セイウチ
@rinka-rinka
Episode
私はブライトンの仕立て屋の娘として産まれた。
物心ついた時から左腕の肘から先が欠損しており、誰からも愛されなかった。
水泳の授業を休むと教師からはひどく睨まれ、黒板には私らしき絵にuglyと大袈裟に書かれてあった。
家に帰っても居場所はなく、親からの虐待を受ける日々。
そんな耐え難い時間も早いもので、私は高校を卒業した。
形だけで何の感情もこもっていない挨拶を両親にして、逃げるようにロンドンに向かう。
ロンドンに着いた。
ロンドンの排気ガスの匂いが鼻をついたが、就職先の仕立て屋で、テイラーという友達もできた。
私は仕立て屋に相応しいテイラーという名字をひどく気に入った。
私はテイラーに仕事を教えてもらいながら充実した日々を送っていたが、どうしても同僚のハミルトンと反りが合わなかった。
彼のアイルランド訛りの英語は、不快なほど聞き取りづらい。
誰かがミスをすると私だけを呼び出してこっぴどく罵る。
彼は左腕のない私をどうしても辞めさせたかったようだった。
ひどく罵声を浴びせられた日には必ず紅茶を飲みに喫茶店に向かった。
私のいつもの席には、笠のついたランプが遠慮がちに光っていて、正面から見ると丸く、立って見ると楕円のようだった。
家に帰ると私は現実を忘れるように、読書に耽る。
私はレコードの針を止めた。
読書の環境音は隣から微かに聞こえるいびきだけで充分だ。
朝日が川面を照らし、金剛石の絨毯を敷いていく。
今日も一日が始まる。
私はいつも通り仕事終わりに喫茶店に足を運ぶ。
その道中コートを這わせたカップルが暖をとっているのを見た。
路面電車が気まずそうにカップルの前で止まった。
警笛を鳴らさない路面電車は、とても鉄の塊だとは思えないほど慈愛に満ちていた。
いつも通りのロンドンに違いなかったはずだ。
人でごった返し、人の群れは熱気を帯び、渦のように空に舞った。
私は足早にこの包囲網を潜り抜けようとしたが、私は誰かに押されたのか、この群れの熱気に慄いたのか、滑稽に転んでしまった。
片腕では上手く重心が保てなかった。
上手く立ち上がれない。
「セイウチみたいね。」
通りすがりの女性が私を見下ろしながらそう罵る。
私は芋虫みたいだと思ったので、セイウチの方がまだ幾分かマシだった。
右腕と両足を器用に扱いなんとか立ち上がろうとすると、軍服を羽織った青年が手を差し出した。
彼の髪は光沢を纏っており、彼の常闇のような黒い目との対比が美しい印象を与える。
彼は私を抱きかかえて、夜のロンドンに軽快な足音を響かせた。
そして私は赤子のようにベッドに寝かしつけられた。
「おいエバンス、仕事中に女を連れ込むな!」
どこからか怒号が聞こえてくる。
「違うんです、バトラー大尉!」
必死に誤解を解こうとする彼の姿が見えた。
彼は身振り手振りで釈明していたが、私に負けず劣らずのセイウチぶりだ。
思わずクスッと笑ってしまった。
その後私はケガを診てもらったが、虐待の跡は適当に誤魔化した。
私は彼と仕事終わりに紅茶を飲むようになった。
彼はコーヒーを好んでいたが、私に気を遣って紅茶を頼み続けている。
私はいつしか彼の家で寝泊まりするようになり、憂鬱な冬の夕暮れに似合わない有意義な時間を過ごした。
いつも彼は私の前で明るく振る舞ったが、彼に漂うメランコリーは私の目をごまかせなかった。
大晦日の日、彼は話があると言って初めて戦争のことを打ち明けてくれた。
「ノルマンディーに上陸する時、俺はユタだったから助かったけど、親友のハワードはオマハで死んだ。あいつは俺よりずっと優秀な衛生兵だったんだ!俺みたいな人間がのうのうと生き延びて、なんであいつが死ななきゃいけないんだ…!」
私はただ黙って彼の声に耳を傾ける。
沈黙に包まれた後、彼は何も言わずにただ私の醜い傷や腕を愛撫し、口付けした。
アスチルベより赤い跡が付いたが、私はこの跡が永遠に体に刻まれ続けて欲しいと思う。
彼の鋼鉄のような胸が私を覆う時、過去の伏線同士が折り重なるように、今この瞬間を形作っているのだと悟った。
そして彼と新年を迎えた。
ブライトンに帰省することも考えたが、親の顔なんて見たくなかった。
初日の出が昇っているが、そんなことより私は彼が焙煎したコーヒーが飲みたいと思った。
彼の存在によって私は彼以外のすべてに無関心になった。
私はこの感覚を快く受け入れている。
不味くて苦いはずだったコーヒーを拒むことなく飲んだ。
暖炉の熱が愛の巣を包んだ。
季節は九回変わり、私は彼と婚約した。
テイラーは泣きながら自分のことのように喜んでくれた。
私は寿退社するため、辞職願をハミルトンに差し出した。
彼は激昂し、
「左腕がないからって結婚に逃げるのか!」
とひどく罵った。
彼の禿げ上がった頭が赤く染まっている。
それがあまりに滑稽で吹き出しそうになる。
私が何と言っても彼は
「負け犬の遠吠えだ!」
と反駁した。
負け犬の遠吠え…。
なんて陳腐な言葉だろうか。
彼はただ棘のある言葉という武器を使いたいだけのように思えた。
おでこに寄ったシワが彼の日頃の鬱憤を表しているように感じた。
また吹き出しそうになるのを何とか堪える。
彼なりのパンチラインはクリーンヒットせず、せいぜいセカンドフライといった出来だった。
私たちはニューカッスルに移り住み、かじかんだ手を三人で繋いだ。
私はこの指輪をどこにはめればいいのだろう。
そんな疑問を抱き私はセイウチのように息子と駄々をこね、エバンスを笑わせてみせた。
今年も憂鬱で暖かい冬がやってくる。
セイウチ @rinka-rinka
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