いち~大坂城の花嫁~

俤やえの

第1話 慶長八年 皐月

( 1 )


 いちは、大坂城の外を知らない。外について尋ねる相手もいない。城内の女達にとって、いちは「死ななければよい」存在であり、お正月に淀の方さまに生きていることをお伝えすればそれで済むのである。

 淀の方には、いちの従弟にあたる若君がいて、いちをいじめるのが好きだ。


 若君が「かくれ鬼をするぞ」と言い出すと、いちはゾッとする。若君は鬼遊びには必ずいちを入れて、捕まえると髪を引っ張ってぐしゃぐしゃにするのだ。いちがいくら上手く隠れても、若君は御殿女中に命じて見つけさせる。いつもはいちのことなど放っておく女たちは、この時ばかりはいちを執拗に追いかけ、猫撫で声で呼ぶのだ。


(今日もいじめられるのかな)


 いちは水甕の裏に隠れながら、とても悲しい気持ちになった。小さな頃は、若君の体つきはいちより小さく弱かった。だから髪を引っ張られても、怒鳴られても、怖くなかった。でも、お互い十二歳になった今は、あちらの方が力が強いし、声も低いし、怖い。


 今日こそは、絶対に見つかりたくない。いちは隠れ場所を何回も変えることにした。針の間、お納戸、食糧庫――。


「おいちさま。出てこられませ。お八つにいたしましょう」


 空っぽの押し入れの中で、いちはぎゅっと体を縮こませた。前回、この優しい声に騙されて出て行ったら、若君にうんと髪を引っ張られたからだ。


「おいちさまあ」

「何や、お姉さんら誰か探しとるんか」


 聞き覚えのない少年の声が届いて、いちは首を傾げた。奥御殿にいる男の子は、若君と小姓達だが、京訛りの者は誰もいないはず。


「あれ、お前は山楽どののお弟子かえ」

「うん。この部屋は、お師さまの道具をしまう場所や。僕さっき片付けた時はだあれもおらへんかったで」


 がちゃがちゃと何かを運び入れる音がする。女中は納得したようで、いちを探す声は遠のいて行った。いちは口を塞いでいた手をそろそろと外す。


「もう行ったで。出てもかまへん」


 と、襖の向こうから囁き声がした。いちはびっくりして固まってしまった。何も言えないでいると、少年が立ち上がる気配がした。


「お師さまは道具をわやされるのが嫌いやから、ここは僕以外は入らへん決まりや。隠れたくなったら、またおいで」


 と言って、そのまま少年は出て行ってしまった。いちは遠ざかる足音を、呆然と聞いていた。

 いちはその日初めて、かくれ鬼で見つからなかった。

 

 翌日、若君はたいそうご機嫌が悪かった。北政所が大坂城に現れたからだ。若君はもう一人の母である北政所を大の苦手としている。案の定、淀の方と北政所を相手に孟子の講読をするとかで、遊ぶ時間が与えられなかった。いちは北政所に挨拶をして、すぐに自室へ戻り、久しぶりに手習いに励むことができた。


 北政所が帰った日、若君はぎらぎらした目でかくれ鬼を始めた。これは今日も絶対に捕まりたくないと思ったいちは、あの道具部屋に隠れることにした。


 あの場所が侍女に知られたら大変なので、いちはあの日と同じく隠れ場所を変えながら目指した。やっと道具部屋に辿り着いた時には汗がびっしょりになっていた。


 押入れを開けて、まばたきをする。先日はがらんどうだったその場所に、座り心地の良さそうな座布団が一枚敷いてあったからだ。恐る恐る触れると、素晴らしい肌触りだった。いちはちょっと迷って、それが汚れないように除けて、隅っこの方で膝を抱えた。しばらくすると、また襖の向こうから声が聞こえた。


「座布団使っとる?」


 いちが隠れているのはお見通しらしい。いちは膝を抱えたままびっくりした。喉がからからになって、声が出ない。少年は気にせず続ける。


「長いこと座ってると、おいど痛くなるやろ? あと、これ」


 ことん、と何かが畳の上に置かれる。ふわんと甘い香りがして、いちはこれまたびっくりした。


「さっきカステエラを差し入れてもらったんや。食ってみ」


 かすてえら。聞いたことのない食べ物だ。こんなに甘くて、優しい匂い、初めて嗅いだ。いちはごくんと唾を飲み込む。


(でも、この人もわたしのことを若君に教えちゃうかも)


 いちがあれこれと悩んでいる間に、またもや少年は颯爽と立ち上がる。


「ここ置いとくから、ちゃんと食べて帰るんやで」


 少年が部屋を出ていってしまう。いちは慌てて取手に指を伸ばした。

 勢いよく障子が開き、光が入ってくる。少し離れた場所で、こちらを振り向いた少年がぽかんといちを見つめていた。いちより五つか六つ年が上だろうか。とても背が高かった。


「あ……」


 はて困った。いちは声を出せても、他人と話した記憶がとても少ない。でくのように立って、口をぱくぱくしているいちに、少年が笑う。悪戯っぽくありながら、どこか品のある笑みだった。


「ほな、カステエラ一緒に食おか」

 

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