となった乗客のうち、一名を除く全員が不正乗車を常習的に繰り返していたことが判明しました。怪異対策庁は事件発覚が遅れた要因に、被害者の入場履歴がなかったことが上げられる、としています』


俺は驚き、複雑な気分になる。恐怖を押し殺して、文字通り命を掛けて助けたのが犯罪者だっただなんて。人の命は平等だが、胸の奥にモヤモヤした綿みたいな感情が詰まる。


「露骨に嫌な顔するなぁ。お前は」


「当然ですよ」彼らを捕らえることが仕事だった身は、役目を果てせず棄てられ、自動改札機の方に同情してしまう。


「どうして、一人だけ普通の乗客が紛れ込んだのでしょう」


「葉純はすみさんのことか。ICカードのタッチが上手くできてなかっただけらしい。料金箱にお金を置いてったから、危害を加えられなかったんだろう」


「怪異が、自身の意思でそうしたっていうことですか?」


「機械にも魂はあるってことだ」 


会話が途切れて、『なんで、こんな話をしているのだっけ』と正気に戻る。そして、書類の催促に来たことを思い出す。


「そんなことより、早く書類を書いてください!」俺は無造作に床に寝そべる、一枚の紙を手に取る。タイトルは『経費報告書』。宛名は遠州鉄道株式。


さて、今回の費用は……。


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弾薬代…………240万円


線路使用料…1400万円


燃料代……     万円


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「あれ?意外と安いですね」山梨で湖を埋め立てたときより、桁が一つ少ない。


「弾薬はそれほど高くはないし、列車砲も対策庁の備品だから費用はかからない。それより、二週間も全線運休になったダメージの方がデカいだろうな」先輩は油まみれの作業着の胸ポケットからボールペンを取り出し、書類の空白を埋める。


「じゃあ、明日から頑張れよ」


「何をです?」


「徒歩通勤」


翌日、五時に起床して、三時間歩いて登庁した。汗だくの俺を見て、言い出しっぺの先輩が一番驚いた。トラウマが薄まるまでの二ヶ月間、五時に起きて一時に寝る生活が続いた。


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怪異行政代執行 @AliceIn

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