第9章9話 父の願い

『アスター、少し休憩きゅうけいするか』


『…………』



 もう剣をとりたくない、戦いたくないと駄々だだをこねる幼い子どもを誘って、男は木陰のベンチに座った。れて熱をもったアザを冷たい井戸水で冷やし、擦り傷にも丁寧に包帯を巻いていく。


 風で木の葉がそよぎ、虫の鳴き声が降ってくる。

 父がブリキのコップに水をんでくれる。

 木陰で飲んだ水は、甘くておいしかった。



『アスター、すべての者が剣をふるえるわけではない。おまえには剣の才がある』


『…………?』



 幼い子どもは首をかしげた。

 言葉は難しかったけれど、いつもは寡黙かもくな父が、褒めてくれていることだけはわかって……。

 自分と同じ蒼氷の瞳が、稽古けいこで見せる冷徹れいてつさとは比べものにならないほどなごんだ。



『いつかおまえ自身が力を欲したとき、それはおまえが立ち上がるための力になる。そのときになって力を使うかどうかは──おまえ次第だ』


『ぼく……しだい?』


『そうだ。力を欲してから、自分の無力に打ちひしがれても遅い』



 それはまるで──

 父自身に、その経験があるような口調だった。


 幼い息子と同じように、かつてはバルトワルド公爵家の跡取りとして育ち、王家のために戦ってきた。様々な苦渋くじゅうめて生き延びてきた。


 だからこそ──

 守りたいものがあっても守れない。

 そんな行き場のない悲しみや怒りを、味わわせたくなくて。

 自分と同じ髪と目の色をした子どもに、ただ幸せになってほしくて……。


 男は蒼氷の瞳をなごませて……微笑んだ。



『剣をとれ、アスター。……おのれのために強くなれ』



  ☆☆



 アスターの頬を、涙が一筋、伝っていった。


 ずっと……──

 父はどこを見ているのだろうと思っていた。


 幼い自分のことを映さない瞳。

 小さな子どものちっぽけな願いも聞き入れてくれず、ただ闇雲に打ち据えるだけの苛烈かれつな剣。

 そのやり方が──すべて正しかったとは思わない。


 けれど……。

 やっと、父の真意こころに触れられた気がした。


 ──ただ自分のために、剣をふるえ、と。

 その力をどうするかは、自分で決めていい……と。

 幼かったアスターがいつか立ち上がるそのときに、自分の足で立てるように、育ててくれようとしたのだと……。


 ぼそりと、つぶやいた。



「…………。……わかりづらいんだよ、バカ親父」


「……? アスター?」



 かすかなつぶやきを聞き取れなかったのか、メルが戸惑ったように言う。


 久しぶりに、晴れ晴れとした気分だった。

 果てしない暗闇の空間は、雲の浮かぶ青空にとって替わっていた。その空を、足元に広がった大地が湖面のように映している。……どこまでも広がるあおの世界。


 こぼれた涙をごまかすようにうつむいて、メルの髪をくしゃりと掻き混ぜたら「わひゃっ!?」と間抜けな声がした。


 泣いていた子どもはもうどこにもいなくて……大人の自分がそこにいた。



「せっかくめかし込んでたのに、ひどい格好だな……」


「……! これは、その、違くて……っ」



 今頃、ズタボロの舞台衣装とその下を走る亀裂が気になったのか、わたわたと胸元を隠したりしている。

 でも、いつしか右手はちゃんとそこにあって、亡者みたいな再生の仕方に、むしろ気味悪そうにした。

 身体中の亀裂が元に戻っていく……。


 思わず、口元をゆるめた。


 地面を見れば、転がっているのは子ども用の丸突剣ではなく、双頭の獅子ししの意匠を施した剣だった。

 拾うと、ずしりとした重みがしっくりとなじんだ。



「……俺も力がほしい。自分の中の大事な想いモノ、守れるだけの強さが。だから俺も戦う……自分のために」


「…………私も」



 はにかんだメルが、アスターが拾ってくれた杖を両手で受け取った──もうひび割れのないまっさらな腕で。


 少し前までは当たり前に見ていた──

 でも、久しぶりに見る陽だまりの微笑み。


 メルは、はにかむように言った。



「アスター、一緒に帰ろう……!」


「…………あぁ」



 アスターは、差し出されたその手をとった。

 ──まるでダンスを踊るかのように。

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