第4章6話 心の種

 奴隷だった頃は、生き延びることしか頭になかった。


 どうやったら怒られないか。

 どう振る舞ったら主人の機嫌を損ねないか。

 ひとの顔色を窺うのに必死で。

 自分の気持ちに目を向ける余裕がなかった。


 でも、今は……。


 誰かに決めてもらうわけにはいかない。

 自分で決めて、自分で責任をとらないといけない。

 そうしなかったとき一番後悔するのは自分なのだから。



「……普通って、難しい……」



 らしくないため息が出た。


 演習場の天幕の片隅で、メルはうずくまって膝を抱えた。脚に巻き付けた鎖がこすれて、鋼鉄こうてつの足枷が黒光りしている。


 足枷は、もうメルの一部だった。

 この重みがあるから、生きてこられた。


 主人に命じられたことをして。

 決められたとおりのものを着て。

 与えられたものを食べる。


 もうそれはしなくていいのだと、自分で決められるのだとわかっている。でも……。


 ──ひとりで立つのは、怖い……。



「……ちょっとちょっと、あんた。ごめん、避けてー!」


「へ? ……きゃあぁぁっ!」



 天幕の天井を見上げたメルの真横に、大人の背丈の倍ほどもある棒が落下してきた。


 悲鳴をあげながら後ずさった。……あと少しずれていたら怪我じゃ済まなかった。

 心臓がバクバクと嫌な音を立てている。



「大丈夫? 今、降りるからっ」



 声は、頭上高くから聞こえてくる。


 ひとが豆粒ほどの大きさに見える遥か高みに、一本の綱が渡してあるのだった。その綱の支柱から声を張り上げて、少女がはしごを降りてくる。

 最後は弾みをつけて、身軽に飛び降りた。



「…………よっと」



 身体の線にピッチリとう練習着の姿。快活そうな茶色い髪をツインテールにして、同じ色のぱっちりとした瞳をメルに向ける。……助け起こした。



「ごめん、怪我はない? ひとがいると思わなくてさ。でも、あんたも危ないよー。演習場でウロウロしてるなんてさ」


「ごめんなさい……」



 メルの方も、ひとりでいるつもりだったのだ。

 まさか頭上にひとがいるなんて思わない。



「……。綱渡りの練習ですか?」


「そうそう。あんた、見ない顔だねー。新入り? ……その様子じゃ事情ワケありっぽいけど」



 メルの足枷を見て、あっけらかんと言う。


 少女は、シィナと名乗った。

 年は、十四歳のメルよりもふたつみっつ上。練習着の上からタオルを羽織り、瓶の水をおいしそうに飲む。



「あんたも飲む?」


「あ、はい。いただきます」



 ……そういえば、フレデリカの個人練習に付き合っていたときから飲んでいない。

 夜気に冷えた水は、渇いた喉を心地よくうるおしてくれた。



「あはは。いい飲みっぷり」


「すみません……」


「よっぽど喉渇いてたんだねー」



 シィナはけらけらと笑う。

 メルの瓶に、自分の瓶を打ち付けた。乾杯みたいに。



「よくあんな高い場所でバランスとれますね……」


「そりゃあね、年季が違うよ。年季が」



 メルのことを新入りだと思っているシィナが言う。事実と言えば事実だから、メルも否定しなかった。



「落っこちちゃうって考えない?」


「考えるよー、考える。もうしょっちゅう。一応、命綱はしてるけどさぁ。そんなの、切れたら終わりじゃんね?」


「…………」



 ……さっきも棒、落っこちてきたしなぁ……。


 安全ネットの存在に気付かず、すぐそばで座り込んでいたメルもメルなのだが。



「……。大怪我するかもとか、死んじゃうかもとか……」


「あはは。考える、考えるー。落ちたら死ぬほど痛いだろうなぁとか、死んじゃうなら、せめてひと思いにとかっ」


「笑い事じゃないです……っ」



 メルのツッコミがよほどツボに入ったのか、シィナはお腹を抱えて笑い転げた。



「じゃあ、なんで立てるですか? あんな細い綱の上」


「んーっ。だって、そこに綱があるから!」


「……へ?」



 シィナは、にへらっと相好を崩した。



「お客さんに喜んでほしいじゃん? 喜んでくれたら、シィナも嬉しいじゃん? もっとやる気出るじゃんっ」


「……。……えーっと」



 …………。

 フレデリカとは違う意味で、単純明快だった。

 メルの思考が、またもやストップした。



「メルちゃんって言ったっけ? ちっこいのによくそんなに考えてるねー。若いうちからそんなに悩んでるとハゲるよ? ハゲてもいいけどねー。生きづらくない?」


「うぅ……」



 自分より年上の少女に頭髪を心配されてしまった……。

 メルはうっかり自分のセミロングの髪をなでた。……大丈夫だ、よね?



「お客さんが喜んでくれるのが嬉しいから……って、理由になるんですか? 踏み外したら大怪我するのに」


「うんっ。だってシィナ、お客さんの笑顔が好きだもん。それって立派な理由だよね?」


「……お客さんが喜んでくれなくても?」


「あはは。メルちゃんは後ろ向きだなぁ。前向きじゃなきゃ、綱渡りはできないんだぞー?」


「…………」



 自分で言った冗談ジョークにウケて、シィナがまたしても笑う。

 バシバシとたたかれた背中が痛くて、水を飲んでいたメルはむせそうになった。



「綱渡りをするときはね、足元じゃなくて、お客さんの笑顔を見るの。……あ。客席のお客さんじゃなくて、ここの中にいるお客さんね」



 そう言って、ツインテールの頭を小突く。客席のお客さんなんか豆粒にしか見えないからねー、と笑いながら。


 ……それもそうか。あんな高いところからお客さんの顔なんか見えない。



「自分のイメージの中のお客さんなら、いつだって笑顔でしょ? 笑顔にできるでしょ? そうしたら幸せじゃん。幸せだったら、怖さなんか吹き飛んじゃうよ」


「そういうもんかなぁ……」


「そうそう。そういうものっ」



 そう言って、シィナはにかりと笑う。



「でねっ、今の自分じゃなくて、綱を渡りきって拍手されてる自分を見るの。そうしたら、自然と足が前に出てね、そのとおりになるんだよー。不思議じゃない?」


「……心配は、頭の中にない?」


「あるんだけど、そっちを見ないっ」



 ……強者ツワモノだった。

 メルはぎゅっと膝を抱えた。

 自分とは住む世界が違いすぎる……。



「……私にはムリだなぁ……」


「えー。そんなことないよ。だってこれって訓練だもん」


「へ?」


「習得できる技能スキル。綱渡り以外にも使えるよ」



 ……習得できる、技能?

 メルは目をみはった。



「メルちゃんはさ、ずっと自分に後ろ向きの魔法をかけてきたんだね。そうするとね、綱渡りできなくなっちゃうの。『できない』の方がおっきくなっちゃって、本当にできなくなっちゃうんだよ。──わかる?」


「……。頭では、なんとなく……」


「あはは。メルちゃんってば頭でっかちー」


「…………」



 なんか、やたらと頭ネタでいじられるなぁ……。

 ほんとにハゲたらどうしよう。

 …………。



「今までもさ、心配しすぎて本当にできなくなっちゃったことってなかった? それって、多分、心配の方にお水をあげすぎちゃったんだよね。自分で心配の種を植えて、育てちゃったの」


「…………え……?」



 シィナの言葉に、さっと青冷めた。

 ──思い当たる節が、あった。



(アスターの役に立つんだ……!)



 ──魂送りをしようとして。



(だって、私には──)



 ──戦っているアスターのところに駆けていったとき。



(──これしか、ないから……)



 ──役に立てない不安を感じていなかったか?


 アスターと肩を並べられない自分を。

 魂送りができない未来の姿を──

 ちらりとでも思い描かなかっただろうか……?



(…………──)



 お腹の底が冷えていく。腰にさした魂送りの杖を無意識になぞった。



「そうするとね、ほんとにできなくなっちゃうの。でも、大丈夫。育てちゃったのは引っこ抜けるから。そうしたら、今度は安心の種を植え直せばいいんだよ。これまで育てちゃった心配を引っこ抜いて、代わりに安心の種をまくの。──簡単でしょ?」


「…………」



 シィナみたいに、簡単にできるとは思えない。

 けれど、それは一筋の光明こうみょうだった。

 魂送りができなくなった──その理由。



「……っ。シィナさん、ありがとう!」


「へ?」



 突然、息を吹き返したように立ち上がったメルに、シィナがきょとんとする。メルはこぶしを固めた。



「私、もう一回やってみるっ」



 勢い込んだメルに、シィナはぽかんとして、次いでへにゃりと笑った。



「おー。なんか知らんけどよかった、よかった。楽しみにしてるわー」


「うん……!」



 ひらひらと手を振るシィナに別れを告げて、メルは駆け出していく。


 鋼鉄の足枷をつけたまま軽々と走っていく少女の姿を見送って、シィナがふと言った。



「……あれ? そういえばあの子、どこの子だっけ?」



 まぁいっか……というつぶやきは、メルには届かなかった。



  ☆☆



「……。……言い過ぎた……」



 テーブル代わりのたるに突っ伏して、フレデリカはどんよりとうめいた。


 楽屋代わりにしている馬車の中だった。

 トレーニングウェアを着替えて、就寝前のネグリジェ姿である。樽の上には、マネージャーのミランがれてきたハーブティーが湯気を立てている。


 飛び出したメルは、まだ帰ってこない。



「でも、私、悪くないわよね……? だってあの子、思った以上にうじうじなんだもの。あのいけ好かない剣士がどうのとか、周りがどうのとか。うん、私は悪くない……」


「こんなとこでブツブツ言ってないで、素直に謝ってくればいいのに……」


「ミランは黙って」



 ぴしゃりと言って、フレデリカはまた撃沈した。ひとりで。


 ……落ち込みの原因はわかっている。


 メルが亡者と戦うかは、メル自身の選択だ。亡者との戦いを知らないフレデリカがおいそれと口出しできる問題ではない。


 フレデリカに、メルが魂送りをする覚悟があるかどうかを問う資格はないのだ。



「……ふふふ。偉そうに言ってこのザマよ……。発声練習で全部ぶちまけちゃいたい。気を失うまで踊り狂って全部なかったことにしちゃいたい……」


「いや、そのワーカーホリック、なんも解決しないから。……メルちゃんのことが心配で、つい余計なこと言っちゃったんだよねー」


「……ミランは黙って……」



 ぐったりと、フレデリカは言う。

 馬車の扉の向こう、軽い足音がした。

 弾むように、どんどん駆けてくる。


 ……戸口に現れたのはメルだった。

 頬を上気させて、一息に叫んだ。



「フレデリカさん。私、やっぱり魂送りする……っ」



 フレデリカは、一瞬、思考停止におちいって──

 樽をバンとたたいて立ち上がった。



「…………。立ち直り、早っ!」


「え? ……え?」



 少女ふたりのやりとりに、見ていたミランが噴き出す。

 転んでもタダじゃ起きない子だわ……とフレデリカは思った。



(第四章・了)

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