第4話 淀の方の思惑
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どこか遠くで、若君が泣きわめいている。
「いちはわしのじゃ」
「ほほ、秀頼殿、そう泣かずとも良い」
と応えるのは伯母の淀の方だ。伯母はねっとりとした口調で続ける。
「この母が、ちゃあんといちに言い聞かせますからね」
いちはハッと目を覚ました。飛び起きようとしたが、身体中が重くてかなわなかった。浅い呼吸を繰り返しながら、いちは視線を彷徨わせた。視界いっぱいに豪奢な格天井が広がり、震えが走る。
(どうして、お方様の廓にいるの?)
ここは怖い。逃げなければ。その一心でいちは褥から這い出た。若君と伯母が話している間に、早く、早く。
畳に爪を立て、揺れる視界の中、声とは反対方向にある襖の引き手房に手をかける。引いた瞬間、ぐらりと眩暈が起きる。慌てて床に手をつくと、ガサリと乾いた感触が返ってきた。
「な、に……?」
目の前には、夥しいほどの紙が広がっていた。いちが咄嗟に掴んだのは、その中の一枚であった。紙はずいぶん色褪せていたが、墨だけは鮮やかに浮かんでいた。いちは最初の一文を読んで、息を呑んだ。
『いち、息災か。母は無事伏見に入った。頭に浮かぶのはいちのことばかりじゃ。姉上の言うことをよく聞いて、くれぐれも身体に気をつけておくれ 江』
母だ。母の、江の手蹟だ。
いちは辺りを見回し、床に捨てられた他の文を拾った。
『いち、いち、母を恨んでおいでか。いや、それでもよい。恨みつらみを書いて送っておくれ』
『母は千とともに、大坂に参る。ああ、そなたに早く会いたい。いちには秀勝殿のことを聞いてもらいたいと思っている』
『いち、そなたの父である秀勝殿は明るく楽しい方じゃった。絶対に姫が生まれると信じておった。気の早いことに、嫁入りの際名乗る名前まで考えて出立なさった。その名はの――』
「何をしておいでかえ」
貪るように読んでいた文を乱暴に取り上げられ、いちは弾かれたように顔を上げた。
「お方さま。これは、これはなんですか?」
「塵(ごみ)じゃ」
と、無表情で淀の方が返す。いちの全身が、ぐらぐらと煮えたつように熱くなる。まなじりを吊り上げるいちを見て、淀の方は淡く微笑んだ。
「そういう顔をすると母上にそっくりじゃ。まこと、織田の血はあらそえぬ」
「お方さま、答えてください。何故、江戸の母上の文が、ここにあるのですか」
いちは淀の方の打掛に縋った。淀の方は蝙蝠(かわほり)の扇を閃かせ、つまらなそうに室内を見回す。
「江はよく飽きもせず送ってくるものよ。燃やすのも追いつかぬ」
「お方さま、」
「あちらで姫をたんとこさえたのだから、早く忘れれば良いものを。ほほ、今も孕んでおるそうな。まるで犬じゃ」
いちの中で、心の堰が切れた。
「母上は犬ではない!」
いちが怒鳴りつけると、淀の方の美しい眉が歪む。
「誰に口を聞いている! そなたは豊臣の姫。徳川に通じることは許さぬ!」
「わたしは……」
「そなたは、生まれた時より秀頼の側女(そばめ)じゃ。この大坂城で豊臣の子を孕むが役目と心得よ。徳川の血を入れてはならぬ。豊臣の次代は織田と浅井の血統が継ぐのじゃ」
ここまで憎悪に満ちた声を、いちは聞いたことがなかった。淀の方は座り込んでいるいちの肩に扇を置き、冷たく言い放つ。
「仕置きが必要じゃな。……あの絵師の首を、そなたの前で落とそうか」
「あ、あの人は、何もしていません。わたしが勝手に話しかけたのです」
「あやつは秀頼の顔を傷つけた。ほほ、水牢に繋いでおるわ」
あまりに酷(むご)い仕打ちを聞いて、いちの心臓が凍りつく。
「いや、いやです。旬は悪くない。旬を放して、あの人を殺さないで」
淀の方は嗤っている。いちが恐れ慄く様子を愉しげに見つめ、憎悪に満ちた声で服従を迫る。
「頭を垂れ、蹲え。そして誓うのじゃ。秀頼の情けを拒まず受け入れ、豊臣の子を産むと」
いちは、もう泣くこともできなかった。ぶるぶると震えながら両手をつき、頭を下げ、歯を食いしばる。
「はよう誓え!」
「……ッ!」
いちの喉を塞ぐのは、何であろうか。心と裏腹の言葉を吐くことが、身を切るように辛い。
(死なないで、おねがい)
暴れ狂う心を抑えつけ、いちは口を開いた。
「若君の……」
しかしいちの声を遮るように表が騒がしくなる。
「お方さま! 一大事でございます!」
と駆け込んで来たのは大蔵卿の局であった。淀の方は柳眉を逆立て振り返る。
「取り込み中じゃ。後にせよ」
「けれど、北政所さまが一刻も早くと」
「お待たせしておけ」
淀の方がにべもなく言い放つと、大蔵卿の局は狼狽した声で続ける。
「いいえ、それが……北政所さまは、女院さまのお使者とご一緒なのです」
「まさか、小野於通か?」
「はい。女院さまのお文をお持ちです」
淀の方はいちに突きつけていた扇をくるりと返した。
「……秀頼の今後のために、繋がっておいて損はない相手じゃ。大蔵卿や、そなたはいちを」
「そのう……北政所と於通殿は、姫君とご一緒にと申されておいでです」
いちは放心状態のまま、引っ立てられるようにして西の丸へ連れて行かれた。百間廊下を抜け、奥御殿から出るのは、生まれて初めてだった。
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