第3章2話 逃亡奴隷①──追跡
見慣れたセミロングの髪。首元にかわいらしい花の
でも、客足の落ち着いた商館の二階はガランとして、寒さが足元から忍び寄ってきた。
二階の掃除をひとりで終えて、メルは
見れば、玄関にも落ち葉が溜まっている。今の季節、玄関先の掃除は、
(……。ほうきをとってこなくちゃ)
ぼんやりと思って、外の用具入れに向かおうとしたときだった。視線が、視界の端に何かをとらえた。
……クリーム色の傘だった。アスターの元上司だというジェイド・ルミールが置いていったもの。
あれ以来、雨は降っていない。
メルは、傘を手に取った。
ビーズの飾りを、なんとはなしに指でなでる。
雨が降ったら、これをさして帰ろう。
アスターが護衛仕事から帰ったら……──
(…………。何、考えてるの。メル……)
──もう、帰ってはこないのに。
アスターと暮らしていた宿の
喪失感が、背後からひたひたと歩み寄るようだった。
ぎゅっと目をつむった。
……感傷に浸ったら、ダメ。
泣いたら、一歩も動けなくなってしまう。
アスターがいなくても大丈夫って決めたんだ。
もう自分で選んだんだ。だから──
絶望にのみ込まれたりなんかしない。
……大丈夫。
独りになるのは慣れてる。
なんてこと、ない。
もう一生、会えないわけじゃない。
生きてるんだから、また会える。
なのに──
なんでこんなに慣れないんだろう……?
(…………っ)
ぽつり、ぽつりと──
大粒の水が、傘をもった手に降っていった。……涙。
「…………あ……」
誰かに見られないうちに、慌ててぬぐった。
こんなところを見たら、パルメラさんやピエールがまた心配する──そう思って、事務室の方へチラリと視線をやった、そのときだった。
パルメラが声を荒らげるのが聞こえた。
「──やから、うちには逃亡奴隷なんておらんっちゅうてるやろっ!」
……一瞬で、心臓が冷えた。
待合の長椅子が並ぶロビーの向こう、小柄な若い女と背の高い青年が、部下と見られる数人の男たちを従えて事務室の入り口でパルメラと言い争っている。
青年が手にした
ギルドの職員たちのいる事務室を
「……って言ってますけど。どうします、ライザ課長?」
「ふん。ハッタリだろう。ここにいることはわかってるんだ。十四歳の少女の逃亡奴隷。我々、奴隷管理局から隠し立てすればひどい目に遭うぞ」
──奴隷管理局。
奴隷を商用登録し管理する部署だ。
いったん、奴隷登録がなされれば、その奴隷は生涯、主人の
パルメラが声を張り上げた。
「逃亡奴隷なんか追っかけて、何するつもりや」
「主人の管理下から外れた奴隷は、国の
「せやけど、メルちゃんにはカルドラ聖堂の証書が……っ」
はっと口をつぐんだ。
そのパルメラを、奴隷管理局の女課長は冷笑する。……事実を突きつけた。
「……あぁ。逃亡奴隷の保護者になるという証文のことですか? あんな片田舎の聖堂長の書いた証文が、国家という権限の前に効力を成すとでも?」
「……っ」
「──アーサー。商館内をくまなく捜して。まず手始めにこの事務室から」
「へぃへぃ。……ちょっと通りますよ」
「ま、待ちぃや」
パルメラたちがうろたえる中、アーサーと呼ばれた青年の号令で黒服の男たちが事務室に乱入し、手当たり次第に物色し始めた。
戸棚や扉──十四歳の少女が隠れられそうな場所。
凍り付いたように動けなくなったメルの肩を、背後から近付いてきた誰かがつかんだ。
「……っ! 放して!」
「しっ……。あいつら、まだこっちに気付いてない」
暴れかけたメルは、ほっと肩の力を抜いた。ピエールだった。
ピエールは階段の下の用具入れにメルを連れ込んで、男たちが二階に駆けていくのをやり過ごした。
「……こっちだ。給湯室の窓から逃げられる」
「でも、パルメラさんたちが……っ」
「バカ、自分の心配しろって。あいつらが捜してるのはメルなんだぞ」
「……っ」
ピエールが焦ったように言う。その言葉が、意味をなさない音の連なりみたいに頭を滑り落ちていった。
これまでも奴隷扱いされることがないわけではなかった。建物に入るのを断られたり、そばにいるのを嫌がられたり。でも──
これは……そんな生やさしい事態じゃない。
──国家権力。
政府の機関が一介の奴隷に慈悲をかけるわけがない。
捕まれば最後、生きて戻ってこられる保証なんかどこにもない。
足元から震えがきた。止まらない。
「ピエール。どうしよう、私……っ」
「大丈夫、あいつら絶対足止めするから。メルは逃げろ」
ピエールと一緒に逃げ込んだ給湯室の窓を開けると、外の冷たい風が一気に吹き込んできた。その冷気に、足がすくんだ。
心細さで泣きそうになるメルに、ピエールがベストを脱いで押しつけた。
「パルメラさんと一緒になんとかする。だから、走れ」
「……っ」
押しつけられた服の温かさに、顔が泣きそうにゆがんだのが、自分でもわかった。
でも──
ここにいればパルメラやピエール、商人ギルドのみんなに迷惑がかかる……。
意を決して、給湯室の小さな窓からひらりと身を躍らせた。降り積もった枯れ葉がクッションになって、衝撃を吸収してくれる。身体を起こすと、無我夢中で走った。
(パルメラさん、ピエール。ごめん……ごめんなさいっ)
暗がりへ、暗がりへ。
路地にまぎれこむようにして、ひたすら走った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます