第3話 慶長八年 水無月
( 3 )
紫陽花が鮮やかに咲き誇り、雨の匂いが濃くなる頃、奥御殿の慌ただしさが増した。若君の祝言に一つの不足があってはならぬと、女たちは緊張の糸を張り詰めている。淀の方は、若君がやんちゃな遊びをするのを禁じた。将軍家と張り合うために買い求めた唐渡りの壺や舶来の盃を壊したら大変だと思ったらしい。
(隠れ鬼、したいなあ)
旬と出逢ってから、いちは隠れ鬼を楽しみにするようになった。あの押し入れで隠れていると、旬がすぐ見つけてくれる。そして段々と完成してゆく襖絵について教えてくれる。なんでも、旬の祖父は源氏物語に精通した教養人で、旬は物心ついたときから源氏物語について学んでいるという。いちは旬を介して知る源氏物語の世界の面白さの虜になった。
何より旬と過ごす時間は、いちをくすぐったい気持ちにさせ、明るく笑う力をくれる。
そういう時間を過ごすたび、いちの心持ちは強くなり若君のいじわるも気にならなくなった。 若君は、怯えるばかりだったいちがにこにこと応じるので、気味の悪いものを見るような目で、苛立ちを隠さず接してくる。
「おい、いち」
ぞんざいに呼ばれて、いちは書見台から顔を上げた。若君が眦を釣り上げて、ずかずかと室内に入り込んでくる。
「ごきげんよう、若君さま。隠れ鬼でございますか?」
そうしたら、旬に会える。いちは胸が高鳴り、立ち上がった。若君はふんと鼻を鳴らし、意地の悪い笑みを浮かべだ。
「今日は、ネズミ退治をする」
「え? ……っ若君さま、痛い!」
力づくで腕を引っ張られ、いちは叫んだ。若君の体格はいちよりも大きい。男女の力の差など気にしない若君を見かねて、最近は傅役や乳母が止めに入ってくれていたのだが、今日はそういった大人たちが誰もいない。
「若君さま、どちらに行くのですか」
「母上が、襖絵が完成したとおっしゃっていた」
若君は脇目もふらず、百間廊下を目指した。いちは身体中の血の気が引いていくのを感じた。いちが踏みとどまろうとしても、若君は立ち止まらない。やがて視線の先に粉本を運ぶ旬が見えた瞬間、いちは思わず叫んでいた。
「旬、だめ」
「あの男か」
残忍な声に、いちは己の過ちを知った。若君は、旬の顔を知らなかった。なのに、今いちが旬を教えてしまった。一刻も早く旬に立ち去って欲しくて、いちは激しく頭を振った。
「知らない人です。ここに、知ってる人はいません」
「知らないなら、殺してもよいな」
若君は後ろを振り返った。いちは視線を追って絶句する。恰幅の良い小姓たちが、ためらいがちに集まってくる。その一方で、旬は堂々とこちらに近づいてきた。
「これが、大坂城の流行りですか」
自分よりも上背のある少年に見下ろされ、若君は不快そうに睨んだ。
「わしをだれだと思っておる」
「僕の目の前には、女の子に乱暴するクソ餓鬼しかいませんね」
と言って、旬は一息に若君からいちを引き剥がした。旬の背中に庇われて、いちは震え上がる。若君は、大坂城の主だ。彼に従わなければ、とても酷い目に遭う。それは小姓たちも同じなようで、旬に掴み掛かった。
「おい、なんて口の聞き方をしやがる!」
吊り目の小姓が、旬の肩を強く押す。旬はびくともしないが、いちは恐ろしかった。
「やめて、痛いのは怖い」
といちが止めても、少年たちの間で荒々しい空気が膨れ上がるのを鎮めることはできない。
「絵師くずれが、調子に乗るなよ」
旬は蹴られても殴られてもうめき声ひとつあげない。背にいちを庇ったまま、振り下ろされる拳を受け続ける。そのうち、若君が舌打ちをした。
「絵を破れ」
と若君が命じると、小姓たちが怯んだ。旬も肩を強張らせる。
「こいつは、大坂城の襖絵を打ち壊した咎人じゃ。早くやれ」
婚礼の祝いにと描かれた襖絵は、淀の方が大枚を叩き、絵師が魂を込めて作り上げた芸術だ。それを壊し、旬に罪を被せるという。
いちはたまらない気持ちになった。
若君に急かされ、岩のような体躯の小姓が襖絵に向かって短刀を振りかざした。いちは走り出て、襖絵と小姓の間に滑り込んだ。太い腕にしがみついて懇願する。
「やめて、壊さないでッ」
「ええい、邪魔をするな!」
と若君が言って、思い切りいちの顔を殴った。強い衝撃に耐えきれず、いちは床に倒れ込む。
「――
旬の声だけが、いちの脳裏にいつまでもこだましていた。
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