初恋

葩垣 佐久穂

初恋

 私は少年の一時期を祖父母の住む田舎で過ごした。深い緑と澄んだ川の流れる素晴らしい場所だった。そこに住む人はみな優しく、私の幼いわがままを嫌な顔一つせず聞いてくれた。

 なんの催し事だったか、ある秋に食べた山盛りの野菜と猪肉を超える食事にとうとう出会うことはなかった。

 私のこの村への思い出も月日が経つほどに薄れてきている。しかし、一つだけ何年たとうと脳から離れない思い出がある。あれは2月の終わりごろ、39度ほどの高熱を出した日のことだ。

 私は祖父母に風邪をうつさないよう一人で布団に入っていた。収まる気配のない倦怠感に酷い頭痛、泣き言を言いたくない愚かな少年のプライド。

 私は眠れない夜を過ごしていた。

 風が吹き、戸が揺れた。

 森の木々がざわめく音がする。

 静寂が訪れる。

 私はとうとう眠りについた。


 扉を開く音が聞こえた。

 目を開くと、黒い髪を長く伸ばした少女が目を見開き興味深そうに私の顔を覗き込んでいた。

 私は彼女と何かを話した。

 確か、好きなものはなんだとか、何でここにいるのかとか、なんの変哲もない世間話であったと思う。そして、明日も話そうと約束し、別れた。

 翌日、彼女は約束通り来てくれた。縁側に太陽の光を受けて座る彼女が忘れられない。

 風邪をうつさないよう離れてしゃべるしかなかったのが残念だった。

 翌日も、その翌日も彼女は縁側にきて布団の上の私としゃべってくれた。もっと彼女と話したい、一緒に川遊びや山へ遊びに行きたい、その一心で私は風邪を治した。

 次の日には医者がやってきて診察をしたかと思えば、しばらく離れて暮らしていた両親もやってきて、都会へ帰るのだと嬉しそうに宣言した。

 私は少しうれしかった。正直、この村での生活も飽きてきて、娯楽にあふれた都会へ戻りたくなっていたのだ。ハイウェイを走る車の中で昼寝をしていた時、一つの重要なことに気が付いた。彼女へ別れの挨拶を済ませていなかったのだ。母に涙ながらにそれを訴えると、手紙を書くことを勧められた。私は彼女に裏切りだと思われないか少々不安ではあったが、母の提案はもっともだと受け入れた。

 別れの寂しさ、挨拶をできなかった悲しさより、どんな手紙を書いたら喜ぶだろうという考えでいっぱいだった。


 あの村での生活から15年がたったある日、私は行きつけのbarである女性と知り合った。都会に染まりきっていない素朴さはどこかあの日の少女を彷彿とさせ、私は徐々にひかれていった。彼女も私に恋心を抱いていたようで、出会いからわずか一か月で私たちは交際を始めた。デパートの店員をやっている彼女とビジネスマンの私では、あまり長い時間を過ごすことはできなかった。仕事帰りに、少ない休日を使って、ある時は上司に嘘をついて、私たちはかけがえのない時間を大切に使い、とても楽しい日々を過ごした。

 それは楽しい日々であった。だが一年が経とうとしていたころ、私は物足りなさを感じていた。

 彼女は素朴さを持っていたが、時間が経つほどにうすれていった。

 その分垢ぬけて美しくなっていったが、例の少女にはとても及ばなかった。

 素朴さも失い、少女ほど美しくない彼女に私は愛を向けることができなくなった。


 彼女と別れてから3年が経った頃、私は某市の再開発プロジェクトを任されていた。

 どうやらある政治家のお膝元のようで成功すれば昇進間違いなしだと言われ、上司や同僚にはひどく羨ましがられた。

 この時の私は出世に興味がなかった。

 その無欲さが功を奏したのか、プロジェクトは本来の想定通りに完了した。私は昇進し、政治家のA氏とそれなりの関係を持たせてもらうことになった。世間一般にこれは素晴らしい、夢のようなことなのだろうが、当時の私にとってはそれほどでもなかった。

 なにか空虚な感じがしたのだ。

 働いている間はその穴を埋められる気がして私はがむしゃらに働いた。真夏のよく晴れた日、私は会社の入り口で倒れ、病院に運ばれた。医者が言うには過労と熱中症だそうだ。一週間の入院と2か月の療養を命じられた。仕事で気を紛らわせていた私にとっては懲役刑を言い渡されたようなものだった。

 そんな地獄にも一輪の花は咲くようで、看護師と私は恋に落ちた。

 彼女はとにかく美しかった。あの少女と比べても劣らないほど美しかった。

 初めの一二か月は少女への考えが胸の中にあったが、それも徐々に消えていった。彼女の美しさがあれば、記憶の少女など問題ではなかった。

 一年が経った頃、ある噂を耳にした。

 彼女は私の金や地位目当てで近づいたというのだ。確かにこのころの私は同期にくらべ出世は早く、高給取りであった。

 私は彼女を信じた。

 しかし噂は真実であった。

 私の心に少女が戻ってきた。

 美しさだけでなく、純朴さ無邪気さをまとったあの子が胸を再び占領したのだ。

 だから彼女を失うのに躊躇はなかった。

 美しさだけの女などあの少女にかなうわけがないのだ。


 あるパーティーでこのことをA氏に話すと、彼はいい勉強代になったと景気よくとてもうれしそうに笑った。直後、彼は私に娘を紹介した。蝶よ花よと育てられたという美しい女だった。

 私は女に失望していた。

 どんな女も田舎の村にいるただの少女にすら劣る存在だと実感していたからである。とはいえ、A氏の紹介を無下にすることはできなかったので、数日後料亭で食事をすることとなった。着飾ってやってきた彼女は、安物のくたびれたスーツを着た私に文句を言うこともなく笑顔で挨拶をした。一言でいうと彼女は今まで出会った女性の中で2番目に素晴らしいと思えた。美しさは看護師の女を上回り、barの女以上に素朴で素直であった。

 さらに、頭もよいときた、私は非常に好感を抱いた。A氏にその旨を伝えてからは早かった。何もしなくとも役所の手続きは終わり、数言話せば式も終わっていた。

 私は勤めていた会社を辞め、A氏の秘書となった。

 良くしてくれる義父に、家に帰ればうまい食事を作って待っている妻。

 私は満ち足りていた。

 こんな生活が5年続いたある日、私は妻に初めて声をあげて泣かれた。

 自分がどんなに愛を注いでもあなたはどこか遠い場所を見ていて一向に私を見てくれない、といった内容だったと記憶している。

 私には心当たりがなかった。正確には気づいていなかった。満ち足りた感情も妻への愛情も一種の幻覚だったのだ。

 妻にはすべてを話した。

 彼女は義父に秘密にすると約束してくれた。


 それから私は思い立ち、あの少女を探すことにした。

 幸いにして探偵やその手の人間は義父に紹介してもらえばいくらでも手配できた。

 あの村を中心に徹底的に調査をさせた。

 が少女につながるなにかは見つからなかった。

 私が出した手紙も受取人不明として処理されていた。

 6年で調査は何も得られないままに打ち切られた。

 同年、義父が自宅で倒れた。

 幸いにも命に別状はなかったものの、政治家を続けるのは難しいと診断された。彼には実の息子が2人いたが、彼らを差し置いて私が後継者に選ばれた。権力を正しく使うことができるから、というのが彼の口から語られた理由だったが、真実ではないのだろう。

 こうして、私は政治家となった。

 私は権力を求めた。そう、少女を探すためである。この国のすべてを使えば少女の一人見つけられないわけがなかった。

 5年が経ち、私は党の中堅あたりまで力を伸ばした。まだまだ足りなかった。

 さらに7年が経ち総理候補と呼ばれるまでになった。

 その4年後私はこの国のトップとなった。何人かライバルがいたが、彼らは女性問題で次々と脱落していった。

 私は薄布をまとい汚らしい動きをする女、耳元で醜悪な声を出す女などに見向きもしなかった。

 国家権力は偉大だった。

 世界一優秀と称される我が国の警察組織に少女捜索の命令を与えることができた。どんな障害も黙らせるだけの金と力があった。

 私は表向きは素晴らしい指導者としてふるまった。失脚して捜索を止めるわけには行かなかったからだ。

 15年後、惜しまれながら総理の椅子を下りた。私はもう少女を探し続ける気力を失った。

 それからの8年間は生涯の中で最も心落ち着く時間を過ごすことができた。

 私は記憶の中の少女とあの村で遊び続けた。金を無心するもの、権威を借りようとするもの、私利私欲のため私を利用しようとする者は幾度となく現れたが、すべて望むようにしてやった。

 記憶の世界に金や権力など持っては行けないのだ。

 それよりも失望に溢れた現実から一秒でも早く離れるためにはこれがもっともよかった。

 私に残ったのは個室の病室、そして一人の秘書だけだった。


_____________________


 私は、お世話になった元総理大臣B氏が危篤ということで病院へ行った。

 ここ数年は会うことさえ嫌がられていたので驚きであった。

 病室に入ると、政治家から財界の人間までB氏と親交のあった人が多く詰めかけていた。

 我々若手にとっては力の象徴のような存在であった先生が言葉を発することが出来ぬほど衰弱しているのはショックであった。

 そんな状態でも最後に一言だけ言葉を発した。

 先生の最後の言葉は「やっと会えた」であった。

 私たちは誰一人その意味を理解できなかったが、奥様だけが悲痛な声を上げ泣いていた。

 先生は何に会うことができたのだろう。

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