第6話
俺が高校2年生になって、マリカと恋人みたいな関係が始まってから1年くらいが過ぎた頃だった。ほかの学校よりも早い1学期の期末テストか終わった翌日は、緊急の職員会議があるとかで休校になったので、俺は朝からマリカの家に来ていた。
マリカとの関係はセックスをするようになったこと以外、それ以前と何も変わらなかった。会うのも連絡の回数も増えたわけじゃないし、彼女のとの距離感が縮まったわけでもなかった。マリカはいつでもマリカで、俺たちはケンカも言い争いすらしたことはなかった。
俺の本音は、前よりももっとマリカに会いたかったし、会う時間もいつも短すぎた。でも彼女の生活は理解してるつもりだったし、結局は彼女と会えるのならどんな形でもよかった。
マリカの家で会うときは、普段誰も使っていないゲストルームのベッドを使った。ベッドの中で彼女が俺の頭を優しく抱きながら髪を触って、俺は幸せな気分で微睡んでいた。
「あのね、陽太くん……私たち引っ越すことになったの」
何の前触れもなく、マリカはとても言いづらそうに小さな声をもらした。
俺は意味が飲み込めず沈黙したまま動けなかった。
は?引っ越すってどういう意味?
「夫がね、3ヶ月前に転職をして、今イタリアのミラノで働いてるの。それで来月の初めに、子どもたちと3人で彼の家に引っ越すことになったの」
俺は混乱した。
何言ってんの?
「いつ帰ってくるの?」
俺にとって、マリカに会えなくなるという現実は想定外だった。俺たちの関係がそんなに長く続くものじゃないってことは頭の片隅で理解していた。でも終わるのはまだ先のことだと思っていた。
マリカは申し訳なさそうに、謝るような口調で話した。
「ここの家も人に貸すことになってるの。一時帰国では帰ってくるけれど、でも日本で生活をしに戻るのは、たぶん何年も先のことになるんじゃないかな……きっとその頃は陽太くんは、忙しい大学生か、立派な社会人になってると思うよ」
マリカはいつも通り優しいゆっくりとした口調で言った。
俺は、何も考えたくなかった。むしゃくしゃした気分が自分ではどうにもならなくて、マリカに当たり散らすように乱暴に抱いた。俺が混乱して怒ってるのに、彼女はいつも以上に俺を感じてるみたいで、そのことにすら腹が立って自分を制御できなくなって、疲れて気を失うように眠りに落ちるまで俺は何度も彼女を抱き続けた。
「陽太くん、もう3時だよ」とマリカの囁く声が聞こえて俺は目を覚ました。
時間と場所の感覚がマヒした頭で、俺は重い体を起こし、ずり落ちるようにベッドから出て床に座り、下着を着てから靴下をゆっくりとはき始めた。横目でマリカに目をやると、子どもが帰ってくるまであまり時間がないはずなのに、焦っている素振りも見せず、ベッドの端に座ってファッション誌のページをパラパラとめくっていた。
俺は床に座ったまま、ドアが閉められていない部屋の隅にあるウォークインクローゼットの中に目を向けると、男物のスーツが何着かかかっているのが見えた。今まで何度もこの家に来ていたけど、あまりマリカの夫の気配を意識したことも感じたこともなかった。
クローゼットからベッドに視線を移して、「ねぇ、マリカさんて、ダンナが戻ってきてる時は一緒のベッドで寝てるの?」と質問した。
俺が彼女の夫について質問したのはこれが初めてだった。
マリカはまるで俺の質問が聞こえなかったみたいに、雑誌のページを同じ速さでめくり続けていた。
俺が彼女の返事を諦めたころに「私、そういう質問にはあんまり答えたくないな。どう答えても……陽太くんが納得するような回答はないと思う」と一瞬困った表情をしてから、またすぐに手元の雑誌に視線を戻した。
俺は制服のグレーのパンツを手にしたまま、ベッドに腰をかけて「ふーん」と口から音を出した。
わざとグズグズと身支度する俺に気づいているはずなのに、泰然としたマリカの背中に「ねえ、マリカさんて、怒ることないの?」と問わずにはいられなかった。
彼女の子どもたちが帰ってくる前に、俺はここから姿を消さなければならない。そんなことはわかっていた。けど、俺でないものを優先するマリカの横で、少しでも長く一緒にいたいと思い続けている自分がバカらしく思えて、虚しい反抗をしていた。そしてたぶん、マリカは俺のそんな感情を把握していたと思う。
マリカは雑誌から顔を上げ俺に振り返り、優しい笑みを向けた。
「陽太くんには、私がそんなふうに見えてるの?大輝も翔も私のことを怖がって、いつもビクビクしてるんだけどなぁ」
マリカさんは、グズグズしてる俺に怒らないの?ほんとはそういう質問だった。マリカは俺の質問の本意を理解しているはずだ。それなのに、表面的な意味だけを捉え答えを返してくる。クスッと小さく笑いを漏らす声からも表情からも、彼女が発した言葉以外の他意は全く含んでいないという完璧な無邪気さを解き放っていた。
俺がこの人相手に優位に立つことなんてありえないないけどね……
俺は、制服のパンツを履き白いシャツのボタンをとめていた手を止め、マリカを見つめた。
遠くに行って俺と会えなくなることなんて、この人にとっては大したことじゃないんだ。俺は同じ場所に留まって、毎日学校に通って、今と同じ日常からマリカだけがいなくなる……体がうまく動かせないくらい重い気持ちになってるのは俺だけなんだ。
彼女の悠然とした態度が、俺をひどく苛立たせていた。俺はベッドの端に座る彼女の前に立ち彼女の後頭部を両手で覆って、柔らかい髪の根本をつかんで後ろに引っ張り彼女の顔を上げさせると乱暴に彼女の口に吸いついた。
マリカは抵抗するどころか、俺の髪に指を通しベッドの上に横たわりながら優しくなぐさめるみたいに俺を受け入れた。
数分経つと彼女の唇で俺の唇を拭うようにしながら、マリカは俺から離れた。俺の欲求を把握しつつ、そっとなだめるように俺の背中に手を回して抱きしめた。
そして俺の耳元で「陽太くんといる時は、口紅をつけても意味がないね。」とささやき、にっこりと笑顔を浮かべ、俺の唇に軽く触れるキスをしながら体を起き上がらせて、マリカはあくまでも自然に俺の腕の中から去った。
俺は急に不安に襲われて、「また……まだ会えるよね?」と聞いた。
マリカはナイトテーブルに置かれていた彼女の電話を手に取り、ドアノブに手をかけて振り向きざまに言った。
「陽太くんは……会いたい?」
なんでそんなこと聞くんだよ、といらだちを覚えながら無言でうなずいた。
マリカは何かをためらうような口調で「あと1、2回はたぶん時間が取れると思う」と答えてから、俺を見つめていた視線を一瞬外して、電話の画面を隠すようにして彼女が素早く時間を確認したのを俺は見逃さなかった。
マリカは出会ってからずっと、俺に優しさしかみせていない。俺はいらだったり、機嫌悪かったり、冷たい態度をとっても、彼女は首尾一貫柔らかい態度を変えたことがなかった。俺ばかり余裕がなくて感情的になっていた気がする。
俺は彼女がドアから出て行く前に「次は?」と可能な限り平静を装い「いつ?」と聞いた。
マリカはベッドの端に座る俺に近づき「連絡するね」と素早くキスをして、「愛してる」と俺の目の深くを見つめた。
俺は麻痺したように動けないまま、目の前から立ち去るマリカを目で追った。
マリカはそれまでにも何回か、愛してる、と口にした。それを耳にするたびに、俺の身体は凍りついたように動かなくなった。何を考えたらいいのか思考も停止した。
その言葉の意味がわからなかった。
マリカは予定通りイタリアへ引っ越していった。彼女が日本を発ってから、夏の間に合計で3回メールをしたけど返事は一度もなかった。それまでは、会えなくても電話の向こう側でいつもつながっていたような感覚があったのに、マリカは俺の世界から姿を消してしまった。
マリカがいなくなってから、俺は暇な時間を作らないように学校と塾、配送センターで荷物の仕分けのバイトに明け暮れた。とにかく、マリカのことを考える時間を少しでも減らしたくて、何かに集中していたかった。どこにいても、少しでも暇な時間ができると参考書を広げて気を紛らわそうとした。
夏休み明け、友だちに誘われて2回だけ他校の女の子たちと遊びに行ったけど、退屈どころかイライラするだけだった。もう俺は女に興味がなくなったのかも、と自分を嘲笑いたい気分だった。
でもそのおかげで俺は過去にないほどいい成績をただき出した。模試を受ける度に順位が上がっていき、テストが楽しくさえ感じた。バイトで稼いだお金も、使う当てもないまま銀行口座に溜まっていった。
中型バイクの免許を取ろうと決心した理由は、気が向いた時に自転車より早く遠くまで行けるからだった。まずは母親に好成績を武器に相談すると、しばらく考えたいからと返事を2ヶ月待たされた。その間に父親にも話すように言われたので、電話で伝えるとお母さんが承諾するなら構わないが、危険性を甘く見ないようにと長々と話を聞かされた。最終的に母親は、とにかく事故をしないこと、というのを条件に承諾してくれた。どういった状況下であれ1度でも事故を起こしたら、2度とバイクには乗らないことを約束させられた。
秋になってすっかり冬の制服に見慣れた頃、同じクラスの春名さんに好きだと言われた。その子とは中等部でも1年間同じクラスになったことがあった。べつに好きでも嫌いでもなかったけど、その子と話すのは嫌だと感じた記憶はなかった。俺の中で彼女は、まじめでマイペースなおとなしい女の子に部類されていた。あんまり関わり合いを持ったことがないカテゴリーだ。
春名さんが俺を好きだと言った時、彼女の手が震えていて、意味不明なくらい緊張しているのが見て取れた。俺は、もしかしたらマリカの前で自分はこんなふうだったのかもしれないと、目の前の女の子が哀れに感じた。マリカの「次はちゃんと正しい恋をして」という言葉が俺の頭の中を過ぎった。目の前の春名さんを眺めながら、マリカなら俺にこんな子を選ぶんじゃないかと思った。
だから俺は春名さんと付きあってみることにした。
俺は12月半ばに中型バイクの免許を取って、その1ヶ月後に中古のニンジャを購入した。それから何度も迷って、思い直して、やっぱりもう一度マリカと最後に見た景色を見に行く決心をした。
その日の昼間は春名さんが俺の部屋に来た。春奈さんが俺の初めての彼女になって3ヶ月くらい経っていた。なんとなく予想はしていたけど彼女はセックスの経験がなかった。俺は彼女が嫌そうならやめようと思っていたけど、そう見えなかったから結局最後まで続けた。
春名さんに触れてる間まぶたを閉じると、マリカの姿しか浮かばなかった。だからできるだけしっかりと目を開けて目の前の女の子に集中しようとした。けど、やっぱり春名さんに触れるとマリカじゃない感触だし、顔を埋めるとマリカが聞こえないし、一瞬でも目を閉じればマリカを想像しないことができなかった。最終的にあきらめて目を閉じながらマリカのことを考えた。できるだけ詳細に細かい彼女の感触まで思い出しながら。
マリカが日本を離れてからもう半年以上経っているのに、俺の中に残っている彼女の面影の濃さに自分でも驚いたし、ショックだった。
春名さんを抱いて、もう俺の世界にはマリカがいないことを再認識させられた。マリカに会いたくて仕方なくなった。最後の夜にふたりで見た景色をもう一度無性に見に行きたくなった。
あの場所へ行くことを決心してみると、俺はこの日のためにバイクの免許を取ってニンジャを買ったのかもしれないとさえ思った。
マリカと最後に会ったのは、彼女が日本を離れる4日前だった。世田谷の家からはすでに荷物が運び出されて、子どもたちふたりは大輝の母親の家で生活していて、マリカは港区にあるホテルに滞在していた。
傘を差してもあんまり役に立たないくらいの大雨と強風の中、俺はお昼過ぎに彼女のホテルの部屋に着いた。俺たちはそのまま部屋で夜まで一緒に過ごし、ルームサービスでご飯を食べてから、今日帰る気ないからと俺が言うと彼女は何も答えなかった。
俺はいつもより格段に口数が少なかった。わざとじゃないけど、話すことが見つからなかった。もう何日も前から俺の思考も心もフリーズしてる気分だった。
それから雨がだいぶ小降りになってきたのに気づき、翌日手放すことになっている彼女の愛車で最後にドライブに行きたいと言うと、彼女は喜んで承諾した。
「どこか行きたいところはある?」とマリカは笑顔で俺に聞いた。
マリカと少しでも長く同じものを見ていられるなら、俺は正直どこでもよかった。
「どっか、遠いところ」
俺が投げやりに答えると、マリカはタブレットで行き先を検索し始めた。
しばらくしてマリカは「よし、行き先、決めたよ」と微笑んだ。
俺は胸の奥にある重いものに押しつぶされそうなのに、どうしてこの人はこんなに屈託のない笑顔が作れるんだろうと思いながら、彼女の笑顔から目をそらして「どこ行くの?」と聞いた。
マリカは「陽太くん、海を見に行こう。夜の暗い海の音を聞きたい」と明るい声を出した。
マリカはベッドルームとバスルームを行ったり来たりしながら出かける準備を始めた。俺も重い体をベッドから起こして、シャワーを浴びてから服を着た。
マリカは身支度が整うと「もう雨もやんだし、明日は天気がよくなるみたいね」とタブレットを触っていた。
なんで明日の話なんてできるんだよ、と俺はいらだった。
今日も、どこからどう見ても、悔しいくらい、俺が知っている普段通りのマリカだった。
は夜10時過ぎにホテルから出発して、マリカは静岡方面に1時間ちょっと車を走らせた。車の中ではずっとボサノバが流れていた。時々マリカがハミングをしたり、小さな声で歌ったりしていた。
「マリカさん、これ、何歌ってるかわかるの?」と聞くと、「全然。あんまり理解したいとも思わないしね。ポルトガル語をこのまま音としてだけ聞いていたいの」と、ヘッドライトで方向が示された夜の高速道路をまっすぐ見つめながら答えた。
俺はたまに助手席からスピードメーターに目をやりながら、今日は珍しくけっこう飛ばすな、と思った。
その夜の車の中で、俺たちが知り合ってからあんまりなかった長い沈黙が何度も続いた。
高速から一般道に降りて海岸沿いをしばらく走ってから、マリカはナビに目をやりながら、海岸に降りられそうな場所を見つけて車を止めた。
車から外に出ると、都内よりも明らかに数度は低い温度の風に包まれた。下には真黒な海が波を海岸に押し寄せているのが見えた。マリカは階段を降りて浜辺に降りていった。俺は彼女の後を追い、砂の上を歩きながら空を見上げると、少し黄色がかった月が途切れ途切れの雲をやさしく照らしていた。
やわらかい世界を作っている月の光の中で俺の少し前を歩く、ベイビーブルーのシャツと白いスカートが風で揺れるマリカの姿は、光の中で生きている別世界の生き物のように見えた。彼女と俺の間には、どんなに手を伸ばしても触れられない壁があるみたいだった。
その瞬間に俺は、彼女との別れを突然実感した。彼女が遠くに行ってしまった寂しさを、すでに体験したような感覚に囚われた。尖ったものが俺の胸に突き刺さった苦しさを覚えた。
波の音にかき消されないように、声を絞り出すようにして「ねぇ……会えなくなるなんてやだよ。マリカさんを……触れなくなるなんてやだ……」と彼女の後ろ姿に投げかけた。
マリカは俺に振り返ると、少し驚いたような表情をしていた。
俺は今どんな表情をしてるんだろうと疑問に思った。
彼女は立ち止まり、俺の目を見つめながら優しく微笑んだ。
「大丈夫だよ、陽太くん。すぐに、今度は陽太くんがちゃんと自覚できるほど好きな人ができて、幸せになるから」
意味不明だ。いい加減なこと言うなよ。俺は、そんな気休めなんて聞きたくない。なんでもお見通しな風に言うなよ。俺の何を理解してるんだよ!
「なんでそんなことわかるんだよ?!マリカさんは、俺じゃない男と一緒に生活するんだろ……罪悪感で勝手に俺の未来を妄想するなよ」
俺のことを好きだと言いながら、なんでこの人は俺から去っていくのかどうしても理解できなかった。
「ねぇ、マリカさん。もし俺が10年……いや、15年早く生まれてたら、マリカさん、俺だけのものになってくれた?」
マリカは「うーん……どうなんだろうねぇ」と空を見上げてしばらく考え込んだ。
彼女の「うん」っていう即答を期待してたから、彼女の無言の反応に俺はひどいショックを受けた。
ようやく俺に向き直って「私には目の前の陽太くんが完璧すぎて、‘もしも違ったら’っていう仮定が思いつかないな。私が愛してるのは今の陽太くんで、何かが1ミリ多くても少なくてもこんなに惹かれなかったかもしれないって思うの。」とひとり言みたいにつぶやいた。
マリカはまたしばらく沈黙した後ゆっくりと俺の方に足を進め、俺の目の前で動きを止めると、俺の顔を正面から見上げた。それからゆっくりと、集中していないと聞き逃してしまうくらいの声で静かに話した。
「私ね……本心を言うと、大輝や翔には陽太くんと私のような恋愛はしてほしくないって思ってる。親子くらい歳の離れた女の人を相手に、10代でこんな恋愛関係なんて経験してほしくない。でもね……」
波の音がうるさい。
マリカは優しく俺の頬に右手をあてた。
「それでもね、身勝手だけど、やっぱり私は陽太くんと出会えてよかったよ。陽太くんを好きになってよかった。これをなかったことにするなんてできない……したくないの。」
マリカは俺の胸に顔を埋めて両腕を俺の背中に回して抱きしめた。
「陽太くんが私にくれた純粋な気持ちも、ふたりで一緒に過ごした時間も……なにもかもすべてが、きれいに描写された小説の中での出来事だったみたい」
俺の純粋な気持ちってなんだよ。
「マリカさん、何言ってるか全然わかんないんだけど……」
俺は上ずった声を出し、胸にしがみつく彼女の頭を両腕で包んで彼女の髪に顔を埋めた。俺の目から涙が流れていることに気がつくのに数秒かかった。
「陽太くん……今すぐにはわからないと思うけど、でもね、私と陽太くんにとってはこれがハッピーエンドなんだよ。だから、大丈夫……」
マリカは俺の顔を彼女の首に埋もれさせてから、左手でゆっくり俺の背中をなでた。「陽太くん、愛してるよ。私は、陽太くんが……」と一呼吸おいて「すごくいとしいの」とやさしく俺の額にキスをした。
俺は「好きだとか愛してるなんて、俺は一度も言ったことないじゃん。だって俺、マリカさんのこと本当に好きかわからないし。っていうか、俺は誰も好きになったことない」
マリカは、うん、と言って俺の背中を撫で続けていた。
「ねえ、陽太くん……ひとつだけ、私のお願いを聞いて」
俺は無言で彼女が続けるのを待った。
「これから……きっと思ってるよりすぐに、陽太くんはちゃんと誰かを好きになって、幸せになれるよ。だから、お願い。これからはちゃんと自分の気持ちと向き合って、大切にして。そして、正しい恋をして。ひとりの女の子をまっすぐに愛せる、強いすてきな男の人になって」
マリカは俺の背中を撫でながら続けた。
「陽太くんのことを好きになる子はたくさんいるだろうから……そうだなぁ、見極めるポイントは、相手の子の内面にひとつでも強く惹かれる点があること、かな。それから、その子の陽太くんへの気持ちも、その子自身に対しても誠実な子、かな」と一呼吸おいて、「やだな……私、なんかおばさんだねぇ。あー、老いを感じさせる発言をしてるなって自覚しちゃった」と少し笑った。
俺には彼女の行動も発言もまったくの理解範囲外のもので、ただ混乱した。
「俺は、マリカさんがほかの男といるところなんて想像できない……したくないよ。なんでマリカさんが俺のことをそんなふうに思えるのか全然わかんない」
マリカを抱きしめる俺の腕に力が入った。
「そんなんで、どうして俺に愛してるなんて言えるんだよ」
俺は彼女との別れで押しつぶれそうなのに、マリカが俺の今後を心配してることがひどく腹立たしく感じた。俺の混乱している気持ちを彼女にぶつけてやりたくて、細い体を強く抱きしめながら彼女の口を俺の口で乱暴にこじ開けた。
自分がなぜ泣いているのか、どうしてこんなに胸が苦しいのか、どうすればこの状態から抜けられるのかわからないまま、俺はぶざまにあがいていた。
こんな感情で俺を埋め尽くすマリカが、ただひたすら恨めしかった。
俺は何をしても収まらない感情に苛立ち、彼女の肩を押しやった。
「もういい。イタリアでもどこでも行って、幸せになってよ。俺のことなんか早く忘れてよ」とマリカを突き放して、足早に雨で湿っている砂浜の上を歩いた。
俺はどこへ向かって歩いているのか自覚のないまま、しばらく歩き続けてマリカから遠ざかった。誰もいない夜の海岸で涙も声もこらえずに泣いた。しばらくたって立ち止まり、大きく目を見開いたまま顔を空に向けた。
息もできないほど泣いたのなんて何年ぶりだろう。目が痛い……
涙でにじんだ柔らかな月の光に照らされた雲が空を飾っていて、少しだけなぐさめられた感じがした。
俺は夜10時くらいに家を出て、買ったばかりのバイクを小一時間走らせ続けて高速を降りると、記憶とナビを辿りながら一般道を走り、見覚えのあるガードレールを見つけた。バイクを停車してエンジンを止めた。バイクから降りてヘルメットを外すと、走っている間に完全に忘れていた突き刺すような寒さが、俺の顔の熱を一気に冷ました。
半年前にマリカと歩いた階段を降りて、浜辺に足をのせた。あの時この場所で、異世界のように幻想的に見えた風景はもうどこにもなかった。あの夜やさしい光を降り注いでいた月は、今日は寒々とした青白い光を放っている。そして、俺の視界を輝かせてくれていたマリカが隣にいない。目を閉じてあの日のマリカを必死に思い出そうとするけど、風になびく彼女の白いスカートや、色素の薄い髪の色を断片的に思い出せるだけだ。彼女が俺をどんなふうに抱きしめたか、キスしたのか思い出したくても、もう俺の身体のどこにも感触は残っていなかった。彼女が俺の前からいなくなって以来、今ようやく彼女の不在を体感させられている気がした。もうこの腕で彼女を抱きしめることがないのだと思うと、息をするのも苦しいくらい胸が痛くなった。
俺は誰も好きになったことがないと思っていた。でも俺のことを好きだという春名さんを見ていると、彼女の一挙一動がマリカの隣にいた俺自身と重なって見える。
俺はマリカが好きだ。愛してる。
一度認めてしまうとすべてに納得がいったし、俺たちの関係がもっとはっきりと見え始めた。マリカが俺を好きな気持ちより、俺の彼女への気持ちの方がずっと強かったんだ。
マリカに一度も言ってない、好きだって言葉を無性に伝えたい。あの人はどんな表情をするんだろう。きっと俺を優しく抱きしめて、「私も陽太くんが好きだよ」ってささやくんだろうな。
でもそんな現実はもう存在しない。
「愛してる」と俺の瞳の奥をのぞき込みながら言うマリカに、「俺もマリカさんを愛してる」と答えたかった。一度でもいいから俺の気持ちを素直に彼女に伝えたかった。
俺はやりきれない思いに押しつぶされそうになりながら空を仰いで、凍りつく空気を大きく吸い込んだ。
俺の胸の中に、この夜空みたいに大きな真っ暗な空洞ができた気がした。
いびつな純愛 続 七音 @NaotoClassique
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