無冠の帝王

taaad

無冠の帝王(1993年)

 今になって考えてみれば、私が初めて強敵と呼べる男に出会ったのは、大学卒業をちょうど半年後に控えた9月であった。浪人時代の1年を加え、電車通学歴7年6カ月。通称、”ドルフィンズ・キャップのナオ”。当時、JR京都線はほぼ手中に収めていた。乗車マナーなら、電車通勤二十数年の強者サラリーマンにだって負けはしない。改札の通過、ホームでの待ち方、乗車から座席の座り方、あるいは吊り革の持ち方に至る身のこなし、ラッシュ時の態度、云々。すべて私にかなう者はいなかった。あの運命の、1993年9月24日金曜日、午前9時53分までは。


 私はゼミに出るべく、大学への電車通学に臨んだ。ふっ、完璧だ。週1回の通学、そして長い夏期休暇さえも、私の技術を鈍らせることは出来なかった。座席に空きの見られるこの時間帯に敵はいない。と、次の停車駅でのことであった。ウディ・アレン著『これでおあいこ』、伊藤典夫・浅倉久志訳、河出文庫、購入時価格620円(本体価格602円)からふと上げた目に飛び込んで来たのは、私に勝るとも劣らない身のこなしの男であった。ホームと電車の隙間に目を落とす事もなく、余分な上下運動を廃したほぼ直線的な乗車時の足の運び。そして、足を止める事なく落ち着いた視線を車内に投げかけ、自分の座席を視認すると、無駄のない動きで私の正面に腰を下ろした。ヤツは出来る。 おそらく同じ大学生と思しきその男に、私は少なからず動揺を覚えた。しかし、勝負はこれからだ。通勤者ならともかく、通学者に負ける訳には行かない。何げない様子を装いながら、相手の出方をうかがう。それにしてもヤツは完璧だ。きっと奴も、王者の名をほしいままにして来た百戦錬磨の勇者に違いない。今までに私と戦って散って行った者のためにも、ここで負ける訳には行かない。頂点を極めた者同志の戦いは、最初に気を抜いた方が負けだ。

 ヤツのジーンズを着用した足は、膝がちょうど自分の肩幅やや外、狭くて弱々しく見えることを避け、且つ隣の人に不快感を催させる事の無い位置を見事にキープしている。空に等しいカバンも、太ももの5分の3のベストポジションに見事に置かれている。胸の張り方、あごの引き具合、落ち着きのある手の動き、そして視線。その視線が私に投げかけられた。やはりヤツは本物だ。私の態度をチェックし始めた。目が合った。よしっ、勝負だ。

 ヤツは完成された動きでカバンに手を入れ、ヘッドホンを取り出した。なるほど、最初はヘッドホンステレオ対決か。いいだろう、受けて立とう。私は、長年愛用のパナソニック、RQ-S1(89年製)の準備を素早く始めた。かなり旧式ではあるが、私と多くの戦いをともに勝ち抜いて来たよき相棒である。リバーススイッチ確認。音量OK。本体スイッチロック完了。リモートスイッチ、ロック解除。テープスタート。 聞き馴染んだブルース・スプリングスティーンの声が、『キャディッラク・ランチ』をテンポよく歌い上げて行く。一方、ヤツもこちらの動きを盗み見ながら音楽をスタートさせたようだ。この時点では互角か。と、そのときである。私の耳に装着されたヘッドホンから音が消えた。いかんっ!電池のパワーが切れかかっていたことをすっかり忘れていた。確か、予備の充電電池と、非常用のアルカリ電池が何本か有るはずだ。いや、落ち着け。これだけの大物を相手に、大技、電池交換の作業を行うのはあまりにも危険すぎる。うまく行けば大きくリード出来るが、小さなミスもなく行うのは至難の業だ。どうする。このまま聞いている振りをする手もあるが。しかし、王者をかけた対決。守りでは勝ち目が無い。攻めねば。

 落ち着け。狼狽を悟られることはその時点で負けを意味する。落ち着くんだ。いつもの調子でやればうまく行く。私はもう一度カバンに右手を滑り込ませ、予備の充電電池を手探りで捜し当て、手のひらと小指で握り締める。と同時に、本体を親指と残りの3本の指でつかみ、ヘッドホンのコードが引っ掛からない様に気を付けて取り出した。続いて本体を軽く傾け、使い切った電池を抜き取り、新しい電池を装着し、カチリとかすかな音を立てながら蓋をする。これを一つの動作として行えた。息を吹き返したRQ-S1は、リセット時のテープ巻き込み防止装置が自動的に作動する。その心地よい振動が、私の手を通して称賛を与えた。調子に乗った私は、更に、外部ボックスにアルカリ電池を入れて相棒に装着するというオプション行動もこなした。過去を振り返って見ても、ここまで完璧にこなせたのは初めてだ。

 ”どうだ”と言わんばかりに、再度テープを始動させ、本体をカバンに戻しながらヤツをさりげなく見る。どうやら私の一歩リードか。満足感が私を覆う寸前、ヤツもすかさず勝負に出た。本体を取り出し、──けっ、ヤツのパートナーはポータブルCDプレーヤーだ。しかし、この勝負は物自慢ではない──スムーズな手の動きで単4電池を交換していた。その速さといい、指さばきといい、特に電池の滑り込ませ方は不覚ながら私ですら魅了された。行動を終えると彼は視線を元に戻し、私に向かって同点に追いついたことを告げた。

 では次は、読書対決だ。私は先程読みかけていたウディ・アレン著『これでおあいこ』、伊藤典夫・浅倉久志訳、河出文庫、購入時価格620円(本体価格602円)を手にした。これで勝つためには、いかに周囲に捕らわれずペースよく読み進めるか、集中力が重要なキーポイントとなる。理想のペースは、2頁(見開き)/3分30秒~4分。中には、読みもしていないのにページだけめくって勝負する者もいる。しかし、そのような輩は所詮この世界で生き残って行くことはできない。自分との闘い、これに打ち勝つことが相手に勝つということ。この世界で何らかの称号をもつ者は、皆わきまえていることである。短編1編、もしくは長編の1章以上が判定の最低基準とされる。それ以上は両者の合意により続けることとなる。ヤツも紀伊国屋のブックカバーのついたハードカバーを取り出した。じゃあ始めるぜ、このキザ野郎。私は得意技の”左人差し指スライドめくり”で軽快なページさばきを見せる。ヤツは”右親指ワンフィンガーめくり”かっ!こうなったら、奥義”スウィング・ブックめくり”で対抗だ‥‥。


 その後約30分、我々は秘義の数々を出して戦ったが決着は着かなかった。足組対決、居眠り勝負(この場合は実際に寝てしまってはいけない。周囲にはいかに寝ているように見せるかがポイントである)、中吊り広告チラッと見対決、etc.‥‥。互角だ。ここまで私をてこずらせた相手は、阪急千里線のクイーン、”クリアケースのマキ”以来だ。ま、彼女にはてこずらされたが最終的には勝った。彼女も大したものであったが、ふだん10分程度しか電車に乗らないため、長期戦に持ち込めばこちらのものだ。何しろ、高校時代1時間、予備校時代1時間30分、現在は2時間30分をそれぞれ片道に費やして来た私だ。その時、静かな車内に終着駅のアナウンスが流れた。いよいよ最終ラウンド、降車対決。これでケリが着かなければ折り返しに乗って、長期戦に持ち込んでやる。ヤツもプライドにかけて、延長戦に乗るはずだ。

 少し雑然とし始めた周囲をものともせず、私は最終決戦に向けて戦略と心の準備を繰り返した。相手の出方にもよるが、立ち上がりはドアが開いてから。相手よりワンテンポずらすほうが落ち着きがある。ドアの混み具合、改札の方向から考えて左手向かい側のドアがベスト。立ち上がると同時に左足から出たいが、そのためには8歩目を短くして9歩目になる。しかし、ドアのすぐそばに座る爺さんが出遅れた場合、計算が全てが狂ってしまう。その隣にまだ熟睡を決め込んでいる大学生がいる。起こしてやるべきか。この動作が良ければ勝てるかもしれない。その前にヤツの動きも予測してみるか。仮によそ者としても、これだけの達人なら人の流れで改札の方向を見抜くだろう。いや、私の動きに合わせる可能性もある。と言うことは、‥‥。

 私が周囲の状況を読んでいる時、奴のとなりのおやじが、電車を降りる準備として新聞をたたみ始めた。それまでの縦長4つ折りから、もとの状態に。第1面が初めてこちらを向いた。ん?『宇宙人捕獲』。何だ、あの写真は。さすが大スポ、スーパージャーナルも真っ青。なになに、MJ12が‥‥何、それ‥‥。あっ、しまった。何という事を。わ、私としたことが。

 他人の新聞に釘付けになるのは、マナーとしては最低である。いかに悟られずに読むかは評価の対象だが、ありありと分かる読み方はもちろん論外。

 私は負けた。


 人々が改札へと急ぎ、人影がまばらになり始めたホームで、私は初めてヤツと言葉を交わした。ヤツは私より先を歩いていたが、後ろに続く人の邪魔にならぬよう、うまくやり過ごして私を待っていた。私がヤツの正面、約1m30cmに向かい合って立ったとき、ヤツは少し間をおいてから口を開いた。

「”ドルフィンズ・キャップのナオ”。御堂筋線、”アタッシュケースのヒロ”が負けただけのことはある。彼の話しに違わず、見事だった」。

「完全に俺の負けだ。しかし、腕を上げてもう一度ぜひ勝負したい。いつもはどの路線で‥‥」。

「この俺にホームゲームはない。噂を聞けばどこへでも乗り込んで行く。君が腕を上げれば自然に俺の耳に入る。そのときまた俺は現れる」

 それだけ言うと、私の次の言葉を待たずにヤツは向きを変えて改札に向かった。右肩から無造作にかけられたカバンの端に揺れるものがあった。ムンクの”叫び”のキーホルダーであった。そのとき、私は初めて今までの戦いがいかに無謀であるのかを知った。


 無冠の帝王、”ムンクのヒトシ”。各地の路線の王者を総ナメにしている、さすらいのキング。国鉄時代から30年かけてJR全路線を制覇した長老”静雄翁”を、弱冠二十歳にして打ち負かしたと言う。以来、真のチャンプを目指し、全国を”行脚”していると聞く。

 当時、298戦全勝の私にとっては初めての涙であり、ライバルが出来たことへの喜びであり、世の中の広さを知った驚きでもあり、そして何より、本当の第一歩を踏み出したという感動であった。

 あれから6年。就職、2度の転勤、数え切れない出張。それらの中で私は何度と無く強敵に会い、苦しい戦いを強いられ、勝ち、負け、鍛え上げられて来た。そろそろこの新しい地においても私の名が広まり、幾人かの挑戦者が足を運ぶようになって来た。ヤツに会う日もそう遠くないかもしれない。

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