第2章5話 旅立ち
出発の日は、ちょうど、メルがピクニックに行こうと言った日だった。
開け放たれた窓の外で、紅葉がものさびしく揺れている。
宿の個室で、最後の荷物をずだ袋に突っ込んで、アスターは立ち上がった。
腰にさげた剣の重みをしっかりと感じる。
柄に施された双翼の獅子の意匠が見返してくるのを、指先でそっとなでたとき──戸口で、ノックの音がした。
アスターは氷蒼の瞳をちらりと向けて、了承の代わりにした。
もともと鍵は開けてあって半開きだ。メルが帰ってくるかと思ってのことだったが……立っていたのは若い女だった。
パルメラは南方の民族である証の
「支度は済んだ?」
「ああ。もともと荷物もそんなに多くないからな。……世話になった」
パルメラは黙って肩をすくめた。
柔らかなカーブを描いたくせっ毛の黒髪が肩口で揺れる。
もともとアスターがひとつの土地に長くいる
けれど、今回の場合は、事情が違った。
目の前にいる金髪蒼眼の剣士を見つめながら、パルメラは唇を引き結んだ。
世話になった、なんてありきたりな礼を聞くために来たのではない。
──肝心なことを、訊いた。
「メルちゃんは? ……役に立たへんから置いてくの?」
パルメラの冷めた声音に、アスターは蒼氷の目元をすがめた。
ふたりの他には誰もいない宿の一室には、メルの荷物だけが残されている。
持ち主のいないまま縮こまるようにして置かれたリュックとポシェットが、窓辺でぽつんと身を寄せていた。
☆☆
アスターが荷造りを済ませている間、メルは海岸沿いを歩いた。
白くて冷たい
……泣くかと思った。自分が。
でも、涙は一滴も出てこない。
心が死んでしまったみたいに、何も感じない。
(……──)
そのまましゃがみこんだ──そこへ。
「メル……!」
息を切らせた少年が駆けてきた。
メルは名前を呼んだ。ぼんやりと。
「……ピエール。どうしたの、そんなに慌てて……」
「どうしたじゃないよ。こんなとこで何やってんだよ。アスターさんと一緒に行くんだろ」
「……行かないってば。何度言ったらわかるの」
「でも……っ」
言いかけたピエールが、ギクリとした。
表情のない目。抑揚のない声音。感情というものを、どこかに置き去りにしたメルの姿を、初めて見て。
けれど、メルにとっては慣れ親しんだ感覚だった。
仲間だった
「私、アスターがいなくても平気だよ。ギルドの手伝いもあるし。しばらくパルメラさんのところに置いてもらって。それから──」
「……っ! 平気なわけないだろっ。ムリしてるのぐらい、わかるんだからな。アスターさんだって、メルが一言『連れてって』って言えば──」
メルは唇を引き結んだ。
「…………ムリだよ」
「な……っ」
「遊びにいくわけじゃないの。今までの旅暮らしとはわけが違うんだから……」
アスターは──
私なんかとは違うんだから……。
淡々と、メルは言う。虚無の瞳だった。
ピエールは顔をゆがめた。
「何……言ってんだよ。そうやって勝手に距離作るのかよっ。アスターさんがそんなこと気にするわけ──」
「でも、私、足手まといになりたいわけじゃないっ!」
声を張り上げたメルに、ピエールが絶句した。
「アスターと一緒に王都に行って何するの。日がな一日、アスターの帰りをおとなしく待ってるの? ついてったって足手まといになるだけだよ。ここにいれば、パルメラさんの手伝いができる」
「……それで本当にいいのかよ?」
ピエールが悲痛な顔をした。
「アスターさん、行っちゃうんだぞ。魂送りしてくれるから一緒にいるんじゃないってこと、なんでわかんねーんだよ!」
「でも、王都に行ったって私には何もない。アスターが戦ってるのに、ただ帰りを待つことしかできない。私、そんなことがしたいんじゃない……!」
──「私も連れてって」。
そう言えたら、ラクなのに。
アスターと肩を並べたかった。一緒に戦いたかった。
でも、そうするにはあまりに遠くて……。
そばにいたい。
足手まといになりたくない。
アスターの可能性をつぶしたくない。
苦しい……苦しい……苦しい……!
「だから、これで……っ。よかったんだよっ!!」
しぼり出すようなメルの叫びを、冷たい木枯らしがさらっていく。
波が一際高く弾けて、メルの足元を濡らしていった。
☆☆
……これでよかったんだ。
メルに見送られて、ジェイドとともに馬車に揺られながら、アスターは何度も自分に言い聞かせた。
滅んだノワール王国に代わってグリモアの王都に行き、また葬送部隊の一員として亡者と戦うのだ。仕える国は違っても、ノワール王国にいた頃と何も変わらない。何も……。
馬車の対面に座ったジェイドが眉根を寄せた。案じるような響きで。
「なぁ、アスター。部隊入りを引き受ける条件、本当によかったのか? ……一緒にいた女の子の足枷をとるなんてことで」
「……えぇ」
アスターはうなずいた。
物理的にとればいい、という問題ではない。
奴隷の足枷をとれば、逃亡
奴隷という身分から解放しなければ意味がないのだ。
……一介の放浪戦士にできることには限りがある。
足枷がとれれば、メルも普通の生活ができる。
昼間は商人ギルドでパルメラたちの手伝いをし、休日はピエールや友人たちと出かけて、自分の道を自分で選ぶ──魂送りができないことを悔やみ思い悩むこともない──普通の少女としての暮らしが。
たとえメルを王都に連れていったとしても、アスターには亡者との戦いしかない。
戦いに巻き込むことしか、できない……。
「パルメラにもあとを頼んできた。……あいつにはきっと、その方がいい」
「…………」
胸に巣くったさみしさには見て見ぬふりをして、アスターはひとりごちた。
馬車の窓から外を眺めたままのアスターを見ながら、ジェイドがひそやかにつぶやいた。
「……よかったな。そんなに大事な子ができて、さ」
ふたりを乗せた馬車は一路、王都リングドールを目指して走っていった。
(第二章・了)
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