エピローグ

エピローグⅠ──兄と弟

 子どもの頃──

 空はどこまでも大きくて、広くて。

 世界の中で、自分は、とてもちっぽけだった。



『──カトリーナ、見つけた!』



 城の中庭のすみっこで泣いていたカトリーナは、降ってきた明るい声に顔を上げた。

 自分と同じ褐色かっしょくの肌。くりくりとした黒い瞳に黒髪の子ども──なんでもできる自慢の兄。

 エヴァンダールは微笑んだ。



『ほら、いっしょに帰ろう』


『うん』



 エヴァンダールが差し出してくれた手を握って、カトリーナは双子の兄と一緒に歩き出す。

 空は温かな夕焼け色に染まっていた。



『兄様、私のこと好き? アナリスができなくっても?』


『……? 何だい、アナリスって』



 兄に言われて、カトリーナもハッとする。

 ……なんだったっけ。よく覚えてない。

 エヴァンダールが無邪気に笑った。



『当たり前だろ。たったひとりの妹なんだから』



 そう言って、カトリーナのことを抱きしめてくれる。

 その体温に、カトリーナはまたたいた。


 ……あぁ、そうだ。

 カトリーナは、ただ、抱きしめてほしかったのだ。


 なんにもできない自分でも。

 ここにいていいよって言ってほしかった。

 あいしてる……って言ってほしかった。


 それだけで、明日も、生きていけるから……。



『……あのね、兄様』


『うん?』



 首をかしげる兄に、カトリーナも笑う。

 カトリーナの「一番」は、いつだって決まっている。



『私もね、王子様じゃなくっても……エヴァ兄様のことが大好き!』



 …………──幸せな夢を見た。



「あら、目が覚めましたか? 今日はいい天気ですから、窓を開けましょうね」


「……えぇ」



 看護師が窓を開けて、病室にやわらかな風が吹き込んだ。つんとした冬の空気が、頭にかかる眠気ともやはらっていく。


 亡者と戦うことのない穏やかな日々。

 微笑みを向けてくれる優しいひとたち。

 ──心の奥底で、ずっと求めていたもの。

 満たされている……はずなのに。



 ──……兄様だけが、いない……。



  ☆☆



 深紅の絨毯じゅうたんが敷きつめられた執務室に足を踏み入れた途端、既視感デジャブを覚えた。


 扉の正面──重厚な執務机に向かっている大柄な人影が、ロンディオとりででのジェイド・ルミールを彷彿ほうふつとさせて……。

 それも一瞬で、目の前の人物は瞬きのうちに、新しく即位したグリモア国王──レオンの姿に入れ替わった。



「おぉ。来たか、アスター・バルトワルド。怪我の具合はどうだ?」


「……おかげさまで」



 国王に対するには不敬な態度だったかもしれないが、特にとがめられなかった。室内は人払いがされて、レオンの他には次兄のクリストフしかいない。


 ……式典での騒動から、ひと月が経った。


 アスターは、メルとともに王都リングドールの城下町に滞在していた。

 エヴァンダールや亡者たちとの戦闘で負った怪我がひどく、しばらくは施療院にとどまる必要があったのだ。やっと施療院の退院許可が出て、向かった先がこのリングドール城──新国王レオンの執務室だった。


 次兄のクリストフが、アスターにソファを勧める。怪我の具合をおもんばかってくれているのがわかった。

 アスターは、ありがたくその申し出を受けた。


 全員が席に着くのを待って、レオンは切り出した。



「まずはエヴァンダールとカトリーナの件、深くびる。その上で、尽力じんりょくに感謝する。あんたがエヴァンダールを足止めしていなかったら、被害はさらに拡大していた」


「……やめてください。俺は結局何もできなかった……」



 口の中に広がる苦みを飲み下しながら、言った。

 脳裏では、式典会場に広がった炎の中、カトリーナとともに階下へちていったエヴァンダールの悲痛な叫びが反響している。

 エヴァンダールに伸ばして──届かなかった手。



「エヴァンダールと……カトリーナは?」


「……一命は取り留めたよ。一応は、な」


「…………」



 風の噂では聞いていた。それでも、レオンの口から聞くのは重みがあった。

 無事だ……とは、この国王は言わなかった。


 あのあと──

 エヴァンダールとカトリーナは、崩れ落ちた式典会場の中から奇跡的に救出された。全身にやけどを負った──意識不明の重体で。

 一時は命もあやぶまれたが、その後、快復して意識も取り戻した。

 だが……。



「やけどが治ったとしても、あとは一生残るだろうな。特にエヴァンダールの方は顔の半分が焼けた。……もう似てる双子じゃなくなっちまったな」


「…………そうか」



 ぽつりと、アスターは言った。


 国王を暗殺したジェイド・ルミールに関しては、焼け跡から遺体が見つかった。炎に巻かれての焼死……ではなく、その前に、みずから命を絶っていたという。


 グリモアの第三王子とその配下による国王暗殺、そして王都リングドールのど真ん中に出現した亡者侵攻のニュースは、国内外に激震を走らせた。

 自国を滅ぼそうとした王子と王女──エヴァンダールたちの真意に反して人々の間ではそのように解釈され、諸侯や国民からは新国王レオンやクリストフ王子、マリアンヌ王妃に同情の声が寄せられた。


 生死の境をさまよいながら生き残ったエヴァンダールだったが、当初は、断頭台ギロチン行きが声高に叫ばれた。王位継承権が剥奪はくだつされたとはいえ、この先、不穏分子にならないとも限らない。

 それに断固として反対したのは……他ならぬ新国王レオンだった。



「怪我が治っても一生、幽閉。二度と表舞台に出てくることはありません。カトリーナの方も麻薬アヴァロンの薬物治療とは生涯しょうがい、縁が切れないでしょうね……」



 眼鏡の奥で、次兄のクリストフの眼差しにもうれいが宿る。それは、まるで双子の弟妹きょうだいたちのことを擁護ようごしているようにも見えて──アスターは意外に思った。



「……切り捨てないんだな、あいつらのこと。あんなことがあって……前国王を──実の父親を殺されても?」



 アスターの疑問に、レオンとクリストフの兄弟は顔を見あわせた。交わされた視線に宿った悲痛な痛みの色を、アスターは見逃みのがさない。だが……。



「……他ならぬ父上が、それを望まんよ」


「…………?」



 眉をひそめたアスターに、レオンは髪をくしゃりと掻き混ぜた。



「あー……、その、なんだ。エヴァンダールはな、ある意味、俺たちの中で一番父上に似てんだよ。好き嫌い上等、好きなもんにはまっすぐだけど嫌いなものは容赦ようしゃなく切り捨てる……みたいなところが」


「えぇ。酷薄さというか大雑把おおざっぱさというか……。結局、似たもの父子おやこなんです。だから、あのふたりがわかりあえないのも、わかるんですよ……」



 レオンの言うことに、クリストフも同意する。

 レオンは苦々しく言った。



「……愛情がないわけじゃなかった。ただ、父親として、それをどう表していいか、わからなかったんだと思う。……特に、エヴァンダールたちの母上が城を去ってからは負い目も感じているように見えた」



 実母ははおやをなくした双子の兄妹きょうだいに──どう接していいかわからなかった。気持ちのすれ違いに、見て見ぬふりをした。


 エヴァンダールのしていた魂解析アナリスの研究の実態に長いこと気付かず、麻薬アヴァロンの中毒にさらされた娘の状態を知って愕然がくぜんとし、奴隷たちの犠牲に心を痛めた。そうするにいたったエヴァンダールたちの気持ちも知らずに、結果だけを見て真っ向から否定した──……それでも。


 愛情がないわけでは……なかったのだと思う。


 国王暗殺の罪でエヴァンダールが殺されることを、一番望まないのは、グリモワール三世自身だ。



「……。さすがに国葬前の、身内だけの通夜では母上が取り乱して大変だったがね」


「えぇ。『地獄に落ちろ』だの『忘却レテの河に沈んじまえ』だの、王妃にあるまじき暴言が、そりゃあもう」


「…………」



 マリアンヌ元王妃にとっては、それこそ血のつながらない息子と娘だ。

 エヴァンダールとカトリーナの母が城を去り、残された子どもたちをどう扱っていいかわからなかった部分も大きかっただろう。愛人の子どもたちを「家族」だといって迎えた亡き夫への恨みつらみもあったのかもしれない。



「父上が殺されたのは悲しいしつらい。亡者の被害も死んだ人民も還らん。エヴァンダールたちがしたことはゆるされることじゃない。……けど、俺たちにとっちゃ腹違いでも弟と妹だ。そう簡単には切り捨てられんよ」



 ……俺は父上とは違う、とレオンは言った。



「国王としては難儀な性格なのかもしれんが、自分にとって都合の悪いものを切り捨てるようなことはしない。エヴァンダールがしたことも、カトリーナや魂解析アナリスのことも、この国の弱さだ。光の当たらない影の部分から目を逸らしたら、闇が広がるばかりだ。そんな政治を……俺はしない」



 それは──

 レオン自身の願いがこもった言葉だった。

 エヴァンダールやカトリーナのそばにいながら彼らの気持ちに気付けなかったのは、レオンたち自身のとがでもあるのだ、と。



魂解析アナリスの研究も凍結させる。もう誰もカトリーナや奴隷たちのような苦しみを味わわせない」



 腹違いの弟妹きょうだいたちの犯した過ちも背負って生きていく、その静かな覚悟を秘めたレオンの言葉に──

 アスターは、蒼氷アイスブルーの瞳をなごませた。



「俺は政治のことはよくわからない。……でも、あんたは、いい国王になると思う」


「──あぁ。幸い、有能な弟たちもいるしな。俺が間違ったら正してくれるさ」



 国を背負う重責をその身に負いながら──

 アスターの言葉に、レオンは微笑んだ。



  ☆☆



「ご足労感謝します。また何かあればご一報を」



 長兄レオンの執務室を出たところで、見送りのため一緒に出てきたクリストフが丁重に言った。


 豪放磊落ごうほうらいらくなレオンに、物腰の丁寧なクリストフ、直情型で自信家だったエヴァンダールに、一途いちずで怒りっぽいカトリーナ……。外見の違いを差し引いても、それぞれ性格もまるで違う兄弟だった。


 アスターは目をすがめた。



「……王子のあなたに?」


「弟たちの友人からの知らせなら、喜んで受けますよ」



 当然のことのように、クリストフは言う。

 アスターは目をみはって……次いで、憮然ぶぜんとした。



「……。あいつらの友人なんかになった覚えはない」


「おや、つれない」



 クリストフはくすくすと笑う。

 ……その仕草が、誰かに似ている気がした。

 既視感の正体に思いいたって、アスターは、ふと口にした。



「…………そっくりだな」


「え?」


「腹に何か抱えてて得体のしれないところが、あの双子にそっくりだ」



 クリストフはぽかんと口を開いて……盛大に笑った。



「初めて言われました。やっぱり兄弟なんですねぇ」



 くつくつと笑って、そんなことを言う。

 ──……どことなく嬉しそうだった。



「さっきの、友人って話……」


「うん?」


「メルは友達だと思ってるかもしれないから……何かあれば、できることはするよ」



 視線を逸らして、ぼそりと、アスターはつぶやく。


 その言葉に──

 クリストフは眼鏡の奥で目を細めて、嬉しそうに微笑んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る