第3章 不死鳥のいざない

第3章1話 前触れ

 ──落ち込むことなんか、ない。

 居場所が、アスターのそばじゃなくなっただけ。


 パルメラさんとピエールはいるし。

 朝になったらまた商人ギルドに顔を出して。

 溜まってる帳簿をチェックして、お客さんへの配達を済ませて……。

 それから、それから……?


 …………。

 ……………………。

 …………おかしいな。


 アスターが宿にいなくても、普通だったのに。

 パルメラさんの家に、荷物を運んで。

 隣の部屋には、灯りも点いてるのに。


 ……どうしてこんなに肌寒いんだろう……?



  ☆☆



「……ピエール」


「んー……?」


「最近のメルちゃん、どう思う?」


「……。どうって……」



 パルメラに訊かれて、ピエールはチェックしていた配達伝票の束から顔を上げた。


 昼下がりの、商人ギルドの事務室である。

 居並ぶ机の向こう、メルが窓口でなじみの商人たちとにこやかに話している。


 当初はメルの足枷あしかせに難色を示す者も多かったが、ギルドの職員たちがメルのことを歓迎しているのもあって、常連客たちも次第に抵抗を示さなくなった。


 ……それはいい。メルがギルドに溶け込んでいるのは。

 問題は、その光景があまりにも自然なことだった。


 アスターが王都リングドールに旅立ったあの日以来、パルメラもピエールも、メルが気落ちしているところを見ていない。

 そのことに、どこか薄ら寒いような違和感を覚えた。


 あの日以来、メルは、アスターのことを一言も口にしない。まるで彼が最初からいなかったかのように……。


 パルメラが、ウェーブのかかった黒髪を掻き上げた。ため息をついた。



「ありゃ、あかん。どっからどう見ても強がりやろ。……ピエール、なんとかしぃや」


「パルメラさんにできないことを、オレがなんとかできるわけないでしょ……。まして──」



 ──アスターさんでもないんだし……。



 その言葉を、ピエールはぐっとのみ込んだ。


 あの日、メルに何もしてあげられなかった。

 なぐさめる言葉ひとつ見つからない──そのどれも、メルが必要としていないのが、わかってしまった。


 メルが奴隷としてどんな年月を過ごしてきたのか、ピエールは知らない。


 どんな残酷を、どんな残虐を、その目で見てきたのか。

 それはピエールの想像の範疇はんちゅうを超えていて、おぼろげながら伝え聞いても、到底理解してあげることなんかできない。


 あの華奢きゃしゃな身体で、これまでにも、どんな絶望にえてきたのか……。



「…………」



 黙って書類仕事に戻ったピエールを、パルメラはしげしげと見た。



「あんたはあんたで、最近、急に仕事やる気出すし。どないしたん?」


「……。メルの分も、ちょっとでも進める。これぐらいしかオレ、できることないし」



 配達台帳に目を落としたまま、やさぐれ気味にこぼした。殊勝しゅしょうな態度で、メルみたいなことを言う。パルメラは感動した。



「──いやぁ、天地がひっくり返る前触れかと思ったわー。……どっかで頭でも打った?」


「ひとがせっかくやる気出してるのに、ひどいっ」

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