第2章4話 「いってらっしゃい」

 その日の夜──

 アスターと一緒に宿に帰ってからも、メルはぼんやりと物思いにふけっていた。

 ノワール王国時代の上司だったというジェイド・ルミールの話が頭から離れない。



『──おまえの活躍には期待してるんだ』



(…………)



 身なりも立派な騎士が、あんなふうにアスターのことを話すのを初めて聞いた。


 どこの馬の骨かわからない傭兵ではなく、旅慣れた放浪の剣士でもなくて。

 葬送部隊で活躍し、防国の双璧を担っていた頃のアスターの姿を垣間見ているのが、ジェイドの語る言葉の端々から感じられた。

 それを思い出しては、ぽつりとつぶやいてしまう。



「やっぱり、アスターはすごいな……」



 ──……自分と、違って。

 そんな思考が、頭をもたげた。


 旧ノワール王国では、王子と親しく話せるほど身分の高い貴族であり、国の存亡を担って第一線で活躍していた『防国の双璧』──本来、他国グリモアの……しかも、奴隷上がりのメルでは話しかけることもできないような雲の上の存在だ。


 そのことをまざまざと見せつけられたようで……。



「……メル。焦げ臭くないか?」



 アスターに声をかけられて、はっと我に返った。

 宿の一階にある共同の炊事場からメルが戻ってこないのを気にして個室へやから降りてきたのだ。


 手元の鍋を見る。

 慌てて掻き混ぜると、鮭の欠片の浮いたミルクスープが鍋底で焦げ付いていた。



「ごめん。ぼーっとしてて……」


「バケットも焦げてるな……」


「あぅっ」



 ……忘れてた。

 アスターが、トースターの中で焦げて炭みたいになったバケットをしげしげと見て、何も言わずに、皿に並べる。

 メルはなんだか消え入りたくなった。



「ごめんなさい……」


「俺は食べるけど。おまえは?」


「……。……食べる」



 焦げたパンとスープは、旅慣れたはずのメルの舌にも苦かった。

 アスターも心なしか眉間にしわを寄せながら食べている……気がする。



「私ってば役立たず……」


「……。気にするな。これぐらい傭兵暮らしで慣れてる」


「……そこと比べてもらっても……」



 食えればなんでもいいと、カブを丸ごと生のまま食事に出すような猛者もさたちだ。



「……ノワールの葬送部隊にいたとき、戦闘糧食コンバット・レーションにひどいのがあってな。見た目はチョコレートなんだが、食べてみるとぐっちょりねっとりしてて、苦いしまずいし食えたもんじゃないっていうのがもっぱらの評判で……」


「それ、全っ然フォローになってないから……っ」



 むっと、アスターが眉根を寄せる。何が失言だったんだろうという顔だ。

 ……それを見て、思わず頬がゆるんだ。



「あー、もう……。いいです。次は絶対、おいしいの作るから。──そうだ。アスター、今度のお休みあいてますか? ピエールがピクニックに誘ってくれたの。紅葉がとってもきれいな公園があるんだって!」


「……」


「あ、もちろんパルメラさんも誘って。アスターが一番、お休みが合わないだろうから、アスターの予定に合わせようって話してたの。私、ピクニックって行ったことないから楽しみで」


「……」


「お弁当、何がいいかな? 卵と燻製肉ハムのサンドイッチとか? リンゴのサラダも作ろうと思ってるの。あとは──」


「……」


「……──アスター?」



 ……ひとりで浮かれすぎただろうか。

 にわかに不安になって、メルは口を閉ざした。

 炊事場のテーブル越しに、アスターは瞳を逸らして、メルの方を見ようとしない。



「……あの、勝手に話を進めてごめんなさい。アスターにだって都合があるのに……」


「……。……いや、悪い」


「ううん。こっちこそ、ごめん……」



 メルの謝罪にアスターは何かを言いかけて、結局、不器用に口をつぐむ。

 スープ皿の底を掻くスプーンのかすかな音が、ふたりきりの静かな部屋に響いて──

 ……やがて、アスターが静かに口を開いた。



「──グリモアの葬送部隊に、呼ばれてるんだ」


「……え……」


「今日、ルミール隊長から直々に話があった。自分が町にいる数日内に返事が欲しい、と。……もし所属することになれば、この町を離れることになる」



 ──頭が、真っ白になった。

 立派な身なりの騎士が、アスターに会いにきた、その理由……。



「…………」



 アスターの蒼氷の瞳が、迷ったように揺れる。

 メルに切り出すかどうか、散々考えたのがわかった。

 自分のためではなく、メルのことを想って──

 そのことが、わかってしまった……。



(…………)



 ……メルは、テーブルの下でこぶしを固めた。



「…………よかった」


「……メル?」



 アスターがいぶかしげに眉をひそめる。

 メルは……にっこりと笑んだ。



「よかったね。そうと決まったら、お祝いしなくっちゃ。こんなすごい話ってないもん」


「メル……」


「出発の前の日は奮発しますね! 何がいいかな? アスター、この前、蒸し鶏の香草焼きおいしいって食べてたよね。ラム肉のシチューも……」


「……」


「あ、大丈夫。お金なら、商人ギルドのお手伝いでもらった分があるから。たまには私も──……」


「俺は、この町を発つ。しばらく帰れないと思う。……おまえは、どうしたい?」


「──……」



 これを訊かれるのは、二度目だった。

 一度目は、奴隷時代の主人だったザイス・ベリウザールと再会したとき。

 あのときは、自分の答えなんか決められなかった。


 でも──


 今は、決められる。

 自分で決められるように……なった。

 そうしてくれたのは、導いてくれたのは、他でもないアスターで──

 ……だから、きっと……。

 ──……後悔なんてしない。



「…………。私、アスターがいなくても平気だよ」


「……。……メル……」



 メルの言葉に、アスターが言葉にまって言いよどむ気配がした。


 でも──

 これを逃したら、もうチャンスはないかもしれない。

 アスターは行くべきだ。

 こんなところでくすぶっていていいひとじゃない。

 アスターは、奴隷上がりの自分なんかとは違う……。


 メルは顔を上げた……笑顔で。



「──いってらっしゃい、アスター」



 焦げ付いたスープの後味が、舌をざらつかせた。

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