如月駅 Ep.9
進行方向が逆になり、先頭から最後尾に格下げされたディーゼル車。その窓をボンヤリ見つめる。長いトンネルを抜けると、ポツっと光が現われる。それは細胞みたいに増殖し、村になり、町になり、街を織りなす構成要素のひとつになった。
戻って来たんだ。夜の浸食を拒む高層ビルが、複雑な影を生み出す雑居ビルが、雲を空へとたれ流す石油プラントが、そう実感させる。フル稼働していた心臓が平常運転に戻り、強ばった筋肉が脱力する。安心したら、吐きそうになってきた。
「情けねぇな。もう、終わったろ」先輩の言葉に嘲りはなく、心配してくれているようだった。
「進行方向と逆向きに立つと、酔う体質でして……」
「じゃあ、こっち向けよ」もっともな意見だ。
「帰ってきたっていう実感が欲しいので……おぇ」
「ここで吐くんじゃねぇぞ」俺は諦めて、体を半回転させる。運転室の窓は二両目の壁以外、なにも映さない。こうなると、飲み込んだはずの不安が、胃酸の代わりに込み上げてくる。俺は本当に元の世界に戻ってきたのだろうか。まだ異界にいる、もしくは元の世界ではなく、パラレルワールドに迷い込んでしまったのではないか。怪異が馬場先輩に成り代わっているということは、ありえないだろうか。そもそも、馬場さんって誰だっけ。
「おーい、しっかりしろー」先輩の声によって、思考の混沌から引きずり出される。先輩の声は普通に聞こえるし、実体もある。
「どうした、急に突っついて?」
「いえ、なにも」俺は伸ばした人差し指を、手首ごとポケットに仕舞う。
「そういや先輩、楽しすぎじゃないですか?」今日一日、散々、恐ろしい目に遭った。電話対応させられたり、自動改札機に驚かされたり、墓地に迷い込んだり、幽霊の一団に出くわしたり。それらの出来事を経験していない人物が若干一名。
「なら、代わってくれるか。踏切の警告音が響く中、ずっと一人でお前らの帰りを待つ任務を」
「あっ、すみません。遠慮しときます」想像しただけで、気が狂いそうになる。
『分かればよろしい』という風に、先輩は鼻を鳴らした。
「おーい、着いたぞ。起きろー」耳元での囁きに、俺は跳ね起きる。その拍子に運転台に頭をぶつけ、眼球の裏に星が散る。唇から涎が垂れていたので、ハンカチでそれを拭う。
「よっぽど神経、使ったんだな。いびき、凄かったぞ」先輩はケラケラ笑いながら、運転席の扉を開く。出発時の寂れた印象とは対照的に、転車台とその周辺は賑わっていた。分岐したレールの上には、戦車や装甲車を満載した貨物列車が連なっていて、出撃のときを今か今かと待っている。もう、全て終わったのに。
線路脇に並んだ仮設テントから、ワラワラ人が飛び出して来る。狙撃銃のようなカメラが、帰ってきたばかりの被救助者を狙う。怪異対策庁の職員は彼らに駆け寄り、毛布を被せ、牙を剝く好奇心から防護する。
「今まで、何をしていた」突然の張り詰めた声に、身が竦すくむ。扉から顔だけをを出す。不機嫌そうに鼻に皺をよせた局長が、信号機の柱にもたれ掛かって立っていた。黒いスーツが夜と混じり、銀色の髪が宙に浮いているように見える。
「2週間も音信不通だったんだ。もう、帰ってこないかと思ったぞ」俺は頭を引っ込めて、スマホを開く。時刻は午後3時、日付は11月28日。最初に救助した女性が、似たようなことを言っていたのを思い出す。如月駅と現実世界では、時間の進み方が違うのだ。
「ご心配をおかけしました」課長は、おそらく敬礼するために上げた右腕を途中で止めて、普通のお辞儀に切り替える。
「無事でよかった」草のざわめきみたいに、小さな呟きは、風に乗って俺の耳に届いた。
「ありがとうございます」課長は姿勢を正したまま、敬礼を解く。
「お前達の心配をしているわけではない。二次災害が酷いと、無人技術推進派が活気づく。それが嫌いなだけだ」そう言う彼女の言葉に、若干の恥ずかしさ、俗に言うツンデレを感じる。
「そうですか」課長はそれに気付かず、言葉を譜面通りに受け取ったようだ。
「それで、その手形。何があったんだ」
「手形……。なんのことです?」課長は列車を振り返る。そして愕然としたように固まる。
再び扉から首を出し、それを捻って自分が乗っている列車を見た。不吉なほど黒かったはずの車体が、赤い手形で、びっしりと埋まっていた。俺はすかさず、首を引っ込める。そして吐いた。胃酸の酸っぱい臭いが嗅覚を殺しにかかる。
「せっかく、ここまで耐えたのに」最後の記憶は、床に広がる自分の吐瀉物と先輩の呆れた声。ここで卒倒したのだろう。記憶は一端ここで途切れる。
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