第9章6話 鏡の迷宮

「……う……」



 全身にある切り傷の痛みで、メルの意識は浮かび上がった。


 魂解析アナリスの術式の渦中かちゅう──暗い海の中に沈んだと思ったのに……。目が覚めると、水の気配はどこにもなかった。


 手の中に魂送りの杖があって──

 それだけは唯一、ほっとした。



(……? ここ、どこ……)



 先ほどと違って、ほのかに明るい空間が茫々ぼうぼうと広がっている。

 そして、違うことがもうひとつ──



「……鏡……?」



 四方八方に、大きさもまちまちな鏡があった。楕円のものもあれば、正方形や長方形のものもある。それが茫漠ぼうばくとした空間に浮かんで、メルを取り囲んでいる。


 右を向いても左を向いても、背後でも、鏡面にメルの姿が映る。まるでメル自身の存在が無限に広がっているようだった。



(…………?)



 得たいの知れなさにごくりとつばを飲み込んだ。

 恐るおそる鏡に近付いた。何かあれば、すぐに魂送りの杖をかまえるつもりで……。


 ──降ってきたのは、場違いに明るい声。



「メル、また計算間違えてる……」


「……え……」



 鏡の中で少年が言った。見知った顔だった。

 交易町リビドで別れたはずの、商人見習いの少年……。



「ピ、ピエール!? どうしてここに……!」



 奴隷管理局の追っ手からメルを逃がしてくれた男の子。

 温かいなつかしさが胸にこみ上げて……。


 ──……違う。


 これは鏡だ。現実であるはずがない。

 本物のピエールは、交易町リビドにいるはずだった。……なのに、鏡に映った彼の姿から目が離せない。



「ほら。帳簿のここと、ここと、ここと……ここ」


「ご、ごめんなさい……」


「──ったく、いい加減覚えろよ……──



 メルは瞠目どうもくした──「役立たず」。

 ふらりと、身体がかしいだ。ピエールの言葉は、まるでメルを切り付けるやいばのようで。

 そこへ──



「なんや、メルちゃん。また間違えたんか」


「……っ!? パルメラさん……」



 隣の鏡に映った褐色の肌にサリーをまとった女商人が、メルの方を見てため息をこぼした。



「アスターの頼みやからギルドに置いたったけど、こんなに仕事覚えられへんなら、そろそろ限界やな……」


「……え……?」


「そうだよ、パルメラさん。オレも仕事増える一方だし、いい加減、迷惑なんだよ」



 ……喉が、カラカラにかわいて。

 ふらふらと後ずさった背中が……別の鏡に当たる。その鏡の中からも、声がした。



「奴隷が人間ヒト並みの生活を送れると思ったのですか?」


「!?」



 商人ギルドにやってきた奴隷管理局の男女だった。女の方が小柄な身体に無表情をたたえて、淡々と事実のみを告げる。



「足枷の鎖を切ったところで、奴隷はモノ。逃亡奴隷は国家の所有物もちものです。所詮、実験の被検体にするぐらいしか使い道がないのですよ……」


「ほんとだねぇ、ライザちゃん。早く捕まってラクになっちゃった方がいいのにねぇ……」


「…………っ!? い、嫌……!」



 奴隷管理局の男が、鋼鉄の器具をもって迫ってくる。その追跡からのがれようとしてぶつかった鏡の中にいたのは、輝くような金髪の少女と丸眼鏡の青年だった。



「フレデリカ……さん! ミランさん……助け──」



 フレデリカは憎悪に顔をゆがめた。



「奴隷が近付かないで。けがらわしい!」


「……!?」


「あなたみたいな奴隷と一緒に旅するなんてはじめから嫌だったの。もう限界よ! こんな奴隷上がりの子が花形女優トップアイドルの私と同じ空気を吸ってるなんて虫唾むしずが走るわ。ミラン、なんとかしてよ!」


「僕だって嫌だよ。おまけに奴隷管理局から逃げてきたなんていい迷惑だ。お世辞でちょっと演技を褒めただけで、調子に乗ってのぼせ上がっちゃってさぁ」



 フレデリカとミランは、これ見よがしにくすくすと笑いあった。



「本当よね。ねぇ、あの間抜けな顔見た? 私たちがあーんなシロウト演技を本気で褒めるわけないのにね。あの子がいるだけでみんなの士気が下がるの。邪魔なのよ!」


「そん……な……!」



 目尻から涙がこぼれた。


 ──褒めてくれたのに……。生まれて初めて演技をあんなふうに褒めてくれて……。なのに、心の奥底では軽蔑して、た……──?


 パリン……と音がした。


 見れば、自分の身体が、鏡のように。魂送りの杖をもつ腕に、舞台衣装ドレスの胸元に、足枷のはまった足首に亀裂きれつが走って……──



「……これでもうわかっただろう」


「! ア、アスター……!?」



 捜していたはずのアスターが、鏡の中にいた。


 陽の光の下で輝く金の髪と蒼氷の瞳……なのに、その横顔はメルの方を見ようとしない。いつもは表情の少ない整った顔に、隠しきれない軽蔑けいべつの色がよぎった。



「追ってきたところで迷惑だ。俺にはもうちゃんとした相棒がいる。魂送りもろくにできないヤツは……いらない」


「…………え……?」



 ──別れを……告げられる覚悟で。

 追いかけてきたはずだった。

 アスターが何を選んでも受け入れよう、と。

 なのに……。


 絶望にくずおれたメルの身体は、どんどんひび割れていく。パキリパキリと音を立てて、亀裂が全身に広がっていく。

 その隙間すきまからこごえるような寒さが浸食して、メルの心をてつかせていった。


 アスターの隣の鏡に黒髪の王女の姿が映って……アスターの鏡に移動した。



「行くぞ、カトリーナ」


「えぇ、アスター様」


「ま、待って……! 私、ちゃんと魂送りする……っ。アスターの役に立つから……!」



 カトリーナの闇色の瞳が、またたいて。紅いルージュを引いた唇が妖艶ようえんに微笑んだ。



「亡者にとどめをさすのでしたら、私で十分ですわ」


「!?」


「アスター様の相棒にふさわしいのは、王女の私。魂送りも満足にできない奴隷上がりの小娘になんて務まりませんわ」


「……っ!」



 カトリーナは、アスターに腕をからめる……親しげに。

 絵に描いたように美しいふたりだった。アスターの金の髪と蒼氷の瞳も、カトリーナの褐色の肌と黒髪も、対照的だからこそ、かえって互いの魅力を引き立てあった。

 ふたりは手をとりあって去っていく。



「俺はカトリーナと一緒に行く。おまえとはここでさよならだ」


「……っ! 待って、アスター……!」



 ──バリン。


 一際ひときわ大きな音がして、アスターの鏡に向かって伸ばした腕が、半ばからぽっきり──魂送りの杖をかかげるための右手。



「…………──っ!!」



 全身に亀裂が走って、自分の身体の破片がどんどんこぼれ落ちていく。こごえるような冷気に、メルの存在はのみ込まれていった。

 吐息が、白く凍り付いて……。



(……っ。……あぁ…………)



 …………寒い…………。

 …………──

 …………。


 鏡の中のアスターとカトリーナが去って──


 壊れた人形みたいなメルは、その場に取り残された。

 割れ落ちた右手は、落っこちたまま。亡者みたいに再生してくっつくこともない……。

 涙がとめどなく頬を流れて。心が粉々に砕けていった。



 ──最初から、アスターは言っていたのだった。



うたい手は、いらない』


『俺はおまえが魂送りできなくてもかまわない』



 ……当たり前のことだった。

 アスターには、メルなんかいらない。


 ノワール王国にいた頃には、ルリア・エインズワースという謡い手がそばにいて、グリモアに来てからも王女と相棒を組むほど実力を認められていて──身分違いもいいところだ。


 それでも──


 役に立ちたかったのは、必要とされたかったのは、いつだってメルの方で。そばにいる理由がほしくて。

 だって、そうじゃなかったら。

 私のことなんか誰も……。



「……………………もう、



 とり落としていた魂送りの杖を拾った──左手で。右腕は折れてもう使いものにならないから……。

 その杖を振りかぶって──アスターたちの去っていった鏡に打ち付けた。



「いらない! いらない! いらない! ……もういらないぃぃ!」



 ひとつ、ふたつ、打つたびに、鏡は粉々に砕けていく。ひび割れていく鏡面に、悪鬼のようなみにくくゆがんだ自分の顔が幾重にも映った。


 鏡を砕き終わると、他の鏡も手当たり次第に打ち付けた。鏡の破片が砕け散り、キラキラとしたを描いてメルの身体をも切り裂いていく。


 血を流す傷が、痛みが、かえって胸のほのおを燃やすまきになった。涙を流しながら、夢中で杖をふるった。そのたびにひび割れていく自分の身体のことも、もうどうでもよかった。



「役に立たない私なんかいらない! アスターもいらない! 私のことを心の奥でさげすんでいたみんなも! みんなみんなみんないなくなっちゃえぇぇ……!」



 ──憎い。

 憎い……憎いぃぃ!

 憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い……!

 私を見捨てたこの世界が……憎いぃぃぃ!



「うあぁぁぁぁぁ……っ!」



 バリン、と音を立てて。

 すべての鏡が粉々に砕けていった……。



  ☆☆



 呪符をもつ手が、ピクリと震えた。

 魂解析アナリスの逆解析への抵抗が弱まったのを、カトリーナは冷めた目で見た。



(──……。……術中に落ちた)



 魔方陣からほとばしる禍々まがまがしい光の中では、アスター・バルトワルドだった魂の「解析」が終わろうとしている。

 ……間に合わなかったというわけだ。カトリーナの術中に、無謀むぼうにもみずから身をおどらせたあの少女は。


 奴隷の、足枷をつけた子ども──その存在に、運命に翻弄されるしかないその弱さに、ほんの少しの憐れみを抱いたのは確かだったけれど……。



(どいつもこいつも、兄様に刃向かうからこうなるのよ)



 ずっと邪魔だったあの男も、もうじきいなくなる……。

 清々せいせいした気分で呪符に魔力をこめた。

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