第2話 いちと旬
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「それじゃあ、文月に嫁いでくる姫君は、いちの妹なんやな」
いちはカステエラを頬張りながら頷いた。たまご色の生地はツヤツヤでやわらかく、たいそう甘かった。一口食べるごとに、いちは胸がいっぱいになった。そして、何より『旬(しゅん)』と名乗った少年は、いちの話を聞いたり、いちの気持ちを表す言葉を当てるのがとても上手かったので、緊張はたちまち解けて消えてしまった。
「千というの。七つだけど、とってもかしこいと若君が言ってた。いちとは大違いって」
「へえ……」
旬はひんやりした声で相槌を打つ。いちはカステエラをまた一口かじって、ゆっくり味わう。
「ずっと、母上に文を出してるの。たくさん、数えきれないほど」
「うん」
「でも、お返事は一度もなかった。母上はわたしのことを、もう覚えてないの」
言い聞かせるように呟いて、いちは懐紙で指を拭った。旬は黙っていちを見つめている。
「……旬?」
「いち、絵を見にいこ」
唐突な提案に、いちは目を丸くした。旬は立ち上がり、いちの手を優しく引いた。
「ずっと隠れっぱなしじゃ、息が詰まるで」
「……でも、見つかったら」
「完成までは狩野の絵師しか出入りせえへん決まりやから、大丈夫」
と返されて、いちはしばらく考えた。そして恐る恐る旬の手を握り返し、震える足で歩き出す。
件の襖絵は、奥と表を繋ぐ百間廊下で制作されている。いちの異父妹にあたる千姫の輿入れにあたり、淀の方は公家総領にふさわしい典雅な室礼を整えているのだ。
中でも百間廊下は、かの有名な源氏物語を襖絵に描き出しているという。
「きれい」
旬の後ろからどきどきと眺めていたいちは、次々に場面が変わっていく物語絵に魅せられて、気づいた時は前のめりで襖絵を覗き込んでいた。
「桜、さくら、わあ、ここにも」
我を忘れて襖絵を見ていくと、ふと自分と同じ山吹色の衣を纏った少女が描かれていることに気づいた。
「……だれかしら」
「若紫や」
と、旬が教えてくれる。いちはまじまじと絵の中の少女を見つめた。
「若紫って紫の上さま? この女の子が?」
「そう。北山で源氏の君に見初められた時の絵や。源氏物語で有名な場面やで」
男の子の旬でも知っていて当たり前の知識らしい。いちは急に恥ずかしくなり、口を引き締めて俯いた。
「源氏物語をぜんぶ読んだことないの。今貸していただいてるのは『須磨』と『花散里』と『玉鬘』で……」
奥御殿で、いちに回ってくる本は少ない。若君が飽きてしまったもの、淀の方が新たに買い求めたあと不要になった物語を御殿女中にお下がりとしたもの、それらを借りてやっと読めるという有様だった。旬は眉を顰めて憤った。
「しかも時系列ぐちゃぐちゃやんか。ひどい話や。こっち見てみ」
旬はいちの手を取って違う襖絵に導いた。
「表御殿側の端が『桐壺』で始まってるんや。順番に見ていって、奥側の一番端が『雲隠れ』で、物語が終わるようになってる。絵の中に歌も隠れてるから、おもろいで」
「あ、ほんとだ」
旬が指した場所には、絵に見せかけた字が隠れていた。いちが歌の意味を尋ねると、旬はわかりやすく教えてくれる。それがまた面白くて、いちは心から微笑んだ。
「いちは歌が好きやな」
「うん。旬の声で読んでもらうのが好き。とても良い響きだもの」
無邪気に返すと、旬がはにかんだ。
「じいさまに教わっといてよかったわ。ほんなら、今度は源氏物語のかるた持ってくる」
「ほんとう?」
「うん、次会う時にな。約束」
と言って、旬は小指を差し出した。いちはおそるおそる自分の小指を絡める。
「……うん。約束ね」
誰かと約束をしたのは初めてで、いちは舞い上がるような気持ちになった。
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